四、お念仏の申しやすい暮らしを
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰 く
「現世をすぐべきようは、念佛の申されんかたによりてすぐべし。念佛のさわりになりぬべからん事をば、いといすつべし」と。(十念)
(『元祖大師御法語』前篇第十八)
皆さん、寒い中をようこそお参り下さいました。ありがとうございます。本日のご法要は法然上人の御忌会でございます。宗祖法然上人が建暦二年正月二十五日に知恩院の勢至堂あたりで、お歳八十歳で阿弥陀如来さまのお迎えを頂き、浄土に往生されました。今年で八〇三回忌にあたります。私の人生は法然上人のみ教えにめぐり逢わなかったら迷い苦しみ空しい人生になって後悔したことでしょう。ご当山の庫裡の床の間に法然上人の御影が掛けられてございますが満月のように円満で、心穏やかで、温雅で、慈悲があふれるお姿を拝見しますと感謝の気持ちで一杯になり涙がでます。そして、その慈愛の眼差しに接しますと心に温もりを感じます。ご当山では十年前に五重相伝でご縁を頂いて以来、毎年このように御忌会にお招きいただきまして、私淑しています法然上人のみ教えを布教させていただき本当に嬉しく思います。
来月はロシアでソチ冬季オリンピックが開催されますね。夏季五輪は二〇二〇年に東京で開催されることが決まりました。このニュースを聞いて日本人は皆喜びましたね。各地へ布教にまいりまして出会いましたお年寄りたちは、頑張って東京オリンピックを観てから死にたいと口々におっしゃいます。生きる目標を得られたようですね。皆さんは如何でしょうか?
人間は目標を持ちますとそれに向って努力します。メダル候補の選手たちは目標が幼いころからはっきりしているようです。メダル獲得のためにライフスタイルを選び、一つに決めて毎日、毎年と何年も努力して技術を向上させるために練習します。その種目のスポーツ中心のライフスタイルで他のことを棄てて専念していますね。やはり世界一になるにはライフスタイルを選び、専念することはとても大切なことだなぁとつくづく思いました。それで今日は、念仏を申しやすいライフスタイルについて法然上人のお言葉を通してお伝えしたいと思います。
さて、讃題に拝読しました文章は法然上人がお弟子の禅勝房(一一七四-一二五六)の問いにお答えになられたお言葉でございます。禅勝房についてご存知ない方もおられるかと思いますので少しご紹介します。
遠江国、今の静岡県の蓮華寺に住んでいた僧侶で天台宗の教義に精通していましたが、とてもこの教えでは自分には生死解脱は難しいと思っていました。二十九歳のときに熊谷入道蓮生房に会い、法然上人の選択本願念仏による往生のみ教えを知り学びました。禅勝房はさらに法然上人に直接会って教えを学ぶために蓮生房に紹介状をもらい、京都の吉水にお住まいの法然上人に弟子入りします。禅勝房は法然上人を給仕する弟子たちのなかで、信心が堅固の誉れ高いお方でありました。専修念仏の行者といわれるくらいに熱心に念仏をなさいました。その信心の堅固さについて逸話が残っています。
禅勝房はある念仏者に「あなたは念仏往生することについて、どれぐらい心に固く決心していますか?」と尋ねますと「左の拳を右の拳で打とうとすると、打ちそこなうことはないでしょう。それほどに確実なことだと思っています」と答えました。すると禅勝房は「まあ、それは危ないことですね」と言いますと、その念仏者は驚いて「それではあなたはどのように心に固く決心しておられるのですか?」と尋ねました。禅勝房は「命ある者は必ず確実に死にます。それと同じように念仏すれば確実に往生すると思っています。自分の拳で自分の拳を打つ時には、たまに打ち外れることもあるでしょう」と答えられたというのです。禅勝房はいつも法然上人のお側にいて質問したりして、その時に感動した法然上人のお言葉が「禅勝房伝説の詞」や「禅勝房に示す御詞」として残り伝えられています。讃題にご紹介した法然上人のご法語もその中の一つでございます。
禅勝房は、故郷に帰る頃には法然上人のご指導により、阿弥陀如来さまの救いについての疑問もすべて晴れて、ひたすら念仏をとなえると来世には極楽に必ず往生できると信じられる身の上になっていました。そこで禅勝房はこれから故郷に帰り、どのように生活して過ごしたらいいのか、つまり念仏者のライフスタイルを法然上人に尋ねます。
法然上人は「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん方によりて過ぐべし。念仏のさわりになりぬべからん事をば厭い捨つべし」とお答えになりました。意訳しますと「この世の過ごし方は念仏をとなえ易いようにして過ごすのがいいのです。念仏して過ごすのに妨げになるようなことは避けて捨てるとよろしい」となります。
いろんな生活の仕方がございますが、念仏を優先し、念仏を中心にして、念仏を続けやすいライフスタイルにしなさいというアドバイスですね。法然上人は念仏の起行の用心については「ひたすらに」とか「一向に」念仏するように常に弟子たちに教えていました。それを「専修念仏」と申します。『一枚起請文』にはご存知のように「ただ一向に念仏すべし」と遺訓を残しておられます。それでは「専修念仏」をする生活は具体的にどのように暮らせばいいのでしょうか? さらに法然上人は禅勝房に念仏者のライフスタイルを詳しく話されます。
1、同じ場所にいては念仏をとなえられないのであれば、諸国を巡って念仏をとなえるとよろしい。
2、諸国を巡って念仏をとなえることができなければ、同じ場所に留まって念仏をとなえるとよろしい。
3、聖となって独身で念仏がとなえることができなければ、在家になって結婚して妻子と一緒に生活して念仏をとなえるとよろしい。
4、在家になって念仏をとなえることができなければ、世を捨てて念仏をとなえるとよろしい。
5、お堂に一人こもって念仏をとなえることができなければ、仲間と共にこもって一緒に念仏をとなえるとよろしい。
6、仲間と共にこもって一緒に念仏をとなえることができなければ、自分一人だけこもって念仏をとなえるとよろしい。
7、生活を維持するのが難しくて念仏をとなえることができないならば、他人に経済的援助をしてもらって念仏をとなえるとよろしい。
8、他人に生計を支援してもらっては念仏をとなえることができないのであれば、自立自活して念仏をとなえるとよろしい。
9、妻や子供たちや従属している人たちや一族の身内がある者は、自分がそれらに助けられてお念仏をとなえるためであります。
10、もしも、妻や子供たちや従属している人たちや一族の身内の人が念仏の妨げになるならば、決して持つべきではありません。
11、自分の治めている土地や領有している土地があることも、お念仏の助業となるなら大切なものです。
12、もし念仏の邪魔になるならば、それらはない方がよろしい。
と十二項目も禅勝房に丁寧にお答えになりました。
法然上人が、これらの念仏者のライフスタイルの指標をなぜ詳しく説かれたかと言いますと、上人は「これらを一つにまとめて言えば自身が安穏に過ごして念仏によって極楽往生を遂げるためには何事もすべて念仏の助けとなります」とおっしゃるのでございます。十二項目の事柄のすべてを一言で言えば、「心平和に安らぎのある日暮らしができて極楽往生を果たすことができるし、それらの生活する条件がすべて念仏するために役立つようになる」と説いておられるのです。さらに法然上人は、極楽往生のために念仏生活すれば私達の命も尊く大切なものになりますが、享楽的な生活を目指しますとこの命は地獄・餓鬼・畜生の三悪道という迷い苦しむ世界に堕ちる悪業となりますよと警告をしておられます。ですから現世の過ごし方は念仏を優先し、念仏中心で、念仏の継続をすることはとても大切ことであると私たちは心掛けなければなりません。
皆さんは十年前にご当山で五重相伝を受けて、法然上人のみ教えを伝授されました。生死解脱のために極楽往生を目指して念仏することが本当の幸福を得る人生であることを学ばれました。その人生の目的を実現するために日課念仏三百遍以上を、ご本尊阿弥陀如来さまのみ前でお誓いになりましたね。それ以来、お念仏優先、お念仏中心の生活を過ごされて念仏を相続なさってこられた方が多いことでしょう。誠に尊いことでございます。法然上人もきっとお喜びのことでございましょうね。
しかし、五重相伝を受けてからお寺にお詣りしないし、聴聞もしないし、念仏もとなえないし、集中的に念仏をとなえる別時念仏会のご案内を受けても参加しないで、忙しい忙しいと生活に追われて、念仏を後回しにして念仏する時間がないお方もおられるかもしれません。そんなお方は案外、ネオン街を徘徊する時間はあるようで、享楽を目的にしたライフスタイルにもどってしまっているようですね。悲しいことです。空しいことです。これでは貪瞋の煩悩の奴隷になってしまい元の木阿弥ですね。大切な命も地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる原因となってしまいます。私たち凡夫は普段は貪りや怒りの心に気付かないことが多いのですが、好きなものや欲しいものに出会うと自動的に貪欲が起こりますし、また思い通りにならないと自動的にカッと怒りがこみ上げてきます。
何かの本で読んだことを思い出します。それは、ある素敵な老婦人のことです。若々しく謙虚で清貧な生活をなさっておりました。ある日、よく利用する銀行から電話がありました。銀行員が言うには、
「振り込みのお知らせでございます。○○銀行からあなたの銀行口座に本日、一億円の入金がありました」
と。
老婦人は「エッー、そうですか?」と驚き返事したものの、ボーとしている間に電話が切れました。変だな、そんなバカなことがあるのかな? 大金だし、聞いたこともない銀行だし、何かの間違いかもしれないと打ち消しますが、しかし、銀行が間違う訳がないしなぁと思うと、自分の口座に今、一億円、一億円と早鐘のように頭のなかをグルグルと廻りました。心を何とか鎮めようとして、部屋を片づけたり台所を掃除したりしても、見たこともないような大金が頭のなかで浮かんでは消え、消えては浮かんできます。日ごろの清貧な生活にはとても縁のない贅沢品が次々と浮かんできました。ミンクの毛皮のコート、大島紬の着物、高級ブランドのカバン、宝石のネックレス、若いころから憧れていたイタリア旅行、古くなった家の改築計画など次々と浮かんできたのでした。その時の心境をその老婦人はあとで友達に告白したそうです。
「笑わないで聞いてね。自分は常日頃から人に比べて、そういう欲望は少ない人間だとてっきり思いこんでいたわ。贅沢な生活をしている人達を見ても羨ましいと思いませんでした。
さて、その十数分後、その老婦人はアレが欲しい、コレを買いたいと次々と思い浮かべている最中にまた銀行から電話がありました。同じ銀行員が、
「奥さま、先程は電話で失礼致しました。一億円の振り込み先は違うお方の口座でした。当行の手落ちで誠に申し訳ありません」
と平謝りでした。
普通の人なら「なーんだ。そんな筈はないよね」と一笑に付して一件落着というところですが、その老婦人は大変潔癖で清貧な生活を心掛けて自分に厳しく少欲知足の気持ちで暮らしておられましただけに、ショックを受けて寝込まれたそうです。欲望まみれの不潔な生活が嫌いで清浄な生活を心掛けていたのに、突然に大金の振り込みの誤報によって普段気付かないような欲望が次々と起こり、短い時間の間とは言え、愚かな空しい夢に酔ってしまったことが恥かしくて悔しくてたまらないと言っておられたそうです。お金の魔力は恐ろしいですね。この老婦人のことを誰も咎めることはできないでしょう。
皆さんは蛇が好きですか? 好きだという方は少ないですよね。ここに蛇が十匹いるとします。皆さんに無料でプレゼントしますから欲しい方は手を挙げて下さいと言っても、どこの会場でも手を挙げるお方はおられません。しかし、実はこの蛇が純金でできていますと説明した瞬間に皆さんの目の色が変わります。十匹の純金製の蛇ですから何億円になるのでしょうか? それを無料で差し上げますと言いますと、たくさんの方々が次々と手を挙げられるでしょうね。
善導大師は「貪欲は『順境』によって起こる」とおっしゃっています。「順」とはしたがうこと、「境」は目と耳と鼻と舌と身の五感と心の対象となるもので、その対象に従って起こる煩悩のことです。それらは人間の心を汚しますから「塵」といいます。好きなものや気に入ったものを対象にしたときに「欲しい」という気持ちが起こり執着します。つまり
浮世草子の作者である井原西鶴は「人間とは欲に手足をつけたようなものだ」と言ったそうです。古人が読んだ歌に「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道見えぬなり」とか「同じ二つ目を持ちながら 欲に目のない人もあり」などがございます。欲に目がくらんでしまって、義理や、人情や、友情や、倫理や、法律などが見えなくなり、人の道を踏み外して貪欲の奴隷になってしまう姿をよく詠んでいますね。食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、金銭欲など、皆欲望でありますがそれらの欲がどんどん深くなっていきますと社会生活も失い、尊い命をも失ってしまうことになりかねません。
もう一つの煩悩である怒りの心については、善導大師が「違境」によって起こるなりとおっしゃっています。自分の五感や心に違う対象に出会いますと、怒りの心がパッと火がついたように起こることです。解り易く言いますと自分と違うもの、気にいらないものに出会ったりして思いどおりにならないと、カッとして怒りの心が起こるということであります。短気腹立ての人を称して「瞬間湯沸かし器」といいますね。近づくと火傷しますから嫌われます。
火には、すべてを焼き尽くす破壊力があります。古人の歌に「腹立ちし 時はこの世も後の世も 人をも身をも 思わざりけり」がございます。燃え盛る怒りの炎は、人徳も、地位も、財産も、自分の命や人の命をも焼き、破壊してしまいます。顔が真っ赤っか、真っ青になり、目尻がつり上がり、呼吸が荒くなり、心臓がドキドキして、手足が震えて怒りをコントロールできなくなります。まさに赤鬼や青鬼の恐ろしい形相になります。石と鉄は持つと冷たいですね。火の気が全くないような物質ですが、双方を強くぶつけますと火花が出ますね。それと同じように普段は怒りの心が全くないように思っていますが、気にいらない対象に出会いますと、石と鉄をぶつけて火花が出たようにカッと腹が立ってきますし、憎しみも起こりますね。古歌に「腹立てば 目上も人もなかりけり 己れが身をも 焼きつくすなり」とありますが、本当に怒る心は恐ろしいですね。私の師匠がよく法話で「じっと堪えよ、三分間」とおっしゃっていたことを思い出します。
法然上人は「人の心はさまざまですが、だだ、ひたすらに夢幻のような浮世で儚い享楽や栄華を求めてばかりで、まるで後の世のことなどを考えない人もいます」とおっしゃっています。貪欲瞋恚の煩悩に振り回されて生きている人間の姿は法然上人の時代の人間と現代に生きる私たちと変わりません。テレビはグルメや買い物など、五感や欲望を刺激するような享楽的な内容の番組が多いですからね。お金さえあれば何でも買えて手に入れることができると思っている人がたくさんいます。古歌に「思うこと 一つ叶えばまた二つ 三つ四つ五つ 六(難)かしの世や」がございますね。本当に生きるのは難しいことです。しかし、人は病の苦しみや、老いる苦しみや、死の苦しみを経験して静かに人生を振り返ったりして自分を見つめた時とか、また念仏を申して光明を頂いた時などに、人生の真理に暗く盲目的な意志活動によって貪欲や瞋恚に振り回されている自分に気づかされます。
仏教では生死の海に迷い、罪を犯し、苦しむ原因はすべて貪欲、瞋恚、愚痴から起こると教えています。それらは三毒の煩悩と言いまして罪・闇・悩みの根本原因ですね。浄土宗のお経本に「我昔所造諸悪業」「皆由無始貪瞋痴」とございましたでしょう。禅勝房は自分のその煩悩に気づき、自分の力でどうすることもできないので絶望します。禅勝房は法然上人にその悩みをご相談すると「自分たち凡夫の煩悩は前世からの習慣性だからどうすることもできません。ですから、阿弥陀如来さまは私達凡夫を生まれつきのままで、煩悩をもったままでも、私たちが一念南無阿弥陀仏ととなえれば一度の往生をあてがって私たちを救済しようと起こされた本願であるから、大丈夫ですよ」とお答えになられたのでした。
また、法然上人は「この度の人生で煩悩がありながらも阿弥陀さまが必ずお迎えくださること(来迎)をうれしく思い
また、「私たちを苦しめ、迷わす、貪りや怒りの煩悩は私たちの敵とも言うべきですが、それらの煩悩に縛りつけられ、籠のような三界の迷いの世界に閉じ込められている私たちです。そんな私たち凡夫を慈悲深い母のような阿弥陀仏の深いご救済の願いによって、名号という鋭い剣で、迷いの世界に縛られるきずなを断ち切り、本願という救済の約束の船を苦しみの海の波間に浮かべて、極楽の岸に着けてくださってお救い頂くのだと思うと、嬉しさのあまり喜びの涙で袖を絞るほど濡れて、阿弥陀如来さまを仰ぎお慕いする思いで心がいっぱいになるでしょう」と、絶望から希望への念仏体験を弟子におっしゃって「救われる喜びの念仏」を勧めておられるように思います。
禅勝房は享楽的なライフスタイルに終止符を打って「救われる喜びの念仏」を生活の中で実践するために、念仏者のライフスタイルを法然上人に尋ねました。そのお答えが冒頭で讃題に拝読いたしましたように「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん方によりて過ぐべし。念仏のさわりになりぬべからん事をば厭い捨つべし」という尊いお言葉でございました。
さらに法然上人は、享楽的な生活に陥らないように十二項目のご指南を示して、心平和に安らかに暮らす念仏者のライフスタイルを説かれたのでした。
禅勝房が京都を離れて故郷に帰る時に、法然上人は京都のお土産だよと申されて「聖道門の修行は智慧を極めて迷いの世界を離れますが、浄土門の修行は愚か者に立ち返り極楽浄土に往生するのだと心得なさい」とおっしゃっていました。禅勝房は法然上人の慈愛に満ちたお言葉を胸に秘めて帰ります。禅勝房は師僧の十二項目の念仏者の過ごし方のアドバイスを吟味して自分にあった念仏優先、念仏中心、念仏継続のライフスタイルを選びました。皆さん、禅勝房はどんな念仏者のライフスタイルを選んだと思いますか?
隆寛律師が陸奥の国に流罪されて赴く途中、遠江国にいるはずの禅勝房に会いたいと思って蓮華寺を尋ねますが見つかりません。隆寛律師は近隣の地頭たちに尋ねますと「禅勝房という坊さんはいないが、禅勝という大工さんならいる」とのこと。隆寛はその大工さんあてに手紙を出して再会することができて、お互いに涙を流して喜び昔話をされたというのです。何と、僧侶の生活を捨てて大工さんになって自活しながら在家の生活をなさっておられました。禅勝房にとって念仏を相続するためのライフスタイルにそれが一番いいと考えて決められたのでしょう。念仏を申しやすい過ごし方として僧侶の生活を捨て、愚者に徹した禅勝房の決心と覚悟は凄いですね。隆寛律師は禅勝房と歓談の後、別れを惜しんでいるとその弟子のひとりが別れを前に何か一言お言葉をくださいと禅勝房に頼みました。禅勝房はしばらく沈黙したあと、
念仏優先、念仏中心、念仏継続に専念してきた禅勝房のその言葉は重いですね。南無阿弥陀仏ととなえる習慣性を身につける念仏者のライフスタイルですね。
禅勝房は二十九歳から、ひたすら念仏をとなえるほかには決して他の修行はしなかったのです。大工さんとして自活して念仏優先、念仏中心、念仏継続するライフスタイルを貫かれて八十五歳になった正喜二年(一一五八)の九月ごろからは少し病気に苦しまれることがありました。
亡くなられる日の五、六日前に不思議なことですが、すでに五十四年前にご遷化された法然上人の慈愛に満ちたお姿を拝まれました。十月三日の午後八時頃に「蓮華が降っている。皆さん、これを見なさい」と話されました。また「ただ今、阿弥陀如来さまや菩薩たちがお迎えにこられる気配がある」と示されました。翌日の午前三時頃になって「観音菩薩と勢至菩薩がすでにお迎えに来て下さっていますから」と言って、自ら起きて姿勢を正して座り、合掌して大きな声で念仏を三度となえてから息を引き取られました。正嘉二年、今から七五八年前の十月四日の午前四時頃でありました。
皆さん、これは実話でございます。私の師僧の奥さまがそれと同じ体験されました。仏の来迎は現代でも本当にあるのですよ。
さて、讃題にございましたように、禅勝房は法然上人の懇切丁寧なご指導を受けて念仏者としてのライフスタイル、念仏優先、念仏中心、念仏継続の生活を、ご自分にあった過ごし方を選ばれて貫き通して見事に光り輝く浄土へ往生の
昨年、ラジオ放送の機会がご本山から与えられましたので、私は思い切って現代人に阿弥陀如来さまのお救いとお働きについて話し、本当の幸福をお伝えしたいと思いました。阿弥陀如来さまのお
どうか皆さまも「救われる喜びの念仏」をなさって智慧と慈悲の光明に照らされて生きる日暮らしをなさったらいかがでしょうか。貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩の中にあっても南無阿弥陀仏ととなえる度に、満月のような光明に照らされているご自分であると思いになって、救われる喜びを感じて心穏やかに温もりも感じながら毎日をお暮らし頂けたら、こんな幸福はございません。実際に念仏をとなえますと脳内伝達物質であるセロトニンがでますから、スッキリ、爽やかな気分になり、安らかで快適な生活ができるようになります。
心平和に安らかで温もりのある日暮らしを実現するためには、讃題で申し上げましたように念仏優先、念仏中心、念仏継続がしやすい念仏者のライフスタイルを選択すること、そして、よりよく念仏申しやすい環境を選択することが大切ですね。今日は禅勝房の念仏信仰の行実をご紹介しながら「お念仏の申しやすい暮らし」についてお話しさせていただきました。
ありがとうございました。 (同称十念)
われはただ 仏にいつか あふひ草
心のつまに かけぬ日ぞなき
(法然上人)