3.浄土宗と円頓戒

(ⅰ)法然上人の教えと戒

 法然の念仏の教えは、言うまでもなく阿弥陀仏の本願を依り所とした念仏です。私たちが阿弥陀仏の救済を心から願って、本願に示されたとおりに阿弥陀仏の名号をとなえれば、すべての人は阿弥陀仏の極楽浄土に往生できるという教えです。すべての人とは、有智・無智、持戒・破戒、身分の高低、男女を問わず等々です。また、本願を依り所にした念仏、本願という他力にすがる念仏は、それのみで独立しているのであり、念仏以外の持戒等の助力はなくても往生は可能だというのが法然の基本的な考え方です。
 ただしこの考え方は、当時の人々に誤解を与えたのも事実だったようです。つまり法然は仏のいましめに背くような悪いことを行った者でも、念仏をすれば阿弥陀仏は救済してくださると説いたからです。これを逆手にとり、悪いことをしても念仏さえとなえれば、最終的には阿弥陀仏が救済してくださると思いこんでしまったのです。当然ながらこのような念仏では、法然が主張する至誠心、深心、廻向発願心の三心具足の念仏にはならないはずです。
 言うまでもなく、本願の念仏はそれだけで独立しているのですが、それはひとえに往生という観点からであって、法然は「戒は必要ない」とは一言も言っていない点にも注意すべきです。要は専修念仏者といえども仏教徒であらねばならないからです。仏のいましめに背く行為を自らすすんであえて行うことは慎むべきなのです。法然の教えに感化を受けた人々の中には、仏教の基礎知識のない在家信者も多く存在しましたが、念仏の教えを曲解してはばからない人々に対して、既成の仏教界からの批判もかなりあったようです。
 元久元年(一二〇四)、法然は比叡山からの念仏停止の要求に対し、門弟たちに七カ条からなる制誡を誓わせた『七箇条起請文』を天台座主に提出しています。その七カ条の第四条には次のような制誡があります(原漢文)。

念仏門において戒行なしと号して、専ら婬・酒・食肉を勧め、たまたま律儀を守る者を雑行人と名づけて、弥陀の本願を憑む者、造悪を恐るることなかれと説くを停止すべき事。 (『昭法全』七八八頁)

 この制誡が意味するところは、実際にこのように法然の念仏を曲解した人々が存在したことを物語っています。この制誡には「右、戒はこれ仏法の大地なり。衆行(まちまち)なりといえども、同じくこれを専らにす」(同)と付されています。本願の念仏の教えも釈尊の遺教なのであり、専修念仏者といえども仏教徒としての基本は戒であることを示しています。
 この翌年には興福寺の衆徒が九カ条をあげて念仏停止を訴える『興福寺奏状』が朝廷に出されます。その内容は、法然自身への批判よりも、戒行なしと号してはばからない専修念仏者への非難の方が強調されているようにも思われます。
 法然の著書や法語類の中で、法然自身が戒について言及している所は比較的に少ないのですが、『拾遺黒谷語灯録』巻中に収録されている「登山状」にも戒について触れています。これも既成教団からの批判をかわすねらいで書かれた書状と言われていますが、その中には、

その五逆十悪の衆生の、一念十念によりてかの国に往生すというは、これ観経のあきらかなる文なり。ただし五逆を造りて十念を称えよ、十悪を犯して一念を申せと勧むるにはあらず。それ十重を持ちて十念を称えよ、四十八軽を護りて四十八願を(たの)むは、心に深く(こいねが)うところなり。 (『聖典』四・五〇四頁)

とあります。これも念仏の教えを曲解することへのいましめです。ここには十重と十念、四十八軽戒と四十八願という語呂合わせが見られますが、言うまでもなく十重と四十八軽戒とは『梵網経』に説かれる菩薩戒です。
 また『十二箇条の問答』の第十一番目の問答では、阿弥陀仏の本願は悪人を嫌うことはないが、好んで悪業をなすことについて、

仏は悪人を捨てたまわねども、好みて悪を造る事、これ仏の弟子にはあらず、一切の仏法に悪を制せずという事なし。  (『聖典』四・四四六頁)

と断じています。ただし努力しても悪業を制しきれない者は「念仏してその罪を滅せよと勧めたるなり」(同)とつづけています。
 法然の晩年、とくに七十歳を過ぎてから、既成教団の南都北嶺から法然への批判が厳しくなりましたが、これらの法語からうかがえるのは、本願の念仏といえどもそれは釈尊の教えであるとの主張です。それは単に批判をかわすことがねらいだったのではありません。言うまでもなく釈尊の教えには、聖道門と浄土門があり、本願の念仏は浄土門に属しますが、その両門ともが仏教です。したがって専修念仏者も仏の弟子であり、すなわち仏教徒としての自覚が必要になります。授戒会のときに最初に「三帰」があります。これは仏・法・僧の三宝に帰依することを誓うのですが、その意味は仏教徒であることを表明することにあります。つまり法然は仏教徒であることを前提としての専修念仏であることを改めて鮮明にしたと言えるのです。

(ⅱ)円頓戒を相伝した法然上人

 現在の浄土宗における戒脈は大乗菩薩戒である円頓戒がその内容になっています。円頓戒は具体的には『梵網経』に説かれる大乗仏教の新学の菩薩のための十重四十八軽戒を指しています。天台宗ではこの梵網戒を円頓戒と称しました。当然ながら宗祖の法然は天台宗の比叡山で出家しましたから、その戒脈の源は天台宗にあり、法然も比叡山の戒壇院で円頓戒を相伝しました。
 法然は少年時代に比叡山に登り、天台僧の源光、皇円、叡空の三人の師に順次に師事しています。法然の登山年齢は、十三歳説と十五歳説がありますが、最初は源光に師事します。そのとき源光は法然の才能を見抜いて碩学の皇円のもとに入室させます。それが久安三年(一一四七)四月八日、十五歳のときです。「勅修御伝」「四十八巻伝」とも称される『法然上人行状絵図』巻三によれば、その皇円を師として円頓戒を受戒しています。

同年十一月八日、華髪(かほつ)を剃り、法衣を着し、戒壇院にして、大乗戒を受け給いにけり。
       (『聖典』六・二一頁)

 円頓戒の相伝についてはこのような記述になっています。「同年」というのは久安三年(一一四七)ですから、法然は十五歳であり、そのとき華髪を剃り、法衣を着したのですから、正式に得度受戒して天台僧の仲間入りをしたことになります。またそのときの戒壇院は、日本天台の祖である最澄の発願によって建立されたものであり、そこで大乗戒、すなわち円頓戒を受戒したとあります。
 ただし、この絵伝の記述は、現在の浄土宗の伝戒という観点からは多少の違和感があります。一つには年齢的な問題です。つまり、出家したての十五歳の勢至丸がいきなり円頓戒を受戒できるのか、ということです。実はこの絵伝の記述の箇所には、勢至丸が剃髪をしている場面が描かれており、そこには戒壇院での授戒の準備が整ったことを知らせる僧の姿も描かれています。絵伝の絵画からは授戒よりも得度にのぞむ勢至丸のようにも見えます。
 最澄が残した一連の『山家学生式』によれば、十善戒を授けることによって菩薩の沙弥になることが得度です。そして得度したその年に菩薩の大戒、つまり『梵網経』の十重四十八軽戒を授けて菩薩僧を誕生させています。また、その後十二年間は、山門を出ずに修学することを義務づけています。平安時代末期にも最澄の遺訓どおりであったかわかりませんが、これにしたがえば、十五歳での円頓戒の相伝も可能だったことになります。現在の浄土宗では一定の修学を修了したものに戒脈としての円頓戒が授けられますが、最澄の学生式にしたがえば、十二年間の籠山に先立って授けられるのが円頓戒です。
 なおこの絵伝の記述には、戒壇院で円頓戒を授けた伝戒師が誰であったのか不明です。伝記をそのまま読めば師の皇円のようにも見えますが、直接の師僧と授けた伝戒師とが異なってもかまわないでしょう。『黒谷古本戒儀』によれば、円頓戒の相伝は叡空から法然に授けられたとありますが、叡空の室に入るのは受戒して三年後になります。
 皇円のもとで「天台三大部」を読破した法然は、隠遁の志を深め、十八歳のときに西塔黒谷の叡空の室を訪れます。『法然上人行状絵図』巻三は叡空について、

彼の叡空上人は、大原の良忍上人の附属、円頓戒相承の正統なり。瑜伽秘密の法に明らかにして、一山これを許し、四海これを尊びけり。  (同・二三頁)

と述べています。ここに初めて、正統な円頓戒の伝承者としての叡空と法然との接点が出てきます。また同じく巻四では、中国の天台大師が円頓戒をどのように理解をしていたのか、その本意について叡空と法然が議論をしたことを伝えています。おそらく法然も叡空の室に入ってから円頓戒に対する理解を深めたのだと思われます。
 さて、『法然上人行状絵図』によれば、法然は四十三歳で専修念仏に帰した後、多くの人々に授戒をしています。特に九条兼実には数回の授戒をしています。しかし同書は、数々の授戒があったことを伝えてはいますが、その授戒における戒の内容には触れていません。かつての古代日本では、天皇が病に伏すとその平癒を祈って百人単位、千人単位の出家得度を行ったことがあります。同様の意味合いにより、法然の在世当時、現世利益的な色彩の濃い授戒があったのも事実のようです。絵伝はその授戒によって大乗菩薩戒である円頓戒を授けたとは明記していないのです。
 その中で『法然上人行状絵図』巻十には、法然が円頓戒を授けたという記述が次のように見られます。

高倉院御在位の時、承安五年の春、勅請(ちょくじょう)有りしかば、主上に一乗円戒を授け奉らる。   (同・一〇五頁)

 これによれば、承安五年(一一七五)、高倉天皇(一一六八‐一一八〇在位)に一乗円戒、つまり円頓戒を授けたとあります。これにつづけて、その円頓戒の由来を説明して、

清和御門(せいわのみかど)貞観(じょうがん)年中に慈覚大師を紫宸(ししん)に請じ奉られ、天皇・皇后ともに、円戒を受けましましき。上人、彼の九代の嫡嗣(ちゃくし)として、法流ただ一器に伝わりき。 (同)

とあります。法然が授けた円頓戒は、そもそもは慈覚大師円仁(えんにん)(七九四‐八六二)が清和天皇(八五八‐八七六在位)に授けた由緒正しきものであるというのです。しかもここで注目するのは、慈覚大師を正流とする円頓戒の血脈は法然ただ一人に相伝されたと絵伝が位置づけたことです。前述の巻三では、師の叡空を「円頓戒相承の正統」と記していましたが、それを踏まえればその叡空の正統は法然ただ一人に相伝されたということになります。したがって総じて言えば、慈覚大師の正流を相伝した法然は、慈覚大師から数えて「九代の嫡嗣」になります。その九代とは、『黒谷古本戒儀』によれば、慈覚、長意、慈念、慈忍、源心、禅仁、良忍、叡空、法然の相伝です。
 なお『行状絵図』巻十はこの記述につづいて後白河法皇に円頓戒を授けたことを記しています。また高倉天皇への授戒を「承安五年の春」と明記していますが、この年、法然は四十三歳であり、叡山の黒谷を下りた年になります。庵をむすんだばかりの専修念仏者にありえたことなのかという疑問はあります。授戒がはたしてこの年であったのかは不明です。『法然上人行状絵図』の成立は法然滅後、約百年ですが、より成立の早い法然伝には授戒の年は明記していません。
 ただしここで重要なのは、数ある法然伝がこぞって円頓戒の正統な相伝者としていることです。伝記によっては、中国の天台大師智顗の師であった南岳慧思にまで円頓戒の相伝を遡らせています。さらには、慧思は釈尊から直接円頓戒を相伝されたとする伝記もあります。おそらくこれは、前節にも触れた最澄の『内証仏法相承血脈譜』の影響なのかもしれません。「上人、彼の九代の嫡嗣として、法然ただ一器に伝わりき」という表現は『行状絵図』のみですが、各伝記が、比叡山を下りた専修念仏者の法然をこぞって円頓戒の正流の相伝者と位置づけていることに注目されます。

(ⅲ)円頓戒を顕彰した聖冏上人

 法然の伝記でもっとも著名なのは『法然上人行状絵図』四十八巻ですが、前にも記したように、この絵伝は法然滅後百年頃の成立です。時代としては鎌倉時代の末で、やがて南北朝の動乱があり、一三三八年には足利尊氏による室町幕府が開かれます。絵伝では、専修念仏者としての法然が天台の円頓戒の相伝者であることをごく自然に記述しています。ある意味では、むしろ誇らしげに表現しているようにも見えます。
 それでは鎌倉期の末から室町期に入ったこの頃、浄土宗の教団はどのような状況だったのでしょうか。浄土宗の第三祖に位置づけられる良忠(一一九九‐一二八七)は鎌倉を拠点に教えを広めました。その門下からは、白幡派の良暁(一二五一‐一三二七)、藤田派の性心(生没年不明)、名越派の尊観(一二三九‐一三一六)、三条派の道光(一二四三‐一三三〇)、一条派の然空(?一二九七)、木幡派の良空(?一二九七)などが輩出しました。この中、白幡、藤田、名越の三派は関東、東北に、三条、一条、木幡の三派は京都、関西に展開していきました。
 これらの諸流はそれぞれの拠点から法然の教えの弘通につとめましたが、浄土宗が一つの教団としてまとまっていたわけではなかったのです。逆に自宗の内部でお互いの正統性の主張をし、他宗に対してはその存在を主張していないのです。また天台宗にも浄土教があり、念仏があります。念仏そのものはインド以来からあり、他宗にもあり、浄土宗だけのものではありません。まして他宗とは異なる本願の念仏、他力としての本願の念仏をもって、他宗に伍して浄土宗としての独立性を主張するのは困難だったとも言えます。
 室町時代の臨済僧、虎関師練(こかんしれん)(一二七八‐一三四六)が著した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻二十七には、当時、他宗から浄土宗がどのように見られていたかが書かれています。それは、浄土宗は世に広く行われているが、「統系が無き故に、今は寓宗(ぐうしゅう)と為す」としています。あるいは「附庸(ふよう)」であるとも言っています。これは他宗の母屋のひさしを借りているに過ぎない宗、他宗に寄生した宗という意味です。具体的には浄土宗は独立した教団ではなく、寓宗だというのです。
 これは一人の臨済僧の見方ではありますが、他宗の大方の眼は同様に見ていたと思われます。つまり浄土宗には「統系」がなかったからです。統系とは、インド、中国以来の法然への系譜、相承です。このような批判に反論し、宗としての独立性を明確にしたのが、第七祖に位置づけられ、中興の祖とも言われる聖冏(しょうげい)(一三四一‐一四二〇)です。聖冏は伝宗伝戒の伝法の基盤を築いたことで知られています。
 宗脈については、『浄土二蔵二教略頌』『釈浄土二蔵義』『教相十八通』などにより、浄土宗の念仏の特色を明確にし、その独立性を論証しています。また戒脈については、『顕浄土伝戒論』を著し、法然が相伝した円頓戒を顕彰し、浄土宗にも宗脈と戒脈の二つの血脈があることを説いています。なお聖冏は五重相伝という同一の形式によって浄土宗の僧侶を養成する方法を考案したことも特筆されます。五重相伝は弟子の聖聡(しょうそう)(一三六四‐一四四〇)に伝授したのがはじめとされ、後にその内容は『五重指南目録』としてまとめられます。
 では『顕浄土伝戒論』の内容を少しのぞいてみたいと思います。まず、円頓戒は中国以来天台が相伝してきたものなのに、浄土宗がこれを相伝するのはいかがなものか、という他宗からの批難に対しては次のような主張をしています。

叡空の門人その数多しといえども、智・道兼備の(ひと)、まさに源空に当たれり。叡空念言すらく、我が戒法の嫡嫡は源空その仁に当たれりといえども、彼はすでに他宗の志あり、離山の望みあり。彼を除いて已外はその器なし。(うらむ)らくは南岳十七代の伝戒、露地(長意)七代の嫡伝、我に至ってまさに絶えんとす。(すなわ)ち瑞夢を源空に感得して、伝衣伝戒しおわんぬ。故に南岳十七代の袈裟、妙楽の十二門戒儀等、悉く譲りを叡空上人に得る。   (『浄全』一五・八九四頁下)

 『法然上人行状絵図』巻十では、慈覚大師の正流は法然ただ一人に伝わったと位置づけましたが、ここではその理由を説明しています。叡空の門人には智道兼備の者がいなかったので、叡空は、南岳慧思(中国天台、智顗の師)以来十七代の袈裟と妙楽(湛然)の『十二門戒儀』を、円頓戒の正統な相伝者として、法然に授けたというのです。その理由として、法然はそのときすでに比叡山を離れて浄土宗へ転向することを望んでいたにもかかわらず、円頓戒の正流を授ける人材は法然以外にはいなかったからとしています。叡空は円頓戒の正流を絶えさせるに忍びず、あえて法然に授けたというのです。つまり南岳慧思以来、叡空に至るまで天台宗が相伝した円頓戒は、法然以後、その正流は浄土宗が受け継ぎ相伝したという主張が見られます。その証しとして、法然は天下の戒師となって高倉天皇や後白河法皇に授戒をしているではないかと聖冏は言っています。
 次に浄土宗の内部から、浄土宗は一向専修なのであるから、円頓戒を受持するのは雑行(ぞうぎょう)ではないのかという批難に対しては、冒頭でこのように言います。

諸悪莫作、衆善奉行は、即ち是れ諸仏の通戒なり。浄土、何が故ぞ之に背かんや。
            (同・八九五頁上)

 「諸悪莫作、衆善奉行」とは七仏通戒の偈であり、悪を作さず、善を行うは、すべての仏に共通する戒めであり、浄土宗だけがこれに背くことはできないといいます。さらに菩薩戒が雑行であるなら、出家離欲、菩提心、済度衆生、飯食沙門なども雑行となってしまい、浄土宗としての教団そのものが成立しなくなるとの意味が込められています。そして「持戒の行も亦これ通仏法の地盤なり」と断じていますから、まさに法然の『七箇条起請文』などに見られる考え方と同じと言えます。
 最後には、

およそ浄土一宗において二の血脈あり。謂う所は、宗脈と戒脈なり、もし宗を伝えるの時は、必らずもって戒をも伝えるなり。この條は殊に浄土宗の学者、彼此一同なり。何んぞ不審に及ばんや。  (同・八九六頁上)

と結んでおり、円頓戒は雑行であるとの批難を退けています。