◎第2章◎ 宗祖のご法語をいただいて
一、仏教に遇うことのむずかしさ
如来大慈悲哀愍護念 同称十念
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
つつしみ敬って拝読し奉る。宗祖法然上人のご法語に曰 く
「まさにいま、多生曠劫をへてもうまれがたき人界にうまれ、無量億劫をおくりてもあいがたき佛教にあえり。釈尊の在世にあわざる事は、かなしみなりといえども、教法流布の世にあう事を得たるは、これよろこびなり」と。(十念)
(『元祖大師御法語』前篇第一)
最近はインターネットという便利なものがございまして、以前のように百科事典を調べたり、本屋さんや図書館で悪戦苦闘をしなくても答えが
先日、このインターネットの検索欄に「人間の生まれてくる確率」と入力してみました。様々な理論を元に計算された確率がたくさん出ておりましたが、数字のゼロがたくさん並び天文学的数字ばかりでチンプンカンプン、私には理解できないものばかりした。
数字に弱い私にも何となく理解できましたのは、筑波大学の分子生物学者、村上和雄博士が、「人間として生まれてくる確率を一億円の宝くじが百万回連続で当たる確率×六十億分の一」と述べておられるものです。計算根拠は難しくて定かではありませんが、分母が天文学的数字になり、私共が人間として命を受けることがいかに難しいかを表していることはよく理解できました。
先ほど拝読申し上げました法然上人のご法語に、「まさに今、多少曠劫を経ても生まれ難き人界に生まれ」とお示し下さっておりますが、村上博士の確率を申し上げるまでもなく、私共は、今日まで天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄という苦しみの世界で長い長い間、輪廻を繰り返してきました。
法然上人は「六道を輪廻する中で人の身を得ることは、梵天から糸を垂らして、大海の底に沈む針の穴を通すようなものだ」と仰せになっておられます。空の上から糸を垂らして、海の底に沈んでいる一本の針の穴にその糸を通す程、私共が人間として命を受けるのは大変難しいのです。そのような中、辛いことや苦しいこと、思うように行かないことがたくさんありますが、それを乗り越えて、頂いた命を最後の最後まで大切に生き抜かねばなりません。また、周りの方々一人一人も同じように尊い命を頂いている方々ですから、大切にさせて頂かなければなりません。
昨今のマスコミ報道を見聞きしておりますと、毎日のように殺人事件が報じられております。我欲のために殺人を犯す、子が親を、逆に親が子を殺すなど、大切な命が粗末に扱われています。大変悲しいことでございますし、私共は頂いた命の大切さ尊さを今一度深く考えさせて頂かなければなりません。
「無量億劫を送りても遭い難き仏教に遭えり。釈尊の在世に遭わざる事は悲しみなりといえども、教法流布の世に遭う事を得たるは、これ悦びなり」
長い間、生死を繰り返してきましたが、なかなか巡り遇うことができなかった仏教の教えにこの度巡り遇うことができました。お釈迦さまがご在世の時にご縁を得て直接教えを頂くことができなかったのは悲しいことではありますが、その教えが脈々と伝えられている世に命を頂き、迷いの境涯を解脱する道を得て、六道輪廻を脱することができるのは大変な喜びであります、と法然上人はご法語の中で仰せになっておられます。
ここ数年、
先日、私の寺のお檀家で八十代のお婆さんが、葬儀社主催の終活イベントに参加し、お棺の寝心地を試してきたそうです。感想をお聞きしたところ、
「やはりお棺も値段の高い物は寝心地良かった、私はあの一番高いお棺に入れてもらう」
とおっしゃっていました。
参加者には「旅立ちの準備ノート」というものが配られたそうです。このノートは、「私の人生・私の葬儀・私の生老病死」の三部構成で三十二ページの小冊子になっています。「私の人生」の項には両親の事、今日までの生い立ち、趣味や配偶者、子どもたちのことなどが事細かに記入できる欄が設けられています。「私の葬儀」の項では葬儀の形式や埋葬方法、会葬者へのおもてなしなどがマークシート方式で選択できるようになっています。「私の生老病死」の項では、終末医療・延命治療を希望するかしないか、認知症になった場合の扱い、癌になった時の告知の要不要について、それぞれの項目ごとに、記入年月日を書き、署名捺印して保管しておくようになっています。
日本人は昔から「死」という言葉を忌み嫌い、野球選手が背番号の四番を避けたり、ホテルや旅館では四号室がなかったりします。
余談になりますが、飛行機の座席で十三列目がないことに気付かれたことがございましょうか。キリスト教系の国の中には十三日の金曜日を忌み嫌う場合もあり、それが理由のようです。日本ばかりでなく、外国にも特定の数字や言葉を忌み嫌う習慣があるようです。
話を戻しますが、以前は家庭で死に関する話題は縁起が悪いとタブー視されてきました。しかし、最近では少子高齢化が影響しているかと思われますが、自身で様々な準備をしたり、夫婦や親子、友人の間で死について会話がなされることも多くなってきたように感じられます。また、マスコミでも終活などの話題が大きく取り上げられるようになってきました。
生を受けた者は必ず死を迎えなかければなりません。また、出会った人とは、どれほど大切な愛おしい人であっても必ず別れなければならない、「生者必滅 会者定離」がこの世の定めです。私共は最後をどのように迎えるのか、最後の日を迎えるまでどのように生かさせて頂くか、しっかり考え準備しておくのは大切なことだと思います。
終活に関する書籍や葬儀社などのイベントが盛んに行われ、多くの方々が関心を持ち、準備をされています。しかし、一番大切な準備を一つ忘れていることにお気付き頂きたい。例えて申し上げるならば、一カ月後出発の旅行に行くために、立派なボストンバックを用意しました。着替えや洗面道具、常備薬に保険証など、必要な物は全部用意できました。後は出発を待つばかりです。日々の忙しさ追われ一カ月が瞬く間に過ぎ去ります。出発の日を迎え、集合場所で「あなたはどこへ行くのですか?」と問われた時に「……」。答えることができません。
最近の終活を見ておりますと、行き先も定かではない旅行のために持ち物の準備ばかり一生懸命にしているように思います。では、私共の人間界での務めを終えた後の行き先は何処なのでしょうか。
法然上人は皆さま方もよくご存じの「一紙小消息」の中で、
遭い難き本願に遇いて、発し難き道心を発して、離れがたき輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せん事悦びの中の悦びなり。
と私共の行先をお示し下さっております。遭い難い阿弥陀さまの本願に遭い、起こし難い覚りを求める心を起こし、離れ難い苦しみの輪廻を離れ、生まれ難い浄土に往生させて頂くことは悦びの中の悦びである、と。
本願とは、阿弥陀仏が仏さまになられる以前遠い昔、法蔵菩薩の時代に全ての人々を救わんがために四十八の願をお立てになりました。その第十八願に「もし私、法蔵菩薩が仏の位を得たとして、十方の衆生が、誠を尽くして信じ願い、私の国に生まれたいと望んで、わずか十遍でも念じて、もし生まれなければ、私は覚りを開かないであろう」とお誓いくださったのです。阿弥陀仏は、この世ではない西方十万億土の彼方に西方極楽浄土を構え、老若男女・貴賤・学問の有無・罪の浅深などに関わりなく誠の心で深く信じて救いを求め、口に南無阿弥陀仏ととなえたならば一人も漏らさず平等にお救いくださるのです。
私共は日々の営みに追われて、難しい学問や厳しい修行を行うことはなかなかできません。しかし、お念仏はいつでもどこでも誰にでも簡単におとなえすることができます。
法然上人は「十二箇条の問答」の中で念仏者の心得を、
「この世は無常であり人生がそれ程長くないことをわきまえなさい。時には阿弥陀さまの本願を思い必ずお迎えくださいと口に出しなさい。生まれ難い人間として命を受け、この人生が甲斐もなく終わるかもしれないことを悲しみなさい。またある時には遭い難い仏教に遭い、この生涯で輪廻を逃れるための修行を積まなければ、今度は何時の日に期待できようかと思うべきです」
とお示し下さっております。
この世は無常であり、命はいつまでもあるものではありません。人生は思う程長くありませんから一日一日を大切に生かさせて頂くと共に、人生を終えた後の行き先を西方極楽浄土と定めて、日頃から「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえ、必ずお迎えくださいと願いなさい。遭い難い仏教に遭い、中でも阿弥陀仏の本願に遭いながらも、終わりを迎えた時に行き先が定まっていないようでは、この人生を甲斐なく終わらせることとなります。この生涯で西方極楽浄土へ往生させて頂かなければ、今後このような機会はいつ訪れるかわからないのです、とお教えくださっています。
私共にとって真の終活とは、人間界で命を終えたならば、阿弥陀仏が築かれた西方極楽浄土へ往生させて頂くことであり、そのために日々お念仏を相続することです。「生まれ難き人界に生まれ」「遭い難き仏教に遭えり」と最初に拝読致しましたご法語で法然上人がお示し下さっております。私共は、受け難い人間としての命を頂いたことを悦び、遭い難い仏教の教え、中でも阿弥陀仏の本願に巡り遭えたことを悦び、ようやく往生の機会を得たのだと心得、この機会を逃さぬように念仏相続に努めて頂きますようお願い申し上げます。
(同称十念)