浄土宗を批判して、「苦しい修行は必要ない、また、学問をすることも不要、阿弥陀仏にすがってお念仏だけをしていればいい宗教だ!」などと言われることが度々あります。果たしてそうなのでしょうか?
我々浄土宗の僧侶はいかにあるべきか? ということを考えてみましょう。宗祖法然上人が、ご遷化の二日前に書き示された『一枚起請文』によれば、「ただ一向に念仏すべし」と言われております。これを取り上げて、修行も勉強も必要ない、そう宗祖が仰っているというのでしょう。それは違います。二十五年間も経蔵にこもり、「大蔵経」を五度も繰り返し読み込まれた法然上人が、「一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして」と書き示されたことは、申すまでもないことですが学問知識を振りかざしてはいけませんということに他ならないのであります。平成二十六年度の『布教羅針盤』に、林田康順師が詳しく解説をされておりますのでご一読ください。
我々はこの法然上人の心を自分の心として、檀信徒はじめ多くの人々に説く必要があります。人に教えを説こうとするならば、多くの書物を読み、知識を得る為に勉学を重ね、皆さまに法然上人の教えを知ってほしいと思うようでなければ、聴いてもらえないと存じます。僧侶が自らを信じ、他を信じせしめる「自信教人信」の心が大切です。
これは宗教に限ったことではありません。学校で学問を教えるときも、社会に出て会社経営を考えるときも同じでしょう。高い位置から、人に教えを説いていると考えてはいけません。檀信徒はじめ多くの人々と対等な立場で向かい合う、一緒にやっていくという心が必要なのではないでしょうか。
僧侶自身、自分は学問も得、また修行も出来た、だから人々に教えを説くのだという考えを捨て、自分の信じる教えを一緒に信じてもらいたいという気持ちになってこそ、聴く人々の心を打つと考えます。
以前も申し上げたかと思いますが、近代日本においては、西洋のキリスト教思想が主流になり、東洋の仏教思想が忘れられています。仏教思想というと何となく古臭い、抹香臭いものと思う人もあるようです。そしてまた、「あなたの宗教は何ですか」という問いかけに、「特にありません」という回答が多いようでもあります。そんな社会でよいのでしょうか。
我々僧侶が怠けていると言われているような気がします。日本人の心には仏教思想が必要ですし、知らず知らずに根付いているものです。
昨年一年をふりかえってみると、水害による土砂崩れや、火山の噴火で降り注いだ噴石によって多くの人が尊い命をなくされた悲しいことが起こっております。そうした中、災害救助にあたった方たちが、土砂に埋まった人々を最後の一人まで見つけようと自身の危険もある中で努力されている姿、また、四年前になりますが東日本大震災の大津波で海にさらわれた人々を見つけようとする人たちの心、そこに日本人の仏教思想を感じたのは私一人だけではないと思います。
命を大切にするということは仏教に限ったことではありませんが、西洋の合理主義では理解出来ない東洋の仏教の心なのではないでしょうか。日本には仏教教団も数多くありますが、どの教団も命に対する考え方はあまり差異がないと思います。
たとえ失われた命も、極楽浄土に生まれさせていただける我々浄土宗の教えこそが、多くの人々の共感を呼び、心に響く教えではないでしょうか?そんなことを考えます。
宗祖法然上人が、幼い頃、父君を亡くされた折のご遺言を心に留め、自分自身が救われるだけの仏教ではなく、多くの人々が、しかも力のない人でも、学問のない人でも救われなければならない、と考えられたからこそ、誰よりも聡明で、当時の一番の学僧という評価を受けたことにも満足せず、ただただ学問をし「教うるに人もなく、示すに輩もなし」と嘆きながら経典を読み続けること二十五年、辿り着かれた尊いみ教えをいただいている我々浄土宗門は、そのみ教えを伝えていく使命があります。この教えを広め、世界に発信していくことこそが、浄土宗の使命なのであります。
「二十一世紀劈頭宣言」は、今後百年の浄土宗の指針であることは論を
浄土宗の僧侶は、最も優れた教え、法然上人のみ教えを、檀信徒はじめ多くの人々にお伝えしなければなりません。毎年発行されているこの『布教羅針盤』を熟読され、その意味するところを伝えてこそであります。日本の仏教は、まさに法然上人の仏教なのであります。我が身をもって知らしめていかなければなりません。浄土宗僧侶の意識改革・資質向上が必要であります。一宗を挙げて法然上人の心を伝えてまいりたく存じます。
合 掌
平成二十七年 四月