三、本願念仏の真意

 
 
浄土宗布教師会北陸支部 髙島 訓堂
 
如来大慈悲哀愍護念  同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に(のたまわ)
「念佛というは、佛の法身を憶念するにもあらず、佛の相好を観念するにもあらず。ただ心をいたして、もはら阿弥陀佛の名号を称念する、これを念佛とは申すなり。故に称我名号というなり」と。(十念)
(『元祖大師御法語』前篇第五)

 本日は、ご用事の多い中、ご参詣いただきありがとうございます。どうぞお楽にして、ご聴聞いただければ幸いです。
 門前の法要案内にもご紹介いただいておりますが、石川県金沢市の大蓮寺から伺いました髙島と申します。一席のご縁でありますが宜しくお願いいたします。
 今朝、金沢から「はくたか」という特急に乗り、越後湯沢で上越新幹線に乗り換え、ご当山まで伺った次第であります。越後湯沢は、雲も厚く残雪もまだ多く季節は冬という感じでしたが、わずかの時間で長い大清水トンネルを抜け群馬県に入りますと、空は快晴、季節はもう春であります。川端康成先生の『雪国』「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」その逆であります。
 群馬県に入り、すぐ左の車窓より赤城山を望むことができました。私は三歳から二十二歳まで、東京の足立区に住んでおりまして、中学生の時に友人と赤城山に登山したことがあります。当時は、山ガール・山ボーイという言葉はなかったですね。
 赤城山は、芝居や映画、浪曲の国定忠治(くにさだちゅうじ)などでも知られている有名な山で、上州三山のひとつであります。その南側の麓に前橋市大胡(おおご)町という町があり、鎌倉時代、幕府の御家人、大胡氏が治めていた地であります。
 源平争乱の時代を生きた大胡隆義は、身をもって世の無常を感じ、都にいた時に、法然上人にお出会いになられ、救いの道を求めて教えを受け、深くお念仏を信仰されるようになったのであります。
 都での役目を終えた隆義は郷里に帰り、早速、跡取りである実秀夫婦にもお念仏をおとなえするように勧め、実秀夫婦も父同様、お念仏者になられたのであります。
 ある時、実秀の奥さまがお念仏について疑問に感じることがあり、すぐにお手紙を書き、信頼できる人を使者に立て、法然上人にお届けしました。
 それをご覧になった法然上人は、お弟子を書き役として、丁寧に解りやすくご返事を書かれて送られたのであります。

お念仏というのは、目に見えない阿弥陀さまの働きを想うのでもなく、仏さまの美しい勝れたお姿を心で想像することでもありません。ただ一心にひたすら阿弥陀さまのお名前をお称えする。これをお念仏というのです。こうしたことから称名念仏と名付けられているのです。

〝憶念や観念解義にあらずして 称我名号これぞ念仏〟
 お念仏とは、声に出して南無阿弥陀仏ととなえることであります。

 このご返事をいただいた実秀夫婦は、大変安心され、より一層信仰を深め、ひたすらお念仏をおとなえする人になられたのであります。寛元四年(一二四六)九十六代後嵯峨天皇の御世、実秀は往生されますが、その時、良い香りが漂い、妙なる音楽を聞いた人が多くいたと、伝記に書かれてあります。
 その後、実秀の奥さまも、法然上人からのお手紙を大切な宝物として保管され、書かれてある教えをしっかりと守り、ひたすらお念仏を申され、やがて日ごろからの望みどおり、阿弥陀さまのお浄土に往生したことも書き記されてあります。
 法然上人は、四十三歳まで難しい学問、厳しい修行を比叡山でされます。広大な面積の中に、三塔十六谷二別所といいまして、たくさんの大小のお堂がある中の、黒谷青龍寺の叡空上人を師匠と仰ぎ、二十五年間ご修行されます。あるとき、このお師匠さまと法然上人の間で、一つの論争が起きました。法然上人はまだ若いころでありましたが、もう一角(ひとかど)の学者でありました。叡空上人は元より大学者でありますから、なかなか論争に結着がつきません。
 叡空上人は、
 「人間は何といっても心が大切である。心の内に仏さまを観ずる、観念のお念仏が大切だ」と主張なさいます。
 それに対して法然上人は、
 「いや、お念仏は声に出してとなえることが大切」
 と、称念のお念仏を主張されます。どちらも学問上のことですから、なかなか自分の説を曲げられません。叡空上人は、
 「これは、私だけが言っているのではない。私のお師匠さまである大原の良忍上人もそのように申されている」
 大原の良忍上人は、天台宗では大変な学者で、当時、来迎院というところにお住まいでした。すると法然上人は、やさしい言葉ですが、厳しいことをお師匠さまに言われたのであります。
 「先に生まれるとは先生であります。お師匠さまも良忍上人さまも、私より先にお生まれになりましたから、先生には違いございません。だからと言って学問が上とは限りません。お年はお師匠さまが上ですが、学問はもう私のほうが上でございます」
 もしお姑さんが若いお嫁さんと言い争いをしたときに、お嫁さんがニコニコしながら「お年はお母さんにはかないませんが、言っていることは私のほうが正しいのですよ」と言うのと同じことを、法然上人が言われたのです。さすがの叡空上人も真っ赤になってお怒りになりました。そこで法然上人は、
 「善導大師もお書物の中で、阿弥陀仏のご本願、お釈迦さまの本意は、人々にひたすら阿弥陀仏の名号をとなえさせることにあると、解釈されています。お念仏はおとなえすることです。よく書物をご覧になってください」
 と、叡空上人に言われたのであります。
 後に、気が付かれた叡空上人は、法然上人に「お前はもう私の弟子ではない。学問の友達だ」とおっしゃっています。お偉い方だと思います。
 若い方に、なかなか自分が間違っていたとは申せません。白いものでも黒い、一度口にしたら言い通してしまうことがありますね。
 このような立派なお方に、十八歳から四十三歳まで学んだ法然上人も幸せなお方であります。
 『一枚起請文』の最初に、

もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

 と、はじめにあげられていますのは、法然上人の教えの中でも最も大切なことであるからです。

また学問をして、念のこころをさとりて申す念仏にもあらず。

 法然上人は、天台宗は申すに及ばず、すべての宗を学ばれた結果、学問をしてお念仏の心を知って申すお念仏ではないと、お気付きになられたのであります。
 ご当山に伺うのに、特急電車、新幹線に乗りましたが、電車の構造がどうなっているか、どうしたら動くか、いちいち考えている人はいませんね。すべて理解して納得して乗ろうとしたなら無理ですね。乗るという行動だけで、目的地にちゃんと連れて行ってくれます。たとえ居眠りしていても大丈夫ですね。

 いちずに一本道 いちずに一ツ事

 相田みつを先生の詩の一節であります。先生は、子供のころから近所のお寺に通い、仏教を学び、ゆくゆくはお坊さんになろうと考えたそうですが、二人のお兄さんが第二次世界大戦で戦死され、家を継ぐことになりましたのでお坊さんになることは諦めたそうです。その後、ご両親のお世話をしながら在家のまま仏教を学ばれたのであります。ですから、仏さまの教えに通じる詩が多いのです。
 何事もいちずでないと困ります。夫婦の間もそうですね? あっちも、こっちも、そっちも、となると大変なことになります。いちずにご主人、いちずに奥さまでないと困ります。

いちずに一本道…阿弥陀さまの西方極楽浄土に往生することを求め、
いちずに一ツ事…ひたすらお念仏をとなえる、これが私たちの姿であります。

 京都には、総本山知恩院さん、そして大本山が三つございます。京都御所のお隣に清浄華院さんというご本山があります。五代目を継がれた方のお名前を向阿上人と申されます。
 向阿上人について交流のあった兼好法師が、『徒然草』(一二四段)で、「浄土宗の僧侶の中でも、一目おかれる存在でありながら、学者ぶったりせず、一心不乱にお念仏をとなえていて、心が穏やかで理想的なお姿である」と、讃えていらっしゃいます。
 兼好法師は十八歳年下ですが、向阿上人が西光庵さん(現在の京都市右京区花園)で往生されるまで、親しくされていたのであります。
 向阿上人は、たくさんのお書物を残されました。そのなか『本願帰命抄下』に、

池の中の魚が、釣り針の餌を吞み込めば、釣り上げられてたちまち狭い池から離れることができる。

 と、書かれてあります。阿弥陀さまという大慈悲の漁師さんが、念仏往生の本願という釣竿から糸を垂らして、釣り針の餌を食べなさい、食べれば迷いの世界から西方極楽浄土に救い取られますよ、と。餌を食べるという行動が、お念仏をとなえることであります。
 私のお寺の近くに犀川(さいがわ)という川があります。夏になるとたくさんの人が鮎釣りをしています。釣り上げられた鮎は、可哀想ですが食べられてしまいます。
 しかし、阿弥陀さまに釣り上げられた私たちは、食べられるのでもなく、迷いの生けすに離されるのでもありません。

念仏は 苦難の道を 越える杖

 お念仏をおとなえする人は、平等にお浄土へ救い摂られるのであります。
 大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週楽しみに見ております。官兵衛三十三歳の時に、三木城の戦いというのがあります。現在の兵庫県三木市で、二年にわたる兵糧攻めにより城主が自害して長い戦いが終わります。
 城主と共に秀吉軍と戦った石野というお家があります。敗れはしましたが、弓の名手であり、名門赤松氏の出身ということで、秀吉の家臣となり、秀吉の死後、加賀藩主前田利家に仕えまして、代々うちのお寺の総代さんをしていただいております。
 現在の当主である太郎さんは、一流大学の法学部を出ましたが、母親が病弱であったことから、東京で就職することが叶わず金沢で就職して、夫婦で両親のお世話をしておりました。
 昭和六十年に、お母さまが往生されます。その後、浄土宗についての本をたくさん買って読み、他宗の本も買い求めて勉強をしていました。毎月お参りに行きますと、どんどん本が増えていくのが分かります。以前からも大量の蔵書があり、小さな図書館のようなお家です。
 そして、代々伝わるお仏壇の前で、お勤めをされ、わずかの期間で『阿弥陀経』も上手に読むようになりました。毎日のお勤めはお坊さん並です。しかし肝心なお念仏が、なかなか声に出ないのです。
 平成四年にお父さまが往生され、お通夜のときに、「お経を読むときのように、お念仏も大きい声でおとなえしてください」とお勧めするのですが、すんなりといきません。
 平成十五年、太郎さん、四回目の「知恩院おてつぎ奉仕団」に参加したときのことでした。
 朝、輪番さんのお説教があり、題が「法然上人のお念仏」でありました。有名な布教師さんで、大変解りやすく、心に余韻が残るお話でした。
 帰りのバスで太郎さんは、
 「和尚さん、これまで私は本から学び、資格も取り、仕事もしてきました。お念仏も、二十年近く仕事の合間に仏教書を読んで理解しようとしましたが、なかなか合点がいきませんでした。仏教書も大切ですけどなるべく開かないようにして、その時間は木魚を叩いて、お念仏をおとなえしようと思います」
 と言われました。
 その年の秋、お十夜法要では、太郎さんのお念仏の声が私の耳に聞こえるようになりました。その呼ぶ声は、もちろんご本尊さまにも届いております。うれしかったですね。
 それから約十年過ぎた去年の春のことです。太郎さんが「和尚さん、私も七十四歳になります。元気なうちに、親父が受けて良かったという五重相伝をしてください」と、言われました。
 早速、他の総代さん、檀家さんにお話ししたところ、発起人さんも揃い、今年の秋に勤めることになりました。
 半年ほど前、お父さんのご命日に、仏壇屋さんから木魚をもう一つ買ってこられました。今では、月参りのとき、私と一緒に木魚を叩いてお念仏をおとなえしています。ずいぶん年月がかかりましたが、住職として大変ありがたいことであります。
 昨年、歌手の島倉千代子さんが亡くなられました。「人生いろいろ」は心に残る名曲だと思います。山あり谷あり。上り坂、下り坂、まさか(・・)のあるのが、私たちの人生ですね。しかし、後の世はご安心ください。お念仏をおとなえする私たちには、西方極楽浄土が用意されております。そこへ往生することを求め、阿弥陀さま一仏を頼りとして、ただひたすら南無阿弥陀仏とおとなえしていくのが、お念仏者の姿であります。

 ただ頼め 頼むこころの あるならば 南無阿弥陀仏を 声にいだせよ

どうぞ、より一層お念仏にご精進いただきますことをお願いしまして、お話を終わらせていただきます。   (同称十念)