第3章◎ 現代社会とのかかわり
  日本人の信仰基盤と鎌倉仏教の誕生

 
 
浄土宗布教委員会委員 藤井 正雄

はじめに

 これまでの「授戒編」では、第一回では、現代とは何かという問題点をあげ、第二回では〝戒の精神と現代社会とのかかわり〟を考察する前段として、日本人の信仰形態の特徴というべき神仏習合に焦点を当てて話題としました。
 最終回の今回は、標記のように「現代の風潮と授戒の意義」について、〝現代社会〟・〝倫理・道徳〟・〝仏教的生き方〟・〝戒と授戒とお念仏〟という四本の柱を設定して本論に入っていこうと思います。

 

1 現代とはどういう時代か? ─自分の〝いま・ここ〟を凝視しよう

 

(ⅰ)人間の〝生き方と価値観〟が問われる時代

 「現代とはどういう時代か」と質問されると、誰もが戸惑うことでしょう。何故でしょうか? 例えば、われわれの肉体の機能的構造では、眼は眼を見ることはできないし、眼は自分の顔が見えない、また眼は自分の背中をも見ることができません。見ることができるのは、鏡に映した自分の眼、顔、背中です。つまり、これと全く同様に〝現代〟というのは、何かを自分の向こうに立てて像として見ることができるようなものではないことに気付きます。
 ところが、私たちが生活している現代は、少なくとも第二次世界大戦終了以後約七十年近く、アメリカを中心とする西欧思想・教育・価値観によって、人間の知性・理性のはたらきが生み出す〝知識と技術〟への依存によって形成されてきたと言えます。その動向の中で、理性・知性の特徴として事物を〝主観(自己主体)から切り離して客観的・事象として〟捉えることが当たり前のことになっています。しかし事実、私たちが自ら生きている現実へ目を向けるとき、その現実はそれを経験している人の〝いま・ここ〟を決して離れないことに気が付きます。その〝いま・ここ〟としての現実は、〝主観(主体)から切り離して客観的・事象として〟捉えることはできないのです。このことを深く反省し、自覚することが必要な時代が、われわれの現代であることを主張したいと思います。
 これは具体的にどういうことなのでしょうか?

(1)

 私たちが〝生きている〟ということは、常に一人一人の〝いま・ここ〟の経験において捉えられます。ということは、誰もが自分にとっての〝いま・ここ〟において生きているのです。その〝いま・ここ〟は最も具体的であり、私たちは自分の〝いま・ここ〟しか経験することができないのです。そのことは、さきにあげた眼の(たと)えのように、私たちが〝現代・いま・ここに生きている〟という事実は、その事実を自分の向こうに立てて像として見ることができるようなものではないことを気付かせます。われわれの現代において、このことは重要な特徴です。
 それでは、どうすればよいのでしょうか? それは、〝いま・ここ〟に〝現代〟を生きている私たちが、自らを自らに向かって〝じっとよく見ること〟すなわち自らを自らの課題として取り組むこと、自覚するということです。〝自らをじっとよく見る〟ことが〝自覚すること〟であることによって、私たちは〝自らの生き方と価値観〟を考えることへと導かれます。
 幸いなことに、私たちは宗祖法然上人に導かれ、学ぶことができます。大切なのは、法然上人は法然上人の〝現代〟を〝生きた〟のであり、法然上人にとっての〝いま・ここ〟が常に法然上人の経験の場所であった、という視点です。八百年の時間と空間とを隔てても貫く視点は、〝いま・ここ〟という事実がもたらす状況です。その視点から見えてくるのは、時間・空間の隔たりが産み出す〝法然上人と私たち〟の間に横たわる差異性ではなくて、人が誰でも抱いている〝生き方と価値観〟の問題に重なっているということなのです。

(2)

 では、私たちが生きている〝現代〟はどのように特徴付けられるでしょうか? これを考えるにあたり、我が国の現代の状況が物語る二点に注目しましょう。
 まず一点は近代的〝知識〟がもたらす特徴です。第二点は、近代的〝技術〟がもたらす特徴です。二十一世紀の現代は、知識と技術の進歩によって形成されていると言ってもよいでしょう。
 私たちは自らを取り巻くさまざまな出来事や事象に対して、飽くことなき〝知識欲〟を発揮できる時代を生きています。例えば、携帯電話、パソコン、スマートフォン、マスコミ情報などが洪水のように押し寄せる中に生きています。知識が多くあることが便利であり、楽であり、自らの思いを満たすことへと連なります。しかし、そこには落とし穴があります。その知識は、残念なことに〝自らに向かってじっとよく知る〟ことではないのです。現代社会は、〝自らに向かってじっとよく知る〟ことを失いました。そのような〝知る〟ということが欠如するゆえに、一人一人が自らの〝生き方〟を問うことを忘れたのが現代である、と言っても過言ではありますまい。
 その忘却から発生するのは、例えば、我が子を育てることを知識として知っているだけで、どのように育てるかの実践力を自らのうちに問いかけずに、虐待に走ること。我が高齢の親に対して、大切にしなければならないことを知識としては知っているが、どう接すれば親を大切にすることなのか、実践する力を自らに問いかけないことにより発生する、高齢の親への虐待など。現代社会では、教育の水準が高まるのに比例して、他人に迷惑をかけたり傷つけたりしてはいけないことなど、道徳・倫理の教える規範は充分に知識として知ってはいるが、知識として身につけたことを実行・実践することを忘れてはいないでしょうか。人間が人間として生きる〝生き方〟を問い、実行する視点が微弱になった現代があります。
 一方で、現代を象徴するのが〝技術〟です。特に、私たちの生活を取り巻く種々の機器・道具は常に進歩の現象をもたらしています。宇宙を対象にする技術、人間の身体を対象にする技術、われわれの実地の生活に利便を与える技術など、それらはすべて〝進歩〟の世界を実感させます。それらは、私たち人間と、生活空間と、用いる道具のレベルにおいて、私たち一人一人の個性的存在が(はら)み持つ問題を観察し、法則化して、普遍的にして一般的な共通項として提示します。現代は、そのような進歩を享受するゆえに人類の福祉と平和へと結実していくことを、評価し注目しなければなりませんが、その状況は、〝自らをじっとよく見る〟ことが〝自覚すること〟であるということを忘れさせてはいないでしょうか。
 例えば、昨今話題となっている出生前診断では、胎児の状況を医学技術によって知ることができますが、技術によって障害があるとかないとかの事実を明らかに知ることができたとき、親をはじめ関係者には決断が求められます。その現実は〝いのち〟への価値観を突如として判断させることになります。つまり、高度な技術によって知ることができたがゆえに求められる価値観の選択です。現代人にとってこのことは、知ることができるゆえに苦悩せざるを得ない状況の発生です。技術の進歩によって、知り得たがゆえに求められる問題の発生が幾多となく見られます。ここで大切なことは、人間が人間として生きる謙虚さの中に〝価値観〟を問い、創り上げようとする力です。このことは、倫理も道徳も関与し得ない〝いのち〟への価値の問題なのです。
 以上のような二つの事例は、現代という時代の特色であるように思われます。人が、〝人の間〈あいだ〉で生きる〟という人間の存在の特徴を有する中で、それゆえに私たちは、自らの〝生き方〟および〝いのち〟について正面から問いかけ、考えることを必要とするのです。その問いかけを持たないならば、現代という時代は理性・知性のはたらきに翻弄されて〝空虚な知識と技術〟による空洞化した時空を漂うばかりでしょう。私たちにとって大切なのは、こうした現代であるからこそ、仏教に立ち返り、法然上人の生き方と価値観に直参することです。
 「浄土宗21世紀劈頭宣言」は、このことをアピールしているのです。

 

(ⅱ)人間の現実を捉える仏陀のことばと浄土経典

(1)ありのままの人間を見つめる─仏陀の視点

 〝人間を見つめる〟という眼差しは、仏教ではどのように具体的に捉えられるのでしょうか。ありとあらゆる存在・事象の理法(ダルマ)をさとり目覚めた人、仏陀(釈尊・釈)は次のように警句的に語っています。

比丘たちよ、すべては燃えている。熾然(しねん)として燃えさかっている。そのことを、なんじらはまず知らねばならない。比丘たちよ、すべては燃えているというのは、いかなる意味であろうか。比丘たちよ、人々の眼は燃えているではないか。その対象にむかって燃えているではないか。人々の耳は燃えているではないか。人々の鼻も燃えているではないか。舌も燃えているではないか。身体も燃えているではないか。心もまた燃えているではないか。すべて、その対象にむかって、熾然として燃えているのだ。
比丘たちよ、それらは、何によって燃えているか。それは、貪欲(むさぼり)の炎に燃え、瞋恚(いかり)の炎に燃え、愚痴(おろかさ)の炎に燃えているのだ。
(増谷文雄『仏教百話』ちくま文庫・一九九三年・三八頁 〈「相応部経典」三五・二八。「雑阿含経」八・一三〉)

と。われわれ人間のありのままの姿は、すべての経験的な対象に向かって燃え盛る五感・
心身であると捉えます。
 仏陀は、ありのままの人間を「貪瞋痴(むさぼり・いかり・おろかさ)の煩悩の炎」に焼かれる営みの存在者として捉えます。その存在の姿は、〝人間の能力の範囲のうちでの営み〟の現実であると言っても良いでしょう。人間がありのままにある、そのような「貪瞋痴の煩悩の炎」の燃える存在者を〝凡夫〟という用語が意味しています。われわれの現代文化は、貪瞋痴の煩悩の炎を(あお)ることへと眼差しを向けさせます。そこに現代の病巣がある、と言えば過言でしょうか。
 人間のありのままのあり方を「貪瞋痴の煩悩の炎」の燃える存在者、すなわち〝凡夫〟と捉えることは、現代の人間観を考える場合に、「人間を見つめる」という一点を通して極めて特徴的、かつ積極的な意味を発揮することになるでしょう。

(2)煩悩のはたらきをどのように捉えるか─『無量寿経』の説示

 仏によって説かれた『無量寿経』は、次のように諭します。

世人薄俗(せにんぱくぞく)にして、共に不急の()(あらそ)う。この劇悪極苦(ぎゃくあくごっく)の中において、勤身営務(ごんじんようむ)して、もって自ら給済(きゅうさい)す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長男女(しょうじょうなんにょ)共に銭財(せんざい)を憂うること、有無同じくしかり。憂思(うし)まさに等し。屏営(びょうよう)として愁苦(しゅうく)して、(おも)いを(かさ)ね、(おもんおぱか)りを積む。心に走使(そうし)せられて、安き時あることなし。(でん)あれば田を憂う、宅あれば宅を憂う。
(『聖典』一・二六一頁。参考…浄土宗総合研究所編『現代語訳 浄土三部経』一二九 一三〇頁)

と、人の生きる現実を凝視させます。この視点は、ピンセットで摘まみ上げるような現実の痛々しい事実の様相であると言えます。
 現代を生き得るわれわれも、「共に(出離生死の一大事に値しない世間の欲望にまつわる)不急の事を諍う」し、「田があれば田を憂い、宅あれば宅を憂う」ことを否定できるありようをしていません。この思いを深くするべきであることを、二千年前に成立した経典が警告しているのです。現代こそ経典の真実に学ぶべきときでしょう。
 この凝視点は、さらに、

人、世間愛欲の中に在って、(ひと)り生じ独り死し、独り去り独り(きた)る。行を(おう)て苦楽の()に至り趣く。身自(みずかみずか)らこれを()く。代る者あることなし。
    (同・二六二頁。参考…同・一三二頁)

 人間という存在の現実は愛欲の中に生きている相姿そのままであり、実のところ、独りで生まれ、老い、病み、死す。愛欲の中で苦楽(喜怒哀楽)がもたらされ、究極においては苦(地獄)か楽(浄土)へと至り往くことになるのです。その人、その人自らが否応なしにそれを受け入れ、「自分に代わる者はいない」と、私たち人間の存在の足元を明らかに、確かに指摘します。
 経典が説く視点(捉え方)は、「人、世間の愛欲の中に在りて」という、人間が、いま生きている現実を鋭く凝視させます。つまり、人のあり方の原点は〝独り〟であって複数ではなく、〝自ら〟の事実であることゆえに愛欲・喜怒哀楽、すなわち〝煩悩の燃え盛る〟現実を自己自身において見るというのです。人が、自己自身のあり処を真剣に問うときに、ここで説かれるような現実を事実として捉えます。さらに具体的には、

かくのごとき世人(せにん)、善を()して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。人死してさらに生じ、恵施(えせ)して福を得ることを信ぜず。善悪(ぜんなく)()(すべ)てこれを信ぜず。これを然らずと(おも)うて、ついに是することあることなし。ただこれに()るが故に、かつ自らこれを見る。 (同・二六三頁。参考…同・一三三頁)

というように、「……を信ぜず」というあり方となり、それでありながら「自分の見方でこの世のありさまを見てしまう」ことに陥るばかりであると言われます。
 さらに「愛欲に痴惑(ちわく)せられて、道徳に(いた)らず」(同・二六四頁。参考…同・一三四頁)とまで厳しく説かれています。煩悩のもたらすところが、盲目的に燃える炎の如くであるという仏陀の指摘と重なり、近代的知識の特質として人間中心的な能力の範囲に留まる人間存在の状況を物語っています。
 私たち現代人は、このような姿勢での〝自己自身を凝視する視線〟を希薄にしていますが、その原因は何でしょうか。

 

2 日常生活をこころ豊かに意義あるものとしよう
─〝授戒〟のこころ 

 

(ⅰ)人間の生き方における道徳・倫理と戒道徳・倫理の限界を思う

(1)道徳・倫理について

 人の世において道徳・倫理がなぜ必要なのか? それなくして生きることができるとすれば、どういう生き方になるか? 「ただ生きることではなくて、いかに善く生きるか」が課題となることになります。
 「道徳」は、徳に従って行う・人の必ず行うべき正しい道・人倫五常の道・道理であることから、侵すべからざる人の道の実践を意味します。
 「倫理」は、仲間と共に守るべき秩序や筋道・物の筋目正しいことであり、〝人の世の秩序〟のことであると言えます。
 道徳も倫理もヨーロッパ語の語源は「エートス(ēthos)」すなわち〝生活の習慣〟または〝ねぐら・巣〟を意味します。そこから、人および人の世における〝心の安らぐ〟ための規範が、人間理性・知性に基づいて形成され、個人としての人の規範(道徳)と人の世の規範(倫理)がもたらされることになります。その特徴は、規範を知ることではなく、規範を実行すること、守ることですが、人間が生来的に持ち合わせている〝貪瞋痴〟の煩悩は、道徳・倫理によって、制御できるのでしょうか?

      a

 私たちが生きている現代の人間観に大きく影響を与えた二つの思潮があります。その代表的なものが、十八世紀ヨーロッパ哲学思想のI・カント(一七二四 一八〇四)の人間把握と、十九世紀哲学思想の人間観を提起するS・キルケゴール(一八〇三 一八五五)のそれとです。
 カントは人間理性のはたらきを基軸にして、〝知ること・実践すること・判断すること〟(純粋理性の批判・実践・判断)を体系的哲学としました(カントのいわゆる『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書)。理性の実践ということが倫理・道徳の役割とされ、「善を実践し悪を抑止する」規範が実践されるべきことが説かれますが、「それにもかかわらず、この人間世界に〝悪〟が蔓延(はびこ)る」という現実に、われわれは直面します。そこで、カントは自らの宗教論を展開することになります。理性中心の範疇で考察する中で〝悪〟の問題解決を試みますが、逆に理性の限界をさらけ出すことになりました。彼にとっては「理性の限界内における宗教」なのです。すなわち、「それにもかかわらず、この人間世界に〝悪〟が蔓延る」という〝悪〟の問題は倫理・道徳ないし理性にとっては限界があるということ以外の何物でもないことを証明してしまったのです(『宗教論』参照)。このことは、近代的思考が理性・知性中心であることに大きく反省を求めることになったと言えます。
 その人類的課題を引きずって、十九世紀に〝人間を理性中心のレベルで捉えるのではなく、現実に生きている存在者として捉える〟実存思想に立つS・キルケゴールは、「罪・悪の問題の前では倫理・道徳は立ち止まり、座礁してしまう。そのときに必要なのは教義学(キリスト教信仰の学)である」と指摘し、人間が犯す罪・悪に取り組むことができるのは(キリスト教)信仰実践であることを指摘し強調してやみません(『哲学的断片』参考)。

      b

 われわれにとって大切な視点は、キルケゴールの主張は、理性・知性のレベルでは取り扱うことができないのが〝罪・悪〟なのだという点にある、ということです。キルケゴールが「それを取り扱うのが(キリスト教)信仰実践である」という観点において、われわれは、人間が生来的に持ち合わせている〝貪瞋痴〟の煩悩を制御し解決することを可能とする仏教、すなわち浄土の教えの実践に注目し、重視しなければなりません。
 つまり、人および人の世における〝心の安らぐ〟ための規範が人間理性・知性に基づいて形成されるという人間観のもとで、個人としての人の規範(道徳)と人の世の規範(倫理)がもたらされる道徳・倫理によっては、人間が生来的に持ち合わせている〝貪瞋痴〟の煩悩を制御し、解決することはできないのです。

 

(2)戒(律)と戒体について

 人として生きるにあたって、倫理・道徳の他に何が必要なのか? 道徳や倫理が求める規範は、人間が自らの理性・知性の範囲で形成されるゆえに、理性・知性が働かなくなると規範から外れます。そのような現状を映し出す現実社会では、罪悪の発生は限りがないことを私たちは経験しています。そこに、人として生きる間違いないあり方が求められます。仏教の捉える優れた人間把握として、人は誰も〝仏性を具え・戒体を宿す〟という人間の把握が重要な意味を発揮します。仏性とは仏に成り得る性能、戒体とは戒そのものの性能・はたらきと言っておきたいと思います。
 戒の語源である「シーラ」は〝習慣・性格〟すなわち「習慣にして体得し安らぐ」の意味を持ちますが、それは、人が内心から自発的に発するこころのはたらきであるとされます。その〝内心から自発的に発するこころのはたらき〟を戒体といい、人は、元来、仏性を具え・戒体を具えているゆえに、仏性・戒体に目覚めることを実践することが必要なのです。つまり、〝戒〟は人としての自己の〝内心から自発的に発するこころのはたらき〟であるゆえに〝人の規範〟、一方で〝人の世の規範〟として〝律〟を理解することができます。 
 それは、法然上人がいつも譬えとして「人目を飾らずして往生の業(念仏申すこと)を相続すれば自然(じねん)に三心は具足する」ことを、「譬えば(あし)(しげ)き池に十五夜の月の宿りたるは他所(よそ)にては月宿りたりとも見えねども、よくよく立ち寄りて見れば、葦間を分けて宿るなり。妄念の葦は繁けれども三心の月は宿る也」(「諸人伝説のことば」=『聖典』六・四七七頁)とおっしゃったように、戒体は「葦の繁き池に十五夜の月の宿りたるは、よそにては月宿りたりとも見えねども、よくよく立ち寄りて見れば、葦間を分けて宿るなり」なのであると言えます。
 人が仏性を具え、戒体を抱いているという人間の捉え方を重視することは、人間理性や知性の範囲において考えられるのではなくて、自らが「覚れる性能(仏性)」を持っているということです。それゆえに誰もが「戒体」を宿しており、〝戒体〟発動の機縁を得て、自らの〝生き方〟の真実・価値・尊さを自覚して実行するのです。戒体の発動を確かな力となし得る受戒の儀式(授戒における三羯摩の儀)を体験することによって、〝貪瞋痴〟の煩悩を仏の力によって調整され、本当の変わらざる「生き甲斐」と「人間の尊厳」が現れ出ることになります。そこに、新たな尊い〝生き方と価値観〟が体得され、実践されていくことになるのです。

 

(3)自律と他律から、仏律へ

 人間社会における道徳・倫理は、理性・知性のはたらきによって、人と人の世の自律(自らを律する)と他律(他者からの力で律する)が可能ですが、人や人の世に否応なく発生する貪り・怒り・愚かさによる悪や不善を絶やすことはできるのでしょうか? それは、人間の理性・知性では不可能な力、自らの内から発する心に発動する仏戒によって体得する(仏の力で律する)ことができるのです。
 私たちの意識の中では、〝今ある現実〟と〝ありたいと意欲するあり方〟とが混とんとして、〝今・ここの自分〟を映し出しています。さらに加えて、〝あるべきあり方〟が課題となり、自己存在の様態は極めて複雑です。そのような自己存在の現実において、人の世の「道徳と倫理」は何時(いつ)でも誰にでも求められますが、人の世の規範(道徳・倫理)は人の理性・知性の産物であるゆえに、人の現実においてはその限界をさらけ出します。そこに人の生きる矛盾がさまざまに生起することになります。
 人間が生きて生活することから生じる矛盾や限界を、人の知性や理性のはたらきや力で乗り越え解決することは不可能です。その不可能なことに気付くとき、私たちは、仏より開導される「授戒」によって善き人格が形成され、体得されることへと〝生き方と価値観〟が定まるのです。

 

(ⅱ)法然上人は人間をどう捉えているか?

(1)人間=身口意の三業

 仏教では、私たちの行動は、身・口・意の三業のはたらきで構成されていると捉えます。身業とは身体的はたらき・行動、口業とは言葉の持つはたらき、意業とは心のはたらきということです。私たちが現実に生活しているということは、これらの三つのはたらきを働かせているということです。注目すべきは、その三つのはたらき(身口意三業)がばらばらではなくて、三角形を形成し相互関係のもとで行動が捉えられているということです。その三者が相互に齟齬(そご)をきたさないということが求められるのです。例えば、言葉で言うことと身体行為とが矛盾したり、心で思っていることと言葉とが矛盾したり、身体行為と心で思っていることとが矛盾したりすると、「あの人は嘘を言った」とか「信用できない」とか「誤魔化した」とか言わざるを得ません。このような経験は誰でもしています。
 法然上人は「身の振る舞いにおいても、言葉を口に発することも、心に思うことも、それぞれみな嘘や偽りのない誠実な心で、身体・言葉・思いを働かせなさい」と勧めます。私たちには「心で思っていることとは裏腹に、自分を(つくろ)って行動したり言葉を使ったりしてしまうこと」がよくあるからです。私たちの行動(業)を、身体と言葉と意識とにおいて捉えて、それらを正しく働かせることを説く仏教の人間行動観は、すべての人間にひとしく課題とされます。
 現代社会において、身と心、ないしは物と人という二元的発想に支配される考え方の行き詰まり現象ないしは閉塞感の中で、身口意三業のありようが人間として生き、生活する行動の原点になり実践することを授戒は教えてくれます。現代の人間の行動が反省されるべき現象を目前にするときに、「身に振る舞い、口に言い、心に思うこと、すべて誠の心を具すべきなり」ことを体得したいと誰もが求めています。その求めに応じるのが授戒です。

 

(2)心が〝貪欲・瞋恚・愚痴〟の煩悩に振り回されないために

 自己をしっかりと凝視するときに、私たちの平生の生活における意識を振り返ってみましょう。何も考えずに、欲望に振り回され、引きずられることはありませんか。
 その姿は、お酒に酔っ払って朦朧(もうろう)として我を忘れているようなものです。ですから、善と悪との判断も鈍っており、実は、社会的生活に不都合が生じることになります。法然上人は「人の心はさまざまで、夢や幻のようにはかないこの憂き世での享楽に(ふけ)り、見てくれの栄華ばかりを追い求めて、後の世のことなどまるで気に留めようともしない人もいる」(「御消息」=『聖典』四・五三三頁)と嘆いています。現代社会も同様だと思います。
 なぜそうなのか?……それは、私たちには思いの瞬間瞬間に幾百種類もの多くの煩悩(貪りの心・瞋りの心・愚痴の心)がとめどもなく湧き起こって、その煩悩に翻弄されて判断力を失うからです。ですから、私たちは大切な自分自身を見失っても平々凡々と生きているのでしょう。そのように煩悩に塗りたくられている私たちが行う修行では、自分の力でやり遂げられることは何一つないのです。
 そのような凡夫である私たちは、一体、どうすればよいのでしょうか。
 この質問に答える、確かで最も具体的な実践が〝授戒〟、すなわち「戒を授かり、自らの生き方を、一人一人が実行すること」です。

 

3 ほんとうの自分を生きよう! ─お念仏と戒

 

(ⅰ)お念仏と戒念仏の相続による光明摂取・法然上人のお念仏

(1)阿弥陀仏の光明のはたらきを頂く

 浄土宗の教えの拠り所の一つである『仏説無量寿経』は、阿弥陀仏(無量寿仏)の光明について次のように説き明かしています。

無量寿仏の威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、能く及ばざる所なり。あるいは仏光あり。百仏世界あるいは千仏世界を照らす、要を取ってこれをいわば、すなわち東方恒沙仏刹を照らす。南西北方四維上下も、またかくのごとし。あるいは仏光あり。七尺を照らし、あるいは一由旬二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとく転倍して、乃至一仏刹土を照らす。この故に無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号したてまつる。それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心(ぜんじん)生ず。もし三塗勤苦(さんずごんく)の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る。 (『聖典』一・二三七頁。参考…浄土宗総合研究所編『現代語訳 浄土三部経」六九 七〇頁)

 阿弥陀仏の光明は、単に衆生を照らし出すのではなく、十二種類の光明のはたらきを具体的に衆生に働かせる。衆生の持つ三垢=煩悩=貪欲・瞋恚・愚痴を消滅して、身も心(意)も柔軟になって、喜びで踊りだすほどの気持ちにつつまれて、善なる心を生ぜしめる。さらに、地獄・餓鬼・畜生の厳しい苦しみの中にあっても、この阿弥陀仏の光明に触れるならば、心に安らぎを感じて、苦しみ悩みはなくなり、やがて寿命が終わる後には、解脱を得ることができる、というのです。

 

(2)光明の功徳と摂取

 四十三歳の法然上人は、善導の『観経疏』散善義での「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者是名正定之業、順彼仏願故」の文に依憑して浄土の教えを立て開きました。この文との出会い以後、法然上人はこの文にすべてを託す「一心専念……」の実践行者となり、口称念仏を相続し続けたのです。その念仏相続がもたらしたことを見逃してはなりません。法然上人が、そのように「一心専念弥陀名号……」の口称念仏を相続実践したゆえに、ご自身が体得した阿弥陀仏の光明の功徳とそのはたらきが、六十二歳頃に執筆された『逆修説法』三七日の説法で語られているのです。

  a.光明の功徳

 名号は万徳所帰、すなわち、万徳がこもり内証(ないしょう)外用(げゆう)の功徳が発揮されるのであり、それは、阿弥陀仏の優れた光明のはたらきです。法然上人は、阿弥陀仏の光明を、常光と神通光とします。たとえば、「月かげの いたらぬさとはなけれども、ながむる人の心にぞすむ」のお歌で捉えられるのは、上の句の「月かげの いたらぬさとはなけれども」は、『観経』の「光明遍照 十方世界」であり、常光です。下の句の「ながむる人の心にぞすむ」は『観経』の「念仏衆生 摂取不捨」であり、神通光です。
 念仏申すことは、阿弥陀仏の〝神通光〟に照らされ、その光明は念仏申す人に入り込み、住む(澄む)と言われています。念仏を申すことによって、阿弥陀仏の光明を受け入れ(摂取され)て阿弥陀仏と離れ捨てられることはないことになります。阿弥陀仏の光明の功徳をそのように頂くことを、法然上人は解き明かしてくださいます。

  b.光明摂取の現実

 法然上人は、阿弥陀仏の光明を「念仏衆生、摂取不捨」のはたらき、すなわち、神通光と名付けます。そして、『無量寿経』説示の十二光仏のはたらき作用として捉え、特に、清浄・歓喜・智恵の三光明のはたらき作用を具体的に次のように語ります。(いずれも原漢文)

清浄光とは、人師釈して云う。無貪の善根所生の光なり。(中略)此の光に触れる者は貪欲の罪を滅す。(中略) 心を至して専ら此の阿弥陀仏の名号を念ずれば、即ち彼の仏、無貪清淨の光を放って照触摂取し(たも)うが故に淫貪財貪の不浄を除きて、無戒破戒の罪愆(ざいけん)を滅して、無貪善根の身と成りて、持戒清浄の人と(ひと)しき也。 (『昭法全』二四六頁)

と言い、続いて、

歓喜光とは、此れは是れ無瞋の善根所生の光なり。(中略) 此の光に触れる者は瞋恚の罪を滅す。(中略) 専ら念仏を修すれば、彼の歓喜光を以て摂取し下う故に、瞋恚の罪滅して忍辱の人に同じ。是また前の清浄光の貪欲の罪を滅するが如し。
 (同)

と言い、さらに、

智恵光とは、此れは是れ無癡の善根所生の光なり。(中略) 此の光はまた愚癡の罪を滅す。然らば無智の念仏者なりと雖も、彼の智恵の光を以て照らして摂取し下う故に、即ち愚癡の罪愆を滅して、智者と勝劣有ること無し。      (同)

と説き示します。
 すなわち、「心を至して専ら此の阿弥陀仏の名号を念ずれば」→「彼の仏、無貪清浄の光を放って、触摂取し下う」→「持戒清浄の人と均しき也」であり、「専ら念仏を修すれば」→「彼の歓喜光を以て摂取し下う」→「忍辱の人に同じ」であり、「無智の念仏者なりと雖も」→「彼の智恵の光を以て照らして摂取し下う」→「智者と勝劣有ること無し」とされます。

  c.光明摂取によって「持戒清浄の人と均し」くなること

 念仏を申すことによって、清浄光に照触摂取されて持戒清浄の人と均しくなる、歓喜光によって摂取されて忍辱の人に同じになる、智恵光によって照らし摂取されて智者と勝劣有ることなし、と断定されます。
 この理解は、十五歳で出家した若き時代の比叡山で〝戒・定・恵〟の三学を完璧に修行しようとしたゆえに、自らを三学非器として「我が心に相応する教えと我が身に堪能な修行」を求めつくした法然上人が、善導の「一心専念弥陀名号……」の行者となり念仏相続を修することによって阿弥陀仏の清浄・歓喜・智恵の光明に摂取されて、持戒清浄の人と均し・忍辱(心を安らかに落ち着け瞋恚の念を起こさない)の人と同じ・智者と勝劣なし、と確信したことにおいて語られている事柄です。
 専修念仏者(「一心専念弥陀名号……」の行者)である法然上人に帰依した政治権力者の九条兼実は、五十七歳の法然上人に請うて授戒したのをはじめとして、上人が七十歳(一二〇二年)のときに出家するまでの十四年間に、六回ほど戒を授かっており、それは授戒念仏であるとも記録されていることは注目に値します。まさに末法そのもののような平安時代末期から、転変する政治権力の現実の中に生きた九条兼実は、法然上人から念仏と仏戒を授かることによって安息・清浄な心に満たされていったことでしょう。念仏申すという実践の継続によって、念仏者は、阿弥陀仏の光明による照触摂取のはたらきを、例えばシャワーのように浴びせ育てられて、「持戒清浄の人と均しき也」「忍辱の人に同じ」「智者と勝劣有ること無し」になるということです。このことは、念仏申すことの相続・持続によって、念仏申す人は、求めずとも自ずから〝持戒清浄〟になるということです。

 

(ⅱ)お念仏をしよう

 法然上人が、五十八歳のときに行った東大寺での三部経講説の内容が記された『観経釈』には、版本が五種類ありますが、正徳版(『浄全』九所収)では「例え戒体を獲得しても、戒を毀犯することが多くあり、阿弥陀仏の十力威徳名号光明の神力でなければ何に由って生死を出ることができようか。罪を犯すならばすぐに懺悔して心を至して南無阿弥陀仏をとなえて下品中生に往生することができる」(『浄全』九・三五一頁、『昭法全』一一九頁)と述べています。すなわち、戒体を発得しても戒を破ることがありますが、その場合には阿弥陀仏の十力威徳の名号の神力以外では通じません。ですから、罪を犯したらすぐに懺悔して至心に念仏すれば、犯してはならない罪を犯した者も下品中生の往生ができます、と法然上人は諭してくださっています。
 これらのように、戒体を発得し持戒していながら罪を犯すことがある凡夫でも、その折々に懺悔して至心に念仏すれば、往生できるのです。そのように、受戒した心もちで、お念仏を申すことによって正しく実地に獲得されると言うことができます。端的に言えば、人生のいま、現在において往生浄土を求め実現するお念仏が、戒を授かることによって、よりいっそう尊く「現世を正しく、明るく、仲よく生きる」実感へと受けとめ直されて、私たちの人生を輝くものとし得るのです。
 その極意は、〝お念仏をたゆまず申す毎日の日暮らし〟にこもっています。「念仏に()き人は、無量の宝を失うべき人なり。念仏にいさみある人は、無辺の悟りを開くべき人なり」(『昭法全』六三八頁)と私たちに諭してくださる法然上人のお言葉を素直に頂きましょう。

 

おわりに 授戒のすすめ

 現代は、平安・鎌倉時代の日本仏教者たちが真剣に取り組んだ末法意識を忘れるべきではないでしょう。一〇五二年に末法に突入したという時代観が、日本人の宗教意識の中に芽生えさせたものを、二十一世紀を生きる私たちは時代と場所と人心などを超えて、理解する必要があるでしょう。それは、単に時間と空間の隔たりを超えるということではなくて、浄土教が(はら)み持つ真実において私たちの現在を捉えようとする積極性の問題です。なぜならば、末法万年という思想においては、二十一世紀の現代も末法なのですから。
 言うところの、現在も末法であるという視点と自覚にもとづき、本論では「現代とはどういう時代か?」と問いかけることから始めました。現代の特徴を〝知識と技術〟の進歩という状況がもたらす人間の問題として、そこでは、何が必要なのか、何が問題なのか、など提起されますが、〝生き方と価値観〟として事例をあげつつ考えました。その状況は〝生き方〟も〝価値観〟も個人という主体が選ぶことによって現実となるということです。
 そこで、〝生き方と価値観〟を現代のわれわれに考えさせる視点を、仏陀の言葉と浄土経典『仏説無量寿経』の中から抽出し話題としました。それは、〝仏性を具え・戒体を具える人間〟であるにもかかわらず、否定できない〝貪瞋痴の煩悩〟のはたらきです。その煩悩に気づき自覚するときに、私たちは、そこに進歩の観念ではなくて人間の現実が孕む本来的な姿を把握せざるを得ません。そのような人間の本来的姿ゆえに、授戒の積極的な意義が考えられます。
 ところで、現代社会においては教育の水準に応じて倫理・道徳に関する知識が高まっていることは誰もが認めますが、「善いことをし、悪いことをしない」知識に留まり、行為・実践として敷衍しているとは言えません。現代の社会における〝悪〟の事象・現象について、何ゆえこんなことが起きるのだろうかと、誰もが苦々しく感じているに違いありません。「善いことをし、悪いことをしない」行為・実践を倫理・道徳が教えながらも、〝にもかかわらず悪が行われる〟現実を直視するときに、われわれは、理性・知性のはたらきに基づく倫理・道徳の限界を指摘せざるを得ません。そこに、授戒の積極的役割を見つけ出します。
 私たちは、現実の自己が煩悩に縛られ塗れる姿を自覚しますが、一方で仏教は、すべての人々は、ひとしく〝仏性を具え・戒体を宿す〟ことを強調して止みません。しかし、現実生活では一人一人が、むしろ煩悩に振り回されて〝仏性を具え・戒体を宿す〟ことを見失っていると言ってもよいでしょう。それゆえに、煩悩が強力に意識化されるのです。法然上人のお言葉を借りれば、戒体は「葦の繁き池に十五夜の宿りたるは、よそにては月宿りたりとも見えねども、よくよく立ち寄りて見れば、葦間を分けて宿るなり」なのであると言えます。それゆえに、誰もが「戒体」を宿しており、〝戒体〟発動の機縁を得て、自らの〝生き方〟の真実・価値・尊さを自覚して実行できるのです。戒体の発動を確かな力となし得る受戒の儀式(授戒における三羯摩の儀)を体験することによって、〝貪瞋痴〟の煩悩を仏の力によって調整・消除され、「悪を止め、善を行い、自他ともに和やかに生活する」という、真実に変わらざる「生き甲斐」と「人間の尊厳」が現れ出ることになります。そこに、新たな尊い〝生き方と価値観〟が体得され実践されていくことになるのです。
 浄土宗の教えにおいては、仏陀釈尊がこの世に出現した目的(本懐)は阿弥陀仏およびその浄土の教えを説き明かすことであり、浄土の教えは釈と弥陀の二尊教であるとされます。二尊(釈仏と阿弥陀仏)の教えであるということは、授戒の儀式において戒を授けてくれる師は釈尊(戒師)ですが、その釈尊の本意は阿弥陀仏のみ心にあります。したがって、法然上人が説き示してくださるように、「心を至して専ら此の阿弥陀仏の名号を念ずれば」→「彼の仏、無貪清浄の光を放って、触摂取し下う」→「持戒清浄の人と均しき也」というように、〝一心に専ら此の阿弥陀仏の名号を念ず(となえ)れば持戒の者に均しくなる〟のです。「名号の内証外用の功徳」(『選択集』)と「阿弥陀様の十力威徳名号光明の神力」(『観経釈』)であり、「阿弥陀仏の本願の念仏」(『選択集』)である称名念仏によるからです。
 このことは、念仏申すことが念仏者に阿弥陀仏の光明のはたらきとして受け止められていくということ、〝悪を止め、善を行い、自他ともに和やかに生活する〟育成を実感するに至り(戒体の発得)、念仏相続・持続の中に開かれる尊い〝生き方と価値観〟を育てられ(戒の実践)、人生の寿命(よろこばしきいのち)の終わりは阿弥陀仏・聖衆の来迎を頂き浄土への往生を果たすこと(往生浄土)ができるということです。つまり、〝念仏申すという経験〟の中で自らの〝戒体の発得〟のための授戒が意義と役割を発揮し、所求(究極的に求める所)である往生浄土の決定心が、より一層力強く確立していくことになるのです。

 
*注 一五七頁で正徳版『観経釈』を引用したが、この版本については資料的吟味がすでになされているところであるが、われわれが浄土宗の定本として用いる『浄土宗全書』第九巻に所収されているので、ここに用いたことを付記しておく。