第1章◎ 学問的・歴史的視点から
日本における大乗菩薩戒の展開
1.鑑真の来日と菩薩戒
(ⅰ)日本における仏教の伝来
日本に仏教が伝来したのは五世紀の前半頃と見られています。仏教の公伝とされるのは『日本書紀』に記されている欽明天皇十三年(五五二)です。それによれば、朝鮮半島の
ここで言う公伝とは、百済からの公的な外交ルートを通じての伝来を意味するのですが、仏教の伝来は実はそれ以前から、民間レベルでの私伝がかなりあったようです。朝鮮半島あるいは大陸系の氏族が渡来し、氏寺を建立し、本尊仏を安置していたのです。世人が「大唐の神」と呼んだとも伝えられています。当然、渡来系の僧もいたと思われます。いわゆる飛鳥時代の推古朝(五九三‐六二八)の頃には相当数の寺院や僧侶が存在したようです。
仏教が公伝したとき、日本の有力な氏族の中で崇仏か排仏かで争いがあったことが知られています。排仏派には、外来の仏は日本に災をもたらす「
大化の改新(六四五)を経て七世紀後半の白鳳時代になると、天皇を中心とする統一国家の体制が徐々に整うようになります。中国は隋から唐になり、日本は唐の制度を参考に律令制度をとり入れるようになります。これに伴い、仏教も中央から地方へと広がっていきます。おそらく寺院数も五百を超えていたと思われます。
律令制は天智朝の「
律令制の中には、僧尼に関係する「僧尼令」という法律がありました。その内容は官僧としての身分の保証や罰則なのですが、この法律は国家に奉仕する浄行者としての僧尼集団の形成と保全にあったようです。僧尼令に基づいて僧尼には国が発行する証明書がありました。例えば養老四年(七二〇)には、出家得度した沙弥、沙弥尼には「
これらの制度は厳しい修行を積み、学問をおさめた者のみを得度受戒させることにより、官僧の質を保つという意味も多分にありました。七一〇年には平城京遷都があり、いわゆる天平時代になりますが、以後は中国からの留学僧たちの帰国ともあいまって南都六宗も成立していきます。それらは三論宗、成実宗、摂論宗、法相宗、律宗、華厳宗です。南都六宗は現在で言う宗派とは異なり、学問宗、学派であって、奈良の有力寺院には複数の学派が存在しました。そこでは官僧たちが仏教思想の学習や研究を行っていました。
その一方で、仏教には呪術的な効験を期待する面も多分にありました。仏教公伝以来、国のさまざまな災害は崇仏、排仏による影響だと考えられてもいました。もともと国が仏教に期待したのは鎮護国家でした。また天皇や皇族が病気になると、仏教の効験を期待して病気平癒のために一度に数百人、ときに千人単位におよぶ大量の得度も度々行われていました。僧尼令には僧尼による呪術を禁止する条文もあり、また民間での布教も禁止されていました。私度僧は禁止されていましたが、実際には僧尼令に基づく官僧以外にも、私度による僧尼が民間で活躍した例が多いのです。また臨時的な得度は学業や戒律とは無縁な僧尼が大量に出現することにもなり、社会問題ともなっていました。
(ⅱ)授戒の師、鑑真の来日
天平時代に入り、表面的には国家仏教として体裁は整うようになるのですが、律令制にあってもさまざまな矛盾をかかえていたのも事実です。その中で、出家という視点から見て一番の問題は、日本には正式な出家者を誕生させうる資格のある戒師が存在しなかったということです。仏教の公伝以来、およそ二百年余を経過した天平時代までに、何人の僧尼が存在したのでしょうか。私度僧、官僧を合せれば万をこえる数になったと思われます。
しかしその頃、日本には一人として正式な授戒作法によって僧尼になった人はいなかったのです。それは上級の官僧でも例外ではありませんでした。正式な授戒作法はインド以来のものであって、三人の師と七人の証明師の合計十人(三師七証)の有徳の僧によって執り行われます。日本の政府は、本格的な授戒制度を導入する必要にせまられます。そこで天平五年(七三三)、授戒の資格を有する僧を招請するために、
結果として中国僧の鑑真(六八八‐七五六)とその門弟たちが来日することになります。鑑真の伝記は『唐大和上東征伝』ですが、この伝記には、日本から赴いた二人が蘇州に着き、揚州の大明寺で戒律を講義している鑑真と出会い、そして苦難の末に鑑真一行が来日する様子がつづられています。鑑真はまさに日本政府の要請に応じて来日した授戒の師だったのです。
鑑真が授戒の師となり来日することを受諾したのは天平十四年(七四二)、五十五歳のときでしたが、実際に来日が実現するのは十余年後のことでした。その間、五度の日本への渡航計画は頓挫し、日本僧の栄叡は寂し、鑑真自身も視力を失いましたが、天平勝宝五年(七五三)十一月に鑑真の一行は中国の蘇州を出発し、翌年二月に平城京に入りました。鑑真、六十七歳のときです。
日本で最初に正規の授戒作法が行われたのは、その二年前に開眼法要がいとなまれた東大寺の大仏殿の前でした。そこに授戒のための戒壇が設けられたのです。その時の様子を伝記は次のように伝えています。
その年の四月、初めて盧遮那仏(大仏)殿の前に戒壇を建立した。天皇が初めに戒壇に登り菩薩戒を受け、次に皇后、皇太子もまた壇に登って戒を受けた。つづいて沙弥の証修など四百四十人余りの為に、大和上は戒を授けた。また元は大僧であった霊祐・賢環・志忠・善頂・道縁・平徳・忍基・善謝・行潜・行忍など八十人余りの僧も、それまでの旧い戒を捨てて、大和上が授けるところの戒を受けたのである。
(高佐宣長訳、現代語訳一切経2『唐大和上東征伝』。一九九七年、大東出版社)
この記事には大きく二点の内容が記されています。第一は、日本で最初に在家者に菩薩戒が授けられたこと。第二は、戒牒を有する僧たちに改めて具足戒が授けられたことです。
まず第一ですが、ここに言う天皇はすでに退位した聖武上皇、皇后は光明皇太后、皇太子は孝謙天皇です。つまり僧ではなく国を治める為政者に菩薩戒が授けられました。ただしこの菩薩戒が具体的に何を指しているのか不明ではあります。菩薩戒は『瑜伽師地論』「菩薩地」(『菩薩地持経』)と『梵網経』とに大別されますが、前者であれば在家の菩薩戒は五戒であり、後者であれば十重四十八軽戒です。おそらく後者の『梵網経』所説の菩薩戒だと思われます。なお、その場合の授戒作法は何によったかも不明です。『授菩薩戒儀』(通称『十二門戒儀』)を著した
鑑真が来日したときの船の積荷のリストが伝記に記されていますが、その中に『梵網経』の注釈書の名が見えます。また『梵網経』の四十八軽戒の第一に、
若し仏子、国王の位を受けんと欲せん時、転輪王の位を受けん時、百官の位を受けん時、応に先ず菩薩戒を受くべし。一切の鬼神は王の身、百官の身を救護し、諸仏は歓喜したまう。 (『正蔵』二四・一〇〇五頁上)
と説かれています。国王たるものは王位につくときには菩薩戒を受けなさいと説くのです。鑑真がこのことを承知していたなら、国の最高権力者である天皇にふさわしい『梵網経』の菩薩戒を授けたことになります。ただしこの菩薩戒は在家と出家に共通する戒ですが、鑑真は出家の僧には授けていません。
次に第二の点ですが、すでに一人前の僧として認められていた八十人以上の出家僧は、従来の受戒は不正式であったためにこれを捨て、鑑真が戒師となって正式な作法によって具足戒が授けられたのです。先述の積荷のリストには『四分律』関係の書物が多く見られますが、『四分律』による具足戒、すなわち二百五十戒が三師七証によって授けられました。
この翌年に東大寺に戒壇院が完成し、鑑真は弟子たちとともに戒師として本格的な授戒を開始します。さらに天平宝字五年(七六一)、