第2章◎ 説戒
  説戒実例

 
 
浄土宗布教委員会委員長 上田 見宥

1.摂律儀の戒相

*同称十念
*開経偈

 つつしんで拝読し奉る
 『梵網菩戒経』に曰く

  衆生仏戒をうけぬれば
  即ち諸仏の位に入る
  位大覚に同じ已りなば
  真に是れ諸仏のみ子なり と 十念

第十  説 相

 お話もだんだんと進みまして、いよいよ第十説相に入ります。
 相というのは相貌(そうぼう)ということで、言わば戒の姿ということです。『授菩薩戒儀』(新本)には、

すべからく相貌(そうみょう)解了(げりょう)して、(いささ)かも毀犯(きぼん)すること(なか)るべし。〈1〉

とご教示でありまして、ここでは摂律儀戒の相を学ぶのです。それは十カ条ございまして、「十重禁戒」と申します。他にも「四十八軽戒」という、文字どおり少し軽めの戒もお説きですが、只今は「十重禁」のみをお執り次ぎいたします。
 最初のころに少し触れたかも知れませんが、この戒にも大乗戒と小乗戒の二種類ありまして、大乗戒は比較的ゆるやかであるのにくらべて、小乗戒の方は非常に厳しいものがあります。小乗戒は部派にもよりますが、通常二百五十戒という膨大な戒相を説きます。草一本抜くのも殺生のうちに入ります。水を飲むにしても「瀘水嚢(ろすいのう)」というもので()してから頂くのです。それは、澄んだ水の中にもどんな小さな生き物がいるかも知れぬという配慮からです。ですから、出家者の持ち物を「六物(ろくもつ)〈2〉」と言いますが、瀘水嚢はその中の一つになっているほどです。越後の良寛(りょうかん)さまが、(しらみ)を日向ぼっこさせて、またもとの懐へ戻してやったというお話などは、そのよい例です。
 これからお執り次ぎするのは大乗の戒ですから、そのご精神をよく学んでほしいと思います。
 その「十重禁」とは、

  (1)不殺生戒(ふせっしょうかい)
  (2)不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  (3)不邪婬戒(ふじゃいんかい)
  (4)不妄語戒(ふもうごかい)
  (5)不酤酒戒(ふこしゅかい)
  (6)不説四衆過戒(ふせつししゅかかい)
  (7)不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)
  (8)不慳惜加毀戒(ふけんじゃくかきかい)
  (9)不瞋心不受悔戒(ふしんじんふじゅけかい)
  (10)不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)

の十戒であります。

(1)不殺生戒

  まず、最初は「不殺生戒」です。

 これは言うまでもなく「殺す」ということですが、これの種類も、

  (1)自ら殺し
  (2)他を教えて殺さしめ
  (3)方便して殺し
  (4)讃歎して殺し
  (5)随喜して殺し
  (6)(じゅ)して殺す

など、いろいろご教示です
 それはともかく、大慈悲心をもって衆生を見る菩は、生き物の生命を奪ってはならぬという根本原則からの戒法であります。あらゆる生き物にいろいろの欲望がありましょうが、一番強い欲望は「生命欲・生存欲」です。仏教では、

  一切有命の者は(ことさら)殺すこと得ざれ。

と、「故殺」と「誤殺」を区別して、故殺のほうを重罪と見ています。また仏教では生命を「命根」と言って何よりも大切にしますし、『梵網経』には、

  一切衆生を救護すべし〈3〉。  

などと説かれているところです。
 仏教徒は昔から「放生会(ほうじょうえ)」というおつとめをして、生き物の命を大切に思い、救ってまいりました。例えば、売られて料理されようとする川魚を(あがな)うて、仏前で三帰を授けて放生池に放すのです。奈良の猿沢の池は興福寺の放生池と言われていますが、古来、大きなお寺はみな放生池を持っていたようです。
 わが浄土宗でも敬首(きょうじゅ)比丘(びく)〈4〉というお方が『放生(ほうじょう)慈済(じさい)羯磨(かつま)儀軌(ぎき)』というものを定めてくださり、以後その『儀軌』によって放生会がつとめられています。今その一節を拝するに、

(なん)じ仏子、慈心を以ての故に放生の業を行ぜよ(中略)六道の衆生は皆是れわが父母なり。而るを殺して而も食せば、即ちわが父母を殺し亦わが故身を殺すなり。云々 

と、生きてあるものは皆、わが父母と頂いて、たとえ一虫を(すく)うことも大慈悲の極まりとするのです。そして水を呪して解穢(げえ)し、その命を救います。もう少し『儀軌』の文を見てまいりましょう。

いま水族飛禽若干頭数(ずすう)、已に苦受に(かか)ってまさに火湯に入りなんとす。我等仏子惻隠の心を発して放生の業を行じ、その身命を贖うて郤し放って逍遥せしむ。

また、この書の最後にある「建会(こんね)放生疏(ほうじょうのしょ)」では、

  生を愛するは固より賢智に通じ、死を畏るるは必ず昆虫に(およ)ぶ。

と、この世の無常なることを充分承知している賢者にして、今ある命をいとおしく思い、無智・畜生の昆虫でも、あやしい影を見ては飛び立ち逃げるのです。命を取られて喜ぶ者はありません。
 例えば、川魚屋の鮒にしろ、鰻にしろ、今日か明日には火に(あぶ)られ、あるいは熱湯の鍋に入れられるのは必至です。そうした水族や、また鶏のような鳥の類を買い求めて池に放つのです。ですから放生池で魚釣りは厳禁であります。
 しかし翻って考えてみて、ものの命を奪わねば生きていけないということも事実です。()って血の出る殺生だけが殺生ではありません。一粒のお米にも生命が宿っているのです。その証拠に、収穫したお米の(もみ)を田んぼに()けば、必ず青い新芽を出すことでしょう。それを私たちは、脱穀して籾を取り除き、(ぬか)まで落として頂くのです。他の野菜類もみなそうです。お大根も最後には花を咲かせ、実を結んでそれが種になり、次の世代に命を繋いでゆくはずです。しかるにわれわれは、花を咲かせる前にひっこ抜いて、炊いて食べたり、大根オロシで食べてしまいます。言わばお大根の命を頂戴して栄養を摂り、我が身を養っているのです。考えてみたら相い済まぬことばかりです。

  ものの種 握ればいのち ひしめけり (日野草城)

 一流の俳人の感性にはおそれ入ります。野菜の種を蒔こうとしたのでしょうか。握った掌のひらには二、三百粒の種があって、そこに蒔けば青い芽を出す命がひしめいているというのです。
 こう言えば、もうお分かりでしょうか。お米の命、お野菜の命、すべてが私を支えていてくれる、養いの親さまであります。だから〈高い〉〈安い〉の問題ではありません。「お大根の種は百グラムで○○円だから、安いものだ。捨てても惜しくない」と考えたら大間違いです。すなわち大乗仏教の不殺とは、「無駄にしない。粗末にしない。勿体ない」と頂くことであります。お水の一滴をも大切にしてまいります。

  曹源一滴の水、七十年用いて尽きず。

という言葉をご存じでしょうか。
 昔、京都・福知山出身の一人の僧が岡山の曹源寺義山和尚の弟子となって雲水の修行に明け暮れておりました。雲水の修行は厳しいものです。作務といっていろんな労働をします。素足に(わらじ)ばきで山から薪を背負って帰り、お風呂を湧かしたりもします。
 ある日、お風呂が湧いて義山和尚が入浴されましたが、少し熱いので「誰か水を持ってこい」と声がかかります。その若い僧が早速、水を汲んで参上しますと、湯桶に水を足し、いい湯加減になったところで、余った水をお返しになりました。静かに湯桶につかっていた義山和尚の耳に、湯殿の外で「ザァー」と水を撒く音が聞こえてきました。その音で和尚の胸には咄嗟(とっさ)にひらめくものがありました。
 お湯からあがった義山和尚は、さきほどの雲水を呼んでお尋ねになります。
「お前、さきほどの余った水をどうした」
「残り水ですから、そこらの空き地に撒きました」
「この大馬鹿者が! なぜ近くにある植木にやらなかったのか! 木の根に撒いてやれば樹も喜ぶし、水もそれで本望というものだ。そんなことでは一人前の僧にはなれんぞ」
ときつく叱られました。
 一滴の水も大切にするという義山和尚の教えに感動したその雲水はそれ以後、名前を〈滴水〉と改めて修行に励み、やがては嵯峨・天龍寺の管長さまにまでなられました。曹源寺でのこの貴いみ教えは、七十歳の今でも忘れることがないそれが「七十年用いて尽きず」ということであります。
 同じようなことは、お茶室の掛け軸などでも拝見して感動するときがあります。

  珍重半杓水(珍重す 半杓の水)

 柄杓に半分の水にも命の世界を見ていくのです。

 一枚の紙にも命がこもっています。浄土宗のある大本山の法主台下は、郵便の封筒の中裏は無地ですから、必ず開いてメモ用紙としてお使いになったそうです。
 それで一枚の紙の命が生かされたら有り難いことです。少しの水も撒きようで生きてまいります。ただ今は飽食の時代と言われていますが、お互いにずいぶん勿体ないことをしているのではありませんか。それにグルメなどという言葉が流行って、それを自慢にする、やがて待っているのはおそろしい成人病です。ひととき「消費は美徳なり」「消費者は王様です」と大量生産・大量消費がもてはやされました。反省せねばならないことばかりであります。
 以上でおわかりのように、大乗仏教で言う「殺生戒」とは、森羅万象には生命が等流している=その生命を頂かねば我が身を養うことができないのだから、頂いたお米一粒、水一滴の尊い生命を生かしきるような生活をしてまいろうと決意を固めることであります。

(2)不偸盗戒

 少し難しい字ですが、この「偸」も盗むという意味です。「不与取」と申して「与えられざるものを取る」ことを戒めます。また「故盗」といって「(ことさ)らに盗むなかれ」と教えていてくださいます。『梵網経』には、

  一切財物、一針一草、故らに盗むことを得ざれ〈5〉。  

とあり、また『華厳経』にも、

  与えられない他人の物を取るな。 

と戒めておられます。
 人間の欲望は何と言っても「生存欲」ですが、その一つは「生命」そのものです。もう一つはその生命を守り満足させる「衣食住」に対する欲望です。盗みということは、その衣食住を劫奪することですから、罪の深いことであります。私たちの心がけねばならないのは『無量寿経〈6〉』で説かれています「少欲知足」ということです。この世は欲界と言われるとおり、凡夫にすべての欲心を禁ずるのはまず無理というものです。だから「少欲で暮らしなさい、多くを求めず、足ることを知りなさい」というみ教えです。言わば少欲とは、ものに対して執着の少ない心です。執着がなければ盗心もまた起こりません。生活する上で、金銭・財産・物質もある程度は必要ですから、その全部を否定するものではありませんが、強欲を起こさないように、節制のある生活が望ましいのです。古い道歌に、

  もの持たぬ (たもと)や軽ろし 夕涼み

とありますが、まことにすがすがしい姿であります。
 釈尊はこの「欲心」の反対の「布施」を説かれました。これはまことに説法の妙であると思います。六波羅蜜多の第一に説かれたのが、この「布施」であります。他人さまのものを奪ってでも欲しい私に「施せ」と教えられます。赤貧(せきひん)に甘んじなさいというのは今日的ではありませんが、少なくとも施しを学習することは盗み心を対治することになると思います。
「四誓偈」の、

  我無量劫に於て大施主となって、普く諸々の貧苦を済わずんば誓って正覚を成ぜじ。

というみ仏の大きな願心が何よりのお手本であります。
 なお、この偸盗に「方便盗」方便して盗むということがありますのでご紹介します。
 お米の売買など、現在はキログラム単位で行いますが、昔は枡で行いました。それで一斗枡とか一升枡などを使いました。その一斗枡の底を少し上げ底にしますと、九升八合しか入らない。結局米屋さんが二合ほど得をするということになる、これが方便盗であります。また以前、電車などで「キセル乗車」がありました。これも立派な方便盗であります。
 自ら盗み、人に教えて盗ましめ、方便して盗み、讃嘆して盗み、作すを見ては随喜し、とこの偸盗もなかなか種類が多様です。
 そしてまた、金銭や品物を盗むだけが盗みではありません。時間を盗む=時間の無駄遣いい、心を盗む、人の眼を盗む、務めを盗む。これらは広い意味でみんな盗みでありますから、くれぐれも注意が肝要であります。次に進みます。

(3)不邪婬戒

 これも「自ら(みだ)し、人に教えて婬せしめ(中略)故らに(いん)することを得ざれ」とさまざまに説いてくださっています。
 これは男女の性の問題です。この世は男性だけでは成り立たず、女性だけでも成り立ちません。その両者が婚姻して家庭を作ることで、子孫・家庭も存続し、社会・国家も繁栄いたします。ですから夫と妻=この関係は正婬ですが、これが複数になり、二対一あるいは二対二になると具合が悪い。人間としての浄らかな行ではないというので、この戒を「非浄行戒」と申し、また配偶者に対して慈悲の心を欠くというところから「無慈行欲戒」とも名付けられています。
 生きた人間につきものの欲望は五つを数えます。食欲・金銭欲・睡眠欲・名誉欲に色欲の五欲です。これらの五欲はあながちに非難されるものではなく、いわば天地自然の理法です。食欲がなければ体力を維持できませんし、ある程度の金銭欲がなければ社会の経済活動はできません。もし人間から睡眠を奪ったら気が狂うかもしれないし、適度の名誉欲があってこそ、進歩向上の励みにもなることでしょう。性の問題=色欲も同様でさきに申したとおりです。昔から、

  楽しみは春の桜に 秋の月
    夫婦仲よく 三度食う飯

と謡われているように、夫婦仲よく暮らせたらそれ以上の幸せはないのですが、なかなかそうはまいらぬのが常であります。はやり言葉の「不倫」、俗に「魔がさした」と言いますが、「魔」とはすなわち「間」だと言います。「心のすき間」から「悪魔の使い」が入り込むのです。
 男も女も人間同士ですから「仲よくお付き合いをするのはよいが、婬するなかれ」とみ仏は戒めてくださっているのです。もし邪婬を犯せば心労が加わり、目に見えぬ精神の無駄におちいり、仕事も能率が下がりお粗末になります。よく言われる言葉に「性の乱れは礼節の乱れになる」というものがあります。礼節の中でも一番乱れやすいものですから、よほど注意せねばなりません。

  女房に 亭主が惚れて 家は無事

という川柳のとおり暮らすことが大切です。

(4)不妄語戒

 天台大師の『菩戒義疏』巻下に「(もう)は是れ不実の名〈7〉」とございます。不実は真実の反対ですから、妄語とはマコトならざる言葉、つまりは虚言・嘘ということです。虚言を吐いてはいけません。虚言を吐く・嘘をつくというのは心に真実心がないからてす。

  心にマコト(真実心)があれば、
  言うこともマコト(真言)、
  することもマコト(真事)です。

 いま「言うことも真言(マコト)」と申しましたが、「真言」は、別に弘法大師の専売特許ではありません。嘘のない言葉が「真言」であります。
 心において偽りがなく、言葉においても偽りがなければ、すばらしい人格です。
 キェルケゴール〈8〉は「人生の危機は信頼の欠除なり」と言ったそうですが、お互いに信頼が置けず、信用を重んじないようであれば、そこに男女の危機・家庭の危機・社会の危機が生まれます。
 不妄語の人は言行一致して、行いの上でも偽りのない信用のおける人と信頼されます。事実この世は信用・信頼で成り立っていることばかりです。
 例えば、ハガキをポストに入れるのも、必ず相手に届くという信用あってのことです。宛先に届くか届かないか分からないが、とりあえずポストに入れようという人はないはずです。お薬を飲むのも医師の処方を信頼しての話です。銀行に信用がなければ預金する人はいません。ものの売買にも妄語は禁物です。最近は商品の品質・賞味期限など明示することが義務づけられて、嘘偽りのない商業道徳が求められています。もし、虚偽の表示をすれば、そのお店は社会から信頼を欠き、相手にされなくなってしまうことでしょう。
 真実心から出た真実語は、良き種子のようなものだと言われます。そこから良い芽が出て、良い枝葉が繁り、美しい花が咲き、すばらしい果実が成るのです。これに反して虚言からは何も生じません。虚はカラッポ、種とは見せかけだけで実がない、皮だけ、これを「嘘の皮」と申します。
 思えば人間だけに言語があります。他の動物には言葉がありません。自分の意思を伝えることができる言葉を与えられながら、実語を使わず、不実語を使うことは勿体ないことです。

  他人さまの悪口は、嘘でも面白い。

と言いますから、言う方も、聞く方も、罪を作ります。おしまいには、嘘・不実語がだんだん上手になって、どこまでが本当なのか分からぬほどになれば、今度は一生涯を通じて自分の信用がなくなってしまいます。
 身口意の三業のうち、この妄語は口業四つの中の一つで、他の三つの口業もここに含まれるとご承知ください。その他の三つとは、

  悪口(他人さまに対する悪口)
  綺語(飾り言葉・おべっか)
  両舌(二枚舌)

です。
 まことに「悪語消え難し」と申します。斬傷(きりきず)はいつのほどにか、もとの皮膚に戻って消えていきますが、言葉で与えた傷は消えませんから、よほどの注意が必要です。

 なお、開遮(かいしゃ)といって嘘=妄語でも許される場合があるので触れておきたいと思います。俗に「ウソも方便」と言いますが、実際にそういうこともあるのです。
 私のお寺の檀信徒の奥様が癌の宣告を受けて長らくの療養生活をされていました。だんだんに痩せて、見るも痛々しくなってこられたある日、ご主人がお墓参りにお寺を訪ねられました。偶然にお庭でお目にかかった私にそのご主人が申されました。

  和尚さん、お願いがあるのですが、今度月詣りに来られたとき、家内と会われたら、
  「まあ顔色もよくなって、少しは元気が戻ってきたようですね」
  と励ましてやってほしいのです。お願いします。
と。これは嘘をついてくれ、ということです。あきらかに妄語戒に抵触しますが、そのご主人の優しさに触れて、お願いされたとおり嘘をつきました。こんな嘘はみ仏さまもお許しくださることでしょう。少し休ませて頂きます。同称十念

     *同称十念
     *開経偈
(5)不酒戒

 先の天台『菩戒義疏』に、

  酤は是れ貨売の名〈9〉。

とありますから、この戒はお酒を飲むことより、お酒を売る方に重きをおいた戒であります。またこの戒のことを「酤酒生罪戒」とも言いますから、お酒を売ることは罪を生ぜしめることになり、好ましいことではないと戒めておられます。また、同『義疏』には、

  酒は是れ昏酔の薬、酒に三十六の失あり。放逸の門故の制重なり〈10〉。

とあり、酒には三十六ものたくさんの失を生む因があるとされていますが、一口に言えば「放逸行をいましめる」ということです。酒を飲めばつい放逸になる。放逸になるとは、正念を失い、本心にあらざる罪過を犯す結果になります。
 この酒という字は、水(サンズイ)に(とり)と書きます。酉は昔の時間で午後六時前後を言いますから、夏はともかく冬ならもう真っ暗です。まあ一年を通じて言えば、夜になっていく時間帯ですから暗くなる時刻です。そういうことから「心を(くら)くする水」という意味で「酒」という字ができたと言われていますが、真偽のほどは別として(うなず)ける話です。心を昏くしますから、これを「無明(むみょう)の水」と申します。だから昔から、

  無明の水とも名付け、酔えば心昏し、身を守らず、人を(そこな)い、善を遮え、悪を犯し、宝を失い、恥を忘れ、貴きを敬わず、若きに(さげす)まれ、身衰え、力弱り、諸事を怠り、(よろず)の病生ずる。

と言われているのです。ほどほどに飲めば、百薬の長とも言われるお酒ですが、肝臓・(すい)臓・糖尿など、さまざまな病の因となりますから、要注意です。

  世のうさを 忘るる酒に 酔いしれて
      身の憂い添うる 人もありけり

 酔いしれるほどに飲むから喧嘩になってみたり、品性が下劣になって人に蔑まれます。
「あのときは酔っておりまして……」
「何分 酒の上のことで……」
と日本では割にお酒に寛大で、「酔っぱらい天国」という一面もありました。

  酒のみは 奴豆腐に よく似たり
    はじめ四角で あとはぐにゃぐにゃ

 真夏の冷や奴豆腐は、姿かたちも端正にまことに涼しげでありますが、お箸をつけて崩れたら、見る目もなく無残な格好になります。酒飲みもそれと同じで、初めは羽織・袴で行儀よくしておりましたお方が、酔うにつれて無礼講、酔う前の人格がどこかへ行ってしまって、見るも無残な姿になります。

  よき程に 呑めば薬の 機嫌酒
    いつも調子(銚子)に 変わり目はなし

 銚子に一本、二本とそのお方の普段の適量を飲んでおれば薬にもなろうお酒ですから、羽目を外さずに飲むことが望まれます。
 以前、私の知り合いのお方が忘年会で飲み過ぎて、地下鉄の入り口まで辿り着いたのですが、そこでダウン。寒い師走の路上で寝込んでしまい凍死されました。企業の第一線で活躍されていましたから、まことに惜しい人材ですが、翻って家族にとっては思いも懸けぬ不幸な出来事で、何ともお慰めする言葉もありませんでした。
 酒飲みの亭主をもてば奥さんの苦労も一方ならぬものがあります。

  酒やめて ほしい亭主の 酒を買い

 こんな川柳を見ると泣けてまいります。しかし最近はご婦人方もなかなか負けずにお飲みになるようで時代が変わってまいりました。
 ですから、「今日は飲むな」と言っても無理な時代です。だから「飲んでも酔うな」と言い換えましょう。但しここで言う「酔う」ということは「酔生夢死」ということです。それはお酒に酔ったような生き方をして、夢のように死んでいくということです。先ほどはお酒の三十六失に触れましたが、『長阿含経〈11〉』にも「飲酒の六失」として、

  (1)財を失い
  (2)病を生じ
  (3)闘諍(とうじょう)
  (4)悪名流れ
  (5)恚怒(いど)暴生(ぼうしょう)
  (6)智慧日に損す

とご指南くださっています。お酒を飲むということは、これくらいに害があるということをわきまえて飲まねばなりません。起きていながら夢を見ているような生活をしている、それが「酔生夢死」の姿です。
 その「酔生夢死」の生き方を戒めてくださるのが、あの有名な「イロハ歌」であります。

  色は匂えど 散りぬるを
  わが世 たれぞ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず

 美しく咲く花も散ってゆく無常の世に生きながら、ウカウカと暮らしてきたが、それに気付かせて頂いた、今日からは、どこまでも続く奥山の迷い道から抜け出して、覚醒の生活をしてまいりたい、という意味です。このお歌は、お酒を飲む人も飲まない人も、肝に銘じて忘れてはならないと思います。
 さて、法然上人のお考えはいかがでしょうか。ある人が法然上人にお尋ねしました。

  酒飲むは、罪にて候か。
  答え、まことには飲むべくもなけれども、この世の習〈12〉。

 いかがでございますか。すばらしいお答えではありませんか。
 本当は飲まないのが一番良いのだが、まあこの世の習いですからね、ほどほどになさいませよ、というご返事です。
 飲んではならぬ、といってもお飲みになるのですから、程度を越えないようにというご配慮です。いずれにしても「百薬の長」と言われるお酒ですから、それを薬として使えば良いのです。適量のお酒は血管活動を盛んにし、頭の刺激にもなります。だから「般若湯」というのです。「般若」とは「智恵」という意味ですから、良い智恵の出るような飲み方をすれば、「智恵の水」です。間違っても造罪の因となるような飲み方は絶対に避けるべきであります。

(6)不説四衆過戒

 次は、「不説四衆過戒」です。「四衆」とは、

 (1)比丘………男子の出家者
 (2)比丘尼……女子の出家者
 (3)優婆塞……男子の在家信者
 (4)優婆夷……女子の在家信者

の四種のお方です。「過」とは過失・あやまちのことですから、そうした四種の方々のあやまち・短所を、一般の人々にことさらに吹聴することをいましめる戒がこれです。
 四衆の方々はみな菩戒を受けたお仲間ですから、そうした内輪の方の欠点を言いふらすことは好ましくありません。
 人さまのことをとやかく言うどころか、この私も欠点ばかりの凡夫です。自分のことを棚に上げて、人さまのことは針小棒大に言いふらす、それがまた、たまらなく快感だという人がおられますが困ったことです。俗にニュース屋と言われる人など、地獄耳を持っておられるのか、何でも知っていらっしゃる。それに尾鰭(おひれ)をつけて発信しますから、そういうお方とはあまりお付き合いをしたくありません。これを怪我に(たと)えたら、自分の怪我はすぐに薬を塗って手当をするくせに、他人さまが怪我をすれば、その疵を(あば)いて大きくし、苦しめる、そういうお方です。
 人には皆、長所もあり、短所もあります。どんな立派な方でも短所をお持ちです。その短所で器量をはかったら、どんなお方でも落第点です。昔からの喩えに、

  どんなによく()れても正宗の名刀で草は刈れない
  草を刈るのはやはり鎌にかぎる

と言われています。
 名刀には名刀の役目があり、鎌には鎌の得意とするところがあるのです。
 できるだけ人の長所を見るように心がけましょう。そして慈悲心(なさけこころ)をもって人と接するようにしたいものです。そうすれば菩の戒を受けたにふさわしいお人柄にならせて頂けるのであります。

  慈悲(なさけ)をば 人の心の 根とすれば
   言葉の華も うつくしく咲く

 人さまの悪口・噂話は、言うのも聞くのも(うぐいす)(さえず)りより心地良いといいますから困ったものです。ことに、お仲間・親しい人のことは、お互いに内面までよく知っているからなおさらです。四衆というお仲間の悪口を言えばそれでその方の信仰は台なしです。もし気が付いたら、ソッと耳打ち注意して他言しないくらいの配慮が大切です。そして美しい言葉の華が咲き交うような暮らしがほしいものです。

(7)不自讃毀他戒

 この戒は字のとおり、自分のことを讃える「驕慢心」と、他人に対する「嫉妬心」をいましめる戒です。これは『梵網経』に、

  悪事は自ら己に向け、好事は他人に与うべし。
  もし自ら己の徳を挙げ、他人の好事を隠し、他人に(そし)りを受けしめれば、
  是れ菩の波羅(はら)夷罪(いざい)なり〈13〉。

と説かれてあるとおりです。
 おのれ良しとする心・おのれ高しとする心は、必然的に他人を低く見たい根性になります。自分に徳のあるように他人に分からせたい、そこから他人の立派な点は表に出ないようにしたい。他人を陥れても良心に恥じないという人格になってまいります。それは波羅夷罪といって重罪、教団追放ということになります。反対に菩たる者は、悪事は自分がかぶり、良きことは他人のお手柄にする、そうした徳を積み重ねていくのであります。
 只今は自己宣伝の時代と言われるほどで、「自分で言わねば誰も言うてくれません」と半分は自惚(うぬぼ)れ根性で虚栄を張る方もありますが、あまり誉められたものではありません。

  実るほど 稲は伏すなり 人はただ
    重くなるほど ()り返りけり

 この歌のように、ちょっと重い地位につくと上を向いて謙虚な心を忘れてしまいます。  また、

  実るほど 頭をさげる 稲穂かな

とも謡われています。こうした稲の姿をお手本としたいものです。また、

  下がるほど 人が見上げる 藤の花

というお歌もあります。謙虚に頭の低いお方には、人さまが見上げてくださるお徳が具わるのであります。
 人格円満の徳者であられる法然上人は「十悪の法然」「愚痴の法然」と自らに厳しいお言葉を残しておられます。まさに私たちのお手本が我が宗祖でありますから、その流れを汲むわれわれは、不自讃毀他戒のみ教えを堅持せねばなりません。
 菩の生活はすべてに「あなたのおかげ、あなたのおかげ」とお互いに喜び合い、感謝し合うことです。
 これについて手と足が、お互いに自分の手柄を言い争う喩え話があります。
 まず、足が言いました。
 「わしはいつも損な役割りばかりだ。お前らをお寺まで運んできて、やっと着いたら、曲げて座らされて重い体重をかけられる。映画館でも芝居小屋でも同様、何一つ見えるわけでもなし、椅子の下。ほんとに損な役ばかりでつまらないわい」
 すると手は手でぼやきだしました。
 「何を言うか。損なのはこちらの方じゃ。外へ出て切符を買うのもこの俺じゃ。お風呂を焚くのもこの俺。ちゃんと湯加減までしても、お前から先に入るじゃないか」
 お互いに損・得を言い出したらキリがありません。この私がいるからと自讃し、他を(そし)っていたら、家庭も社会も円滑に機能いたしません。「あなたのおかげ」と「(けん)の徳」を身に頂くことが大切であります。

(8)不慳惜加毀戒

 この戒は「不慳生(ふけんしょう)()辱戒(にくかい)」とも申します。「慳」とは「もの惜しみ」することで、貪煩悩ののち、手に入った財物の上に愛着心が起こり、吝情(りんじょう)吝愛(りんあい)といって、もの惜しみの故をもって人に施す心もなく、あまつさえ、加毀(言葉や行動でその人を罵ったり殴ったりすること)をいましめる戒であります。
 つまるところは、財物の不足に悩むお方には、分に応じた施しをせねばならぬのに、施しもせず、もの惜しみをしながら、なおかつ(やぶ)りを加える非を言うのであります。もし、施しをしないのならば、せめて悪口は言わないようにせねばなりません。
 この「惜しまぬ心で布施をする」ということはなかなかできることではありません。自分の宣伝のためや、広告の代わりに施しをするのは褒められたものではなく、邪道です。世の慈善家と呼ばれるお方にも、時々こういう方がおられるのは残念なことです。また前に述べた四摂法のところでも「三輪清浄」ということで少し触れましたが、清浄ならざる布施の姿についてちょっと申しておきます。

  一、初めに多く発心して、少なく与える。
  二、二つあれば悪いほうを選って与える。
  三、施した後で後悔する。

 これがわれわれの陥りやすい布施の姿です。例えば田舎からお蜜柑をたくさん送ってきました。こんなにたくさんあるのだから、アノ人にも、コノ人にもたくさんにお裾分けをしょうと思う。しかし実際にあげるときには、これだけにしておこうと、少ししか与えない(けち)な根性がある。
 同じ物が二つあって、その一つを施そうとするときには、必ず見比べて悪いほうを与える。
 人に施した後で、惜しくなって後悔する。
 これが凡夫の私たちの姿、恥ずかしいことであります。

(9)不瞋心不受悔戒

 これは腹立ちの故をもって、相手の懺謝を受けないことをいましめます。

  腹立ちし 時はこの世も 後の世も
    人をも身をも 思わざりけり

 腹立ちは三毒煩悩の一つ瞋恚(しんに)で、まことに(ぎょ)しがたい厄介なものであります。血が頭に上りますと人殺しもしかねない鬼の心になるのです。昔から、

  もし瞋恚を起こせば その身を焼く 

とか、

  その心 毒を(つぐ)んで 顔色変異す

などと言わるほど恐ろしいことです。
 自分のことを他人(ひと)さまが認めてくれないときとか、思うようにならないときに、(いかり)の心が出てまいります。大体この世が思うようになるはずがない。だから「娑婆」というインドの言葉を中国の人は「忍土(にんど)」と訳しました。「忍土」とは堪え忍んでいかねばならないところという意味です。だから、

  三度炊く 飯さえこわし やわらかし
    思うがままに ならぬ世の中

という歌がございます。
 毎日炊いている御飯でも、かたい日もあればやわらかい日もあります。思うようには炊けません。それが忍土の常ですから、大抵のことには堪え忍んで生きてゆくのです。
 「忍」という字は、心臓の上に刃を突きつけられている姿です。だから身動きができないでジッと堪えているということを表した字です。

  なる堪忍は誰もする
    ならぬ堪忍 するが堪忍

と言われる所以です。
 だから相手が自分の非を悔いて謝れば、ならぬ堪忍・するが堪忍で、それを受け入れなさいと教えていてくださるのです。
 「水に流す」という言葉がありますが、この世は「共暮らし」、共同生活ですから、どんどん水に流さないと世の中が淀んでしまいます。淀めば濁る、心まで濁ってしまいます。「この恨み、死んでも忘れません」の恨み節では、この世は成り立ちません。大乗の菩はいつも忍辱柔和の情け心で世渡りをするのです。

  岩もあり 木の根もあれど さらさらと
    ただ さらさらと 水の流るる

 女子教育界の草分けで、京都女子大学で教鞭をとられた甲斐和里子さんのお歌です。山の水が上から下に流れる途中には、岩があり、木の切り株もありますが、正面からぶつかったら大きな水しぶきがおこります。そこを岩があれば右に避け、木の根があれば左に避けて、さらさらとこだわりの心なく流れてゆくのです。なのに「俺の流れる道の邪魔をする」となればお互い、トラブルの因となるのです。
 このことは、一軒の家庭においても同じです。嫁と姑の関係は永遠の課題ですが、

  嫁もあり (せがれ)もあれど さらさらと
    ただ さらさらと 母の流るる

と胸の想いが開けたら、家の中は万万歳です。

 昔、私が大本山清浄華院の石橋誠道大僧正から頂いた一枚の色紙には、

  我心如白雲(わが心白雲のごとし)

と揮毫されてありました。
 青空に流れる白い雲はまことに悠々として、小事に執らわれない大人の風格があります。私の心もあの白雲のようでありたいと願うばかりです。

  とらわれず かかわらずして 大空を
    心軽るげに 白雲のゆく

 西風が吹けば東へ流れ、北から風が吹けば南へ流れる。そこには一切の執着心が見えません。風にまかせる雲のように、さらさらと流れる水のように、そういうところから禅宗の「雲水(うんすい)」さんのありようを知る思いがいたします。
 また、私の親しいあるお寺の書院にかかる扁額に、穆山(ぼくざん)和尚の書として、

  オン
  ニコニコ
  ハラ
  タテマイゾ
  ソワカ

とあったことを思い出します。
 いつもニコニコして腹を立てなさんなや、という尊いお導きでありました。

(10)不謗三宝戒

 この戒は別名「謗菩法戒」「毀謗三宝戒」「邪見邪説戒」とも言います。
 邪見の心をもって仏法僧を謗ることなかれ、というみ教えです。仏法僧の三つの宝を大切にせよということは、第二の三帰のところで詳しく申しましたが、これはもう仏弟子たる者の基本であります。
 太賢(たいげん)〈14〉の『梵網経(ぼんもうきょう)古迹記(こしゃくき)』には、次のように述べています。

仏法僧宝は邪を出るの大津(だいしん)にして、正に入るの要門なり。之に(したが)う者は必ず常楽を(さと)り、之に背く者は常に苦海に沈む。
  邪見違逆の罪は(これ)より大なるは()し〈15〉。

 「大津」の津とは渡し場のこと。今で言う波止場・埠頭(ふとう)のことです。日本全国に「津」という地名はたくさんありますが、みな船の発着場のことです。私の住む大阪も昔は「難波の津」と言って遣唐船の出る港でした。ここでは邪から正に入る仏法の渡し場のことで、三宝に帰依して暗から明へ、迷いからさとりへ、娑婆からお浄土へと船出していくのです。その大きな指標となる三宝を謗るというのは、まさに邪見違逆の罪と言わねばなりません。
 聖徳太子も十七条憲法で、

篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧これなり。(中略)それ三宝に帰せずんば、何を以てか(まが)れるを(ただ)さん。

と詔されています。この帰依三宝が日本文化のバックボーンでした。そのことを忘れ、しかも誹謗するようなことがあれば、正法流布・社会善化の邪魔をする仇と言わねばなりません。菩たる者の精神的な礎石、一切の戒の根底にこの三帰戒のあることを肝に銘じて忘れないようにせねばなりません。
 以上で「十重禁」のお執り次ぎを終わります。
 この他にまだ四十八の軽戒が説かれていますが、ここでは省略いたします。
 それから、「分受(ふんじゅ)」ということがありますので申しておきます。前席から第十説相ということで、持戒の相、殺生戒から謗三宝戒まで十カ条にわたる十重禁のお話をしてまいりました。これを全部(たも)ってくだされば「十重全分(ぜんぶん)の菩」であります。この「全分の菩」が一番望ましいのですが、例えば酒屋さん、「私のほうは何分お酒を売るのが家業ですから、み教えの意味はよく分かるのですが、酒の戒は持てそうにありません」そうおっしゃる。当然です。そういうお方は酒の戒は持たなくても結構です。あとの九つの戒を持って頂いたら「九分(くぶん)の菩」です。もし八つの戒を持てば「八分の菩」です。そうした姿を「分受」と申します。それでも正授戒のお作法のときには「よく(たも)つ」と答えてください。今は持てないが、いつか持てるときが来たら、そのときには必ず持ちますというお気持ちで「よく持つ」とお答え願います。皆が声を揃えて「よく持つ」と言っているのに、どこかで「持ちません」とおっしゃったら儀式になりませんので、よろしくお願いいたします。

第十一 広 願

 この授戒で受けたすべての善根功徳を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)の衆生に回向し、彼らが苦を離れ、楽を得ることができるよう、乃至一切衆生と共に極楽世界の阿弥陀仏のみ前に生じて、成仏を遂げんという大願を起こすことがこの「広願」です。
 浄土宗日常勤行に「総願偈」がありますが、私はあの偈文の最後の二句、

  自他法界同利益
  共生極楽成仏道

が、この「広願」に相当するように思います。

  自他法界 利益を同じうし
  共に極楽に生じて 仏道を成ぜん

と読みますが、「すべての者がこの大利益を頂戴し、ともどもに極楽に往生して成仏したい」というスケールの大きな願を起こすのであります。

第十二 勧 持

 これは「勧進持続」の意味です。戒を受け終わった後の心得でして、「禁忌(こんき)」と「補養」の二つを持続することを言います。受戒の後、罪を作らないことを「禁忌」といい、善を修するを「補養」と申します。今日より以後は、自行として悪を断ち、利他の行として慈悲救護の心をもって生活し、四弘誓の大願を実現するために努めるようお願いいたします。

 最後にお念仏と、この戒について一言触れておきたいと思います。
 浄土宗のみ教えの大きな柱は、何と言っても「凡入報土」ということです。お念仏の一行でこの凡夫が、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生させて頂くのであります。凡夫とは深い内省と懺悔の中から出てくる言葉で、法然上人の『選択本願念仏集』のお言葉を借りて言えば、造像起塔の功徳を積むことのかなわぬ貧窮(びんぐう)の者、智恵高才(ちえこうざい)のない愚鈍下智の者、多聞多見の能力のない少聞少見の輩、持戒持律を行じえない破戒無戒の者など、難しい仏道修行の上からは何の力もなく、救われようのない者の謂であります。別の言葉で言えば、聖道門・自力・難行道の器ではないという自覚に徹した者の、阿弥陀ほとけの前に身を投げ出した涙ながらの告白であります。
 そうした無智・深重の罪人である凡夫でも、お念仏により阿弥陀仏の本願に順じて救われるのだからと横着して、何をしても許されるのかと言えば、自らに恥じて慎むべきは慎み、守るべき社会のルールは守ってまいるのは当然であります。『一紙小消息』にも、

  罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。

とご教示があるとおり、少罪をも犯さじと慎しむ倫理・道徳の大切さが分かりながら、なおかつ守り切れず、ルールを外れていく己を恥じ、懺悔する以外にない愚かさに気付けば、それはまた大した人格であります。
 結論的に申せば、さきに触れたように、「戒は仏門の通軌」です。人間として守るべき規範、ルールです。十重禁を守ろう、守りたい、守るべきだ。
 しかし、凡夫の常で十重禁のとおり守り切れずとも、

  念々称名は常の懺悔なり。

と、お念仏相続の中に知らず知らずに護念を受けてまいるのです。十念のお念仏の中に不思議とこの戒が収まっていくのです。
 法然上人のお言葉(「登山状」)に、

それ十重を持ちて十念を称えよ、四十八軽を護りて四十八願を(たの)むは心に深く(こいねが)うところなり。(中略)諸悪莫作衆善奉行は三世諸仏の通戒なり。善を修する者は善趣(ぜんじゅ)の報を得、悪を行ずる者は悪道の果を感ずという。この因果の道理を聞けども聞かざるがごとし。初めていうに能わず。しかれども分に随いて悪業を(とど)めよ、縁に触れて念仏を行じ往生を()すべし。悪人を捨てられずば、善人何ぞ嫌わん。罪を恐るるは本願を疑うと、この宗に全く存ぜざるところなり〈16〉。 

とあります。このご法語をよくよく味わって懺悔心とともにお念仏をしっかりとなえることが大切であります。

[注記]
〈1〉『聖典』五・四九八頁
〈2〉六物=三衣(さんね)・鉢・座具・瀘水嚢
〈3〉『正蔵』二四・一〇〇四頁中
〈4〉敬首(一六八三 一七四八)。江戸の人、著書多し。
〈5〉『正蔵』二四・一〇〇四頁中
〈6〉『聖典』一・ 四二頁
〈7〉『正蔵』四〇・五七二頁下
〈8〉キェルケゴール(一八一三 一八五五)デンマークの神学者・哲学者。
〈9〉『正蔵』四〇・五八九頁上
〈10〉『正蔵』四〇・五八九頁上
〈11〉『正蔵』一・七〇頁下
〈12〉「百四十五箇條問答」=『聖典』四・四六〇頁
〈13〉『正蔵』二四・一〇〇四頁下
〈14〉太賢(生没年不詳)。新羅の学僧。新羅の瑜伽の祖。
〈15〉『正蔵』四〇・七〇七頁下 七〇八頁上
〈16〉『聖典』四・五〇四頁
[参考一]
 なお、参考までに椎尾弁匡博士ご指南による「結縁授戒」正授戒道場の略図を示せば次のとおりである。
[参考二]

梵網経(ぼんもうきょう)菩薩戒(ぼさつかい)(じょ)
 (『正蔵』二四・一〇〇三頁上)

諸々の仏子等、掌を合わせ至心に聴きたまえ。我今諸仏大戒の序を説かんと欲す。衆集まれり。黙然として聴きたまえ。自ら罪有りと知らば当に懺悔すべし。懺悔すれば即ち安楽なり。懺悔せざれば罪ますます深し。罪無くんば黙然せよ。黙然するが故に当に知るべし。衆清浄(しゅうしょうじょう)なりと。諸々の大徳、優婆(うば)(そく)、優婆夷等(いとう)(あきら)かに聴け。仏滅度の後遺法(ゆいほう)の中に於て、当に波羅提木叉(だいもくしゃ)尊敬(そんぎょう)すべし。波羅提木叉とは即ち是れ此の戒なり。此の戒を持つ時は、闇に明に遇えるが如く、貧人の宝を得たるが如く、病者の(いゆ)ることを得たるが如く、因繋(しゅうけ)の獄を出たるが如く、遠行(おんぎょう)の者の帰ることを得たるが如し。当に知るべし。此れは即ち是れ衆等の大師なり。若し仏、世に住したまうも、此れに異なること無けん。怖心は生じ難く、善心は発し難し。故に経に曰く。小罪を軽んじて、以て(わざわ)い無しと為すこと勿れ。水の滴り微なりと雖も漸く大器に()つ。刹那の造罪、殃無間(とがむけん)に堕す。一たび人身を失いつれば万劫(まんごう)にも復らず。壮なる色の停らざることは、猶し奔る馬の如し。人の命の無常なることは山の水よりも過ぎたり。今日は存すと雖も、明なんまで(また)保ち難し。衆等各々一心に勤修精進して、慎んで懈怠(けたい)懶惰(らいだ)し睡眠して、意を(ほしいまま)にすること勿れ。夜は即ち心を摂めて三宝を存念せよ。以て空しく過ごして徒らに疲労を設け、後代に深く悔ゆること莫れ。衆等各々一心に謹んで此の戒に依って如法に修行し、当に学すべし。
[参考三]

授戒テキスト (然阿不遠 述)

 衆生 仏戒を受けぬれば
 即ち 諸仏の位に入る
 位 大覚に同じおわりなば
 真にこれ諸仏のみ子なり

 今ということ。逢うということ。
 法−戒−道。気付く。菩の生活。
 無 常 観。
 罪 悪 観。
  五濁(ごじょく)悪世((こう)・見・煩悩(ぼんのう)衆生(しゅじょう)(みょう)
 法蔵・律蔵
 諸悪莫作(しょあくまくさ)  衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)  自浄其意(じじょうごい)  是諸仏教
 為断一切悪 為修一切善 為度一切生 為回向仏道
 波羅提木叉(はらだいもくしゃ)波羅夷罪(はらいざい)
 法然上人の伝戒。
 円頓(えんどん)菩戒・大乗(だいじょう)戒・三聚浄戒(さんじゅじょうかい)
 十二門戒儀(荊渓(けいけい)湛然(たんねん)妙楽(みょうらく)大師)

第一 開導(かいどう)
 心眼(しんげん)を開き、正道に導かれる
第二 三帰(さんき)
 三宝帰依=帰命(きみょう)(南無)
  帰依仏両足尊 − 明るく
  帰依法離欲尊 − 正しく
  帰依僧衆中尊 − 仲よく
第三 請師(しょうじ)
 五座の(しょう)師をご招待
第四 懺悔(さんげ)
 懺摩と悔過((しん)()・意の三業)
第五 発心(ほっしん)
 菩戒の法は、菩提心を本と為す。
  度・断・知・証
第六 問遮(もんしゃ)
 七つの遮難(無しと答える)
 仏身・父・母・和上・阿闍梨(あじゃり)羯摩僧(かつまそう)聖人(しょうにん)
第七 正授戒(しょうじゅかい)
 戒の(たい)(そう)(ゆう)
戒の体 − 起さずんば()みなん、起さば(しょう)なる無作(むさ)仮色(けしき)

戒の相
 摂律儀(しょうりつぎ)戒 − 止悪 − 断徳
 摂善法(しょうぜんぼう)戒 − 行善 − 智徳
 摂衆生(せつしゅじょう)戒 − 済世利民 − 恩徳

・四無量心(慈・悲・喜・捨)
四摂法(ししょうぼう)(布施・愛語・利行(りぎょう)同事(どうじ)

戒の発得(ほっとく)
 三羯摩(さんかつま)(よく(たも)つと答える)
 一得永不失(いっとくようふしつ)
第八 証明(しょうみょう)
第九 現相(げんぞう)
 瑞相・奇瑞 日日是好日の生活
第十 説相(せっそう)
 持戒の相
  一、不殺生(ふせっしょう)
  二、不偸盗(ふちゅうとう)
  三、不邪婬(ふじゃいん)
  四、不妄語(ふもうご)
  五、不酤酒(ふこしゅ)
  六、不説四衆過(ふせつししゅか)
  七、不自讃毀他(ふじさんきた)
  八、不慳惜加毀(ふけんじゃくかき)
  九、不瞋心不受悔(ふしんじんふじゅけ)
  十、不謗三宝(ふぼうさんぼう)
第十一 広願(こうがん)
第十二 勧持(かんじ)
 往生の(ごう)()
 念仏戒