教諭を拝して
釈尊は四苦について生・老・病・死といい、これを人生の苦悩の根本原因であるとしている。すなわち、生まれること、老いゆくこと、病にかかること、死ぬことの苦しみをいう。人間は死ぬべきものであることを明らかにし、一切の生きとし生けるものは、死すべき存在であると釈尊は説かれている。
哲学者の中村雄二郎氏によると、
およそ人間は、この世に生きているかぎり、本質的に弱味を持った傷つきやすい肉体をそなえ、いわば死と背中合わせに生きている。ギリシア哲学の昔から、人間は〈死すべき存在〉として定義づけられてきたのは、そのためである。一人ひとりがどれだけ意識しているかは別として、誰でも自分の無力や自分の存在の無意味さを感じていない者はない。だからひとは、かえってそれを感じたがらないのである。(1)
といって、人間は死すべき存在とし、「誰でも自分の無力や自分の存在の無意味さを感じていない者はない。だからひとは、かえってそれを感じたがらないのである」と述べていることは、平成二十七年の教諭のなかで「現在の日本の社会では死の実感が社会の様々な面で抜け落ち、死と向き合う経験が減少しています」と述べていることと相共通している。
そこで今、教諭に掲げてある『往生浄土用心』の原文をみていくと、
また軽き病をせんと祈りそうらわん事も心賢くはそうらえども、病もせで死にそうろう人もうるわしく終る時には、断末摩の苦しみとて、八万の塵労門 より無量の病、身を責めそうろう事、百千の矛剣 にて身を切り裂くがごとし。されば眼 なきがごとくして見んと思うものをも見ず、舌の根竦 みていわんと思う事もいわれずそうろうなり。これは人間の八苦のうちの死苦にてそうらえば、本願信じて往生願いそうらわん行者もこの苦は逃れずして悶絶 しそうろうとも、息の絶えん時は阿弥陀仏 の力にて正念 になりて往生をしそうろうべし。臨終は髪筋 切るがほどの事にてそうらえば、よそにて凡夫定め難くそうろう。ただ仏と行者との心にて知るべくそうろうなり。(2)
といって、臨終のときは、本願を願う者でも死の苦しみが襲ってくるとしている。人の息の絶える時には、死の苦しみといって、八万四千という無数の迷い心から数限りない病気が身を苦しめることは、百千という数多くの矛(鉾)や剣で身を切り離すような苦しさである。それゆえに眼のないのと同じで、見ようと思う物も見ることができず、舌の根もとがこわばって、言おうと思うことも言うことができない。これは人間の受ける八つの苦しみの中の一つである死にぎわの苦しみというものである。阿弥陀如来の本願を疑わないで、極楽往生を願う念仏の行者も、この苦しみは避けることはできない。たとえ、もだえて気絶するにしても、息を引き取る時に阿弥陀如来の本願の働きによって、心を乱さないで往生するであろう。いまわの時は髪の毛を切る間のように、きわめて短い間であるから、正念で往生したか否かは、凡夫がかたわらで見ても分かるものではない。ひとえに仏と念仏の行者との心のみが知ることができる、としている。
『往生浄土用心』の次の原文をみていくと、
その上、三種 の愛心起りそうらいぬれば、魔縁便 を得て正念を失いそうろうなり。この愛心をば善知識 の力ばかりにては除き難くそうろう。阿弥陀仏の御力 にて除かせたまいそうろうべくそうろう。諸邪業繋無能礙者 、頼もしく思召 すべくそうろう。また後世者と覚しき人の申すげにそうろうは、まず正念に住して念仏申さん時に仏来迎したまうべしと申すげにそうらえども、『小阿弥陀経』には「諸の聖衆とともに現にその前に在す。この人終る時心顚倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」とそうらえば、人の命終らんとする時、阿弥陀仏聖衆とともに目の前に来たりたまいたらんをまず見まいらせて後に、心は顚倒せずして極楽に生まるべしとこそ心得てそうらえ。されば軽き病をせばや、善知識に遇わばやと祈らせたまわん暇 にて、いま一遍も病なき時念仏を申して、臨終には阿弥陀仏の来迎に預かりて三種の愛を除き正念になされまいらせて、極楽に生まれんと思召すべくそうろう。(3)
といって、臨終には、三通りの愛着の心(
同じく『往生浄土用心』には、
ただし人の死の縁は予 ねて思うにも叶いそうらわず。にわかに大路 、径 にて終る事もそうろう。また大小便痢のところにて死ぬる人もそうろう。前業逃れ難くて、太刀小刀 にて命を失い、火に焼け水に溺れて命を滅ぼす類 多くそうらえば。(4)
といって、人が死に至る因縁はさまざまで、つねづね思っている通りに、なかなかなりにくいのである。それは、だしぬけに都大路などで亡くなることもある。そのほか大小便の不浄処で果てる人もいる。また前世の行いの報いからは免れることが出来ないで、太刀や小刀などで命を落とし、あるいは火に焼かれたり、水におぼれたりして死ぬような人たちも少なからずいる。しかし、そのように思いがけず死んでも、かねがね念仏をとなえて極楽を願う心さえ持っている人ならば、息が切れるときに、阿弥陀如来や観音菩や勢至菩が迎えに来てくださるだと信仰するのがよい、という。ここでは死の縁(人を死に至らしめる現在の手づる)と念仏との関係を力説している。
ここで、教諭で述べている「人の断末魔の苦相と念仏、来迎、正念による救済構造」について考えていくと、法然上人の場合は臨終→来迎→正念→往生という次第順序であるが、善導大師の場合は、『往生礼讃』のいわゆる「発願文」に、
願わくは弟子等、命終の時に臨んで、心倒せず、心錯乱せず、心失念せず。身心に諸諸の苦痛なく、身心快楽にして、禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ。(5)
といって、法然上人とは異なり、臨終→正念→来迎→往生という次第順序になっている。
また教諭でいう「お迎え話」について、
これは「教説」と「信仰の現場」との隔たりということになるでしょう。両者の「あいだ」「隔たり」を意味あるものにしなくてはなりません。
と述べているが、これは「フィールド」(教説)と「現場」ということを意味するものと思われる。たとえば一念の間に往生するというのはフィールド(教説)の立場であり、これに対して中陰というのは現場の立場である。フィールド(教説)の立場について、『観無量寿経』下品下生のなかで、
命終の時、金華 の、なおし日輪のごとくなるが、その人の前に住するを見る。一念の頃 のごときに、すなわち極楽世界に往生することを得。(6)
といって一念のあいだに極楽に往生するとしている。また法然上人が『往生要集釈』に、
往生というは此を捨て彼に往き華に化生 するなり。草庵に目を瞑 ぐの間、台に跏 を結ぶの時なり。すなわち弥陀仏の聖衆の後に従い、菩衆の中に在りて、一念の頃に西方極楽世界に生ずることを得。故に往生と言うなり。(7)
といって一念の間に往生するといっている。この立場がフィールド(教説)であり、これに対して中陰は現場の立場である。中陰とは有情が死んで、次の生を受けるまでの中間の存在(有)をいう。有情が死の瞬間(死有)から、次の生を受ける(生有)までの中間の時期をさすが、この期間が四十九日あるという説が普及してから、のちには死後の四十九日間を中陰といい、四十九日目を満中陰として死者の冥福を祈る習慣が生じたのである。この中陰の立場を現場という。(8)
最後に教諭のなかで、
「怯弱心のない平生念仏」が肝要だと説かれています(『逆修説法』)。
といっているが、『逆修説法』で、
尋常の行業において怯弱の心を起こさざれ。此れは是れ行者の至要なり。(9)
といって平生の念仏が大切であるとしている。
[註]