2.最澄の入唐と大乗菩薩戒の相承

(ⅰ)入唐留学で相承したもの

 浄土宗が伝承する戒は大乗菩薩戒であり、それは円頓戒(えんどんかい)と称される菩薩戒です。またその菩薩戒の具体的な内容は『梵網経』に説かれる十重四十八軽戒です。この菩薩戒は浄土宗の開祖、法然上人(以下敬称略します)より脈々と現代に至るまで相伝されていますが、その源流をたどれば天台宗です。すなわち法然が比叡山において師の叡空より相承した菩薩戒であり、さらには最澄が中国に留学して、かの地において円頓戒としての大乗菩薩戒を相承し、日本に帰国しました。
 ここでは最澄(七六六‐八二二)が中国の唐に留学し、帰国後に天台宗を開くまでを概観したいと思います。最澄は近江の国分寺で出家得度し、二十歳のときに東大寺の戒壇院で具足戒を受けます。時代は平安遷都の九年前になります。当時は東大寺での受戒が義務づけられており、最澄はそれにならって具足戒を受け一人前の僧として認められます。受戒の後間もなく、彼は比叡山に登り草庵を構え、山林修行と仏教の学問に専念するようになります。二十二歳のとき、比叡山に一乗止観院(延暦寺の前身)を創建し、自刻の等身大の薬師如来を安置したと伝えられます。
 延暦十三年(七九四)、桓武天皇は平安遷都を実施し、いよいよ平安時代が幕を開けます。最澄は出家して以来、かつて天平時代に鑑真が請来した中国天台の「天台三大部」と称される智顗(五三八‐五九七)の『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』の学習を通じて『法華経』の思想に造詣を深めていったと言われています。一乗止観院もこれに(ちな)んだ寺院名です。最澄は次第に天台教学、『法華経』の思想の学僧として世に知られるようになり、やがて朝廷にも注目されるようになります。
 延暦二十一年(八〇二)、最澄三十七歳のとき、桓武天皇の意向もあり、還学生(げんがくしょう)として天台教学の相伝を受けるために唐への留学が認められます。還学生とは短期留学のことです。実際に唐へ出発したのは三十九歳のときで、彼は遣唐使船の第二船に乗り肥前を出発します。なお、このときの第一船には三十一歳の空海(七七四‐八三五)が留学生(るがくしょう)(長期留学のこと)の資格で乗船していますが、両者は顔を合わせてはいません。最澄は台州の天台山に向かい、空海は密教を求めて長安に向かいます。
 最澄はかの地で四宗を相承したと、一般には言われています。四宗とは、円・密・禅・戒を指します。最澄が晩年、自らの仏教相承の正当性を主張した書に『内証仏法相承血脈譜』があり、ここに相承した内容が整理されています。

円……天台法華宗相承
密……胎蔵金剛両曼荼羅相承、雑曼荼羅相承
禅……達磨大師付法相承
戒……天台円教菩薩戒相承

 これがいわゆる円・密・禅・戒ですが、この順序は相承した順ではありません。この中、「密」は密教のことで、越州(現、紹興)龍興寺の順暁(じゅんぎょう)阿闍梨より密教の秘奥を伝える灌頂を受けたことです。「禅」は天台山禅林寺の翛然(しゃくねん)より、インド伝来の達磨の付法である牛頭(ごず)禅の相承です。これらの密と禅以外の円と戒こそが浄土宗の伝法に関係してくるのであり、最澄が開いた天台宗の主要をなしている相承です。
 「円」は最澄の入唐留学の目的でもあった相承です。入唐した翌年、台州龍興寺の道邃(どうずい)から、また同門の行満から、天台教学に基づいた『法華経』の奥義を付与されます。因みに道邃の師は中国天台の中興の祖である湛然です。湛然は智顗の「天台三大部」に詳細な注釈をほどこしています。また、かの地で書写等により日本にもたらされた典籍は『伝教大師将来台州録』にリストアップされ、法華部、止観部、禅門部、維摩部、涅槃部等、百二十部三百四十五巻になります。
 さて「戒」は大乗菩薩戒の相承です。天台法華宗の相承にひきつづき、同年に師の道邃より「円教の菩薩戒」を受けます。『内証仏法相承血脈譜』は次のように記します。

大唐貞元三十一年歳(八〇五)春三月二日初夜二更亥の時、台州臨海県龍興寺西廂の極楽浄土院において、天台の第七伝法の道邃和上を奉請し、最澄、義真等、大唐の沙門二十七人とともに、円教の菩薩戒を受く。 (『伝教大師全集』一・二三六頁)

 ここに最澄とともに名前が見える義真は、日本から同行した通訳の僧です。最澄はすでに日本において正規の作法により東大寺で具足戒を受けていますが、中国でそれに加えて大乗菩薩戒を受けたのです。大乗菩薩戒としての『梵網経』の菩薩戒は、天台の智顗が最初に注目して以来、中国僧は徐々に具足戒を基本としながら大乗菩薩戒をも受戒するようになります。最澄もこれにならったのですが、ここでは円教の菩薩戒とあります。
 円教の菩薩戒とは『梵網経』の菩薩戒、すなわち十重四十八軽戒のことです。道邃の師の湛然は梵網戒は円戒であるとし、円教の菩薩が受持すべき戒と言っています。また智顗にも円教の菩薩の戒の意味がくみとれます。また円教とは大乗仏教の最高最上の教えのことで、具体的には『法華経』を言います。そしてその『法華経』の真髄をさとるのが円教の菩薩です。このことはすでに平成二十四年度版本書の「授戒編2」で述べたとおりです。また湛然には梵網戒の授戒作法を著した『授菩薩戒儀』(通称『十二門戒儀』)がありますから、弟子の道邃も当然これによって最澄に円教の菩薩戒を授けたと思われます。
 なお『血脈譜』の天台法華宗相承には久遠実成(くおんじつじょう)の多宝塔中の釈尊から直々に南岳慧思(なんがくえし)(五一五‐五七七)と弟子の智顗に『法華経』が説かれたとあります。智顗の伝記に、慧思が法華三昧を得て霊鷲山における釈尊の『法華経』の説法を直々に聴聞し、智顗も同様であったと記されていますが、これもふまえての天台法華宗の相承です。
 さらに天台円教菩薩戒相承には最澄自身独自の内証とも言える相承が見られます。梵網戒は蓮華台蔵世界の盧遮那仏が閻浮提(えんぶだい)の釈尊に伝えたものですが、智顗の『菩薩戒義疏』には盧遮那仏から釈尊、そして弥勒等の二十余の菩薩への相承が述べられています。最澄はこれに加えて、慧思と智顗は蓮華台蔵世界の赫々天光師子座上の盧遮那仏から直々に相承したことを記しています。
 つまり天台法華宗相承も、円教菩薩戒相承も、ともに慧思と智顗が仏から直々に相承したとすることです。また天台法華宗は天台円教菩薩戒があってはじめてその存在意義が生まれるものですから、「円」と「戒」は表裏一体の関係でもあります。最澄はおそらく天台円教の菩薩戒が仏からの直授であることを強調することで、大乗菩薩戒を授ける戒壇の建立の必要性をアピールしたのだと思います。

(ⅱ)小乗戒の棄捨と大乗戒壇の建立

 最澄は入唐した翌年の延暦二十四年(八〇五)、遣唐使船にて帰国します。そしてその翌年に天台法華宗の年分度者二名の勅許がおります。年分度者とは、各宗ごとに一年間に得度できる定員のことです。この年には華厳宗二名、律宗二名、三論宗三名、法相宗三名であり、これに加えて天台法華宗は二名でした。したがって、当時は年間に得度可能な人数は各宗合わせて十二人だったことになります。さらに天台法華宗二名の内訳は、遮那業(しゃなごう)一名、止観業(しかんごう)一名でした。遮那業とは密教の『大日経』を学業とすること、止観業とは天台の『摩訶止観』を学業とすることで、天台宗は天台教学と密教の抱き合わせで認められました。これについてはさまざまな見解がありますが、空海の帰国直前にあって、南都六宗にはない新しい仏教、つまり天台と密教が最澄によってもたらされたのは事実です。
 さて大乗菩薩戒という視点から見ると、最澄にとって転機となったのは、弘仁九年(八一八)です。最澄の伝記『叡山大師伝』によれば、

今より以後、声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀に(そむ)くべし。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已れり。  (『伝教大師全集』五・三二‐三三頁)

と誓って、小乗戒を棄捨したと言われます。ここに言う小乗戒とは、最澄がかつて二十歳のときに東大寺の戒壇院で受けた具足戒(二百五十戒)のことです。東大寺での具足戒の受戒は、天平の時代の鑑真に始まり、出家得度して修行を積んだものが一人前の僧となるときの義務でした。具足戒が小乗戒であるという意識はインドにはなく、中国にも多少の意識はありましたが、中国の出家僧は当然として具足戒を受持しました。だからこそ鑑真の来日もあったのですが、最澄は、具足戒は小乗仏教の戒であり、大乗仏教の日本にはふさわしくないとして、これを棄捨したのです。
 天台宗は毎年二名の年分度者が認められましたが、彼らが修行を積んで一人前の僧として認められるには、東大寺での具足戒の受戒が必要でした。最澄は中国で天台円教菩薩戒を相承したのですが、自らが比叡山で育成した修行僧に大乗菩薩戒を受けさせて、一人前の僧として世に送り出すことはできなかったのです。
 最澄が小乗戒を棄捨するにあたっては、そこに至るさまざまな事情があったようですが、最澄の基本的な考えは、比叡山における僧侶養成とは、大乗仏教の国にふさわしい菩薩を養成し、国家に有為な一人前の菩薩を誕生させて世に送り出すことでした。それには具足戒ではなく大乗菩薩戒が必要でした。また前述のように、天台法華宗と天台円教菩薩戒は表裏一体なのですから、天台法華宗の設立が認められたのであれば、大乗菩薩戒である円教の菩薩戒を授けるための戒壇の建立が認められなければならないことになります。最澄はとにかく比叡山の中に大乗戒壇を建立し、自前で育成した修行僧を大乗菩薩戒の授戒のみで、国が認める僧として誕生させたかったのです。
 最澄はそのために、一連の『山家(さんげ)学生式(がくしょうしき)』と称されるものを国に提出します。「山家」とは比叡山のことで、「学生」とはそこでの修行僧のことです。この動きは最澄、五十三歳のときです。

  弘仁九年(八一八)
    三月 小乗戒棄捨の宣言
    五月 『天台法華宗年分学生式』(六条式)
       『天台法華院得業学生式』
    八月 『勧奨天台宗年分度者学生式』(八条式)
  弘仁十年(八一九)
    三月 『天台法華宗年分度者回小向大式』(四条式)
       『顕戒論』三巻 

 年分度の学生は比叡山で独自に大乗菩薩戒の受戒ができるようにしたいという主張で、これによって国が認める戒牒を出し、以後、十二年間の籠山(ろうざん)修行をさせる内容です。この主張は従来の僧制に変更を迫るものでしたから、僧綱をはじめ奈良の仏教界がこぞって反対したため、認可はされませんでした。
 弘仁十三年(八二二)、国の認可が下されないまま最澄は生涯を閉じます。五十七歳でした。しかし弟子たちは懸命に朝廷と折衝をつづけ、滅後七日にして最澄の生涯の願いが実現します。大乗菩薩戒による得度受戒の制が勅許されたのです。その翌年、新制による大乗菩薩戒による授戒会が一乗止観院で行われました。