2.『選択集』から『一枚起請文』へ─執筆の背景
江戸時代の宗学者である義山上人(一六四七-一七一七)は、『一枚起請弁述』の冒頭に次のように述べられています。
一枚起請は浄土一宗の肝要なり。先づ此宗の肝要は選択集に載せある也。三部経及び善導の四部八巻書の要文又は曇鸞・道綽・懐感・少康の諸釈の肝要なる文をば皆載せたり。それ故広くすれば選択集、縮むれば一枚起請也。縮めたりとて切て捨てたるものにはあらざる也。から笠大なりとて、はた、まわりを切て捨ることにはあらざる也。すぼめて小くするなり。然ればひろげたるが選択集、すぼめたるが一枚起請也。それ故開き立て、広く云へば二百座三百座にても尽きぬ也。縮めて云へば一口にて埒 があく也。此処は縮めて合するが一枚起請の意也。元祖の広き智慧にて縮めて仰せられたるものなれば読むにも亦 縮めて読み、合するにも縮めて合するがよき也。此意を知らずして説き様か粗相なり抔 云は悪き也。広き事が望ならば選択集にて云ふべき也。 (浄全九・一二三頁上)
義山上人は、法然上人の「広き智慧」によって「縮めて仰せられた」「浄土一宗の肝要」の書こそが『一枚起請文』であることを強調されています。そして、「此宗の肝要は選択集に載せある」ので、「広くすれば選択集、縮むれば一枚起請」、「ひろげたるが選択集、すぼめたるが一枚起請」と『一枚起請文』と『選択集』とが開合の異なりにあることを重ねて示し、「広き事が望ならば選択集にて云ふべき也」と『一枚起請文』に説かれる内容を詳細に知りたいのであれば『選択集』を学ぶべきことを訴えています。このように義山上人は『一枚起請文』の解説を施すにあたり、わずか三百字程度の一文に、四度にわたって『選択集』の名を提示し、両者の深い関連性と同価値性について説き示されているのです。義山上人が示されるように、『選択集』及び『一枚起請文』は、文言の広略こそあれ、その思いは、「浄土三部経」と善導大師撰『観経疏』等の四部八巻の肝要を抽出統合し、さらには、曇鸞大師・道綽禅師・懐感禅師といった浄土教祖師による著作の要義を加味し、幾多の思索を積み重ねられて、体系的に選択本願念仏の意義を説き明かすという一点に共通した著作と言えるのです。(2)
とはいえ、『選択集』と『一枚起請文』の成立には十四年という隔たりがあり、その間に法然上人を取り巻く状勢は否応なく移り変わっています。それはいかなるものかと言えば、ご自身が確立された選択本願念仏思想、すなわち、弥陀・釈迦・諸仏三仏同心になる紛れもない仏説「浄土三部経」と、弥陀化身善導による弥陀直説としての『観経疏』との有機的融合からなる称名念仏の、仏の側(仏辺)からの絶対的な価値付けについては微塵の揺るぎもないものの、衆生の側(機辺)で具え実践すべき、安心(三心)や作業(四修)等を誤って受けとめてしまった門下の異義・邪義と、そこから引き起こされることとなった専修念仏教団への弾圧、ひいては、選択本願念仏思想の存続危機という許容せざる事態でした。そして、それこそが『一枚起請文』執筆の内的動機になったとも言えるでしょう。そうした視点から『一枚起請文』を見てみると、その奥書に記されている「滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ」という一節に、あらためて注目させられます。法然上人は、自身の滅後、ご自身が見出し『選択集』において体系化された選択本願念仏思想と異なる邪義が惹起することを恐れて、『一枚起請文』をしたためられました。しかし、実は法然上人にとって『一枚起請文』は、目の前の邪義に対する誡めの心をもってしたためられた書でもあるのです。
なるほど法然上人は、建久八年(一一九七)から翌年にかけて、大病を患い、念仏三昧を発得され、九条兼実公による執筆要請を契機として、畢生の著作である『選択集』を撰述されました。『選択集』撰述直後、弟子達に向け、自身没後の対応等について細かく指示した『没後制誡』をしたためられていることからも、『選択集』が身命を賭した著作であったことが知られます。ところが、『選択集』撰述以降、本願念仏の教えが広まり、順次、教団が組織されるようになると、次々と専修念仏への弾圧が引き起こされます。すなわち、元久元年(一二〇四)、上人七十二歳の時、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を真性座主に訴えたことに端を発し、法然上人が『送山門起請文』を座主に提出し、『七箇条制誡』を門弟百九十名に署名させる事態となった元久の法難。翌元久二年、興福寺の
もちろん、法然上人の透徹した人間観に基づいて到達し、体系化された選択本願念仏思想そのものに、他宗を軽んじたり、
法然上人の門下は、五流・十五流、あるいは、五義四門徒等と呼ばれ、それぞれが「我こそは法然上人の正統を継承する者」と主張してきました。そんな中、聖光上人の弟子で浄土宗三祖となられ記主禅師と讃えられた然阿良忠上人と、源智上人の弟子である蓮寂房信慧上人とが、京都東山の赤築地で、四十八日間にわたり、それぞれが継承された教えについて照合する法談を持ちました。その結果、お互いの教えに異なることがなかったことから、両者が合流されていきます。この赤築地の法談において、両者に継承された教えの同一なることを証明するにあたり大きな役割を果たしたのは、良忠・信慧両上人がそれぞれの師から授かっていたであろう、法然上人から聖光・源智両上人へと伝承された『一枚起請文』に他ならなかったことでしょう。両系統の『一枚起請文』は、それを授けられた年代の相違はもちろん、文字の脱入など、細かい箇所での異なりはあったことでしょう。しかし、そうした細かい相違点を乗り越えて、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし(3)」という、念仏相続を最重要視する一点においては、なんら違うことはなかったのです。そうしたことから法然上人の正しい教えを伝持し続けてきた両流が時代を超えて統一されることになるのは必然であり、その結果、現在に連なる浄土宗の大きな潮流となって、その教線を広げていくことになるのです。