教諭を拝して
釈尊によって説示された一代仏教は「八万四千の法門〈1〉」と称され、これを善導大師は「五部九巻」中の『般舟讃〈2〉』において、「門門不同にして八万四なる」と記されるごとく、実に多様な教説が伝えられている。
「教諭」に、
上人は法門の価値を決定する機軸を、今の世「時」と、人々の器量「機」の実相に置いていました。そして課題は、末法の「時」と、戒定慧の器にあらざる「機」にふさわしい時機相応の教門は何かということでした。
という教示が拝されるが、法然上人の『選択集』第十六章中、〝「集」の大意〟(良忠『選択伝弘決疑鈔』第五〈3〉)と称せられる、いわゆる「略選択〈4〉」において、
それ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣 いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛 って、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば、正助二業の中には、なお助業を傍 にし、選んで正定を専らにすべし。正定の業とは,すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。
と述べている。周知のごとく、この一文は「三重選択」が説示される、宗祖選述の『選択集』の中においても、中核をなす文として知られている。
この文で注意しておかねばならぬことは、一代仏教を、聖道門と浄土門に分類した上で、聖道を捨て、浄土に帰せしめておられるわけであるが、聖道を完全否定しているわけではない、という点である。聖道門も浄土門も、勝行と認めた上で、聖道を廃捨するのである。
聖道門も浄土門も、大聖釈尊が説示された同じ一代仏教である。宗祖は勝行と認めている聖道門を何故廃捨し、浄土門を何故選び取られたのか。これはまさに「教諭」に説示される「時機相応の教」であるか否かが、その判断の基準であったことは明白である。
「時機」が論じられるに際しては、必ず末法思想がその俎上に上げられてくる。玄奘門下、法相宗を大成した慈恩大師窺基はその著『大乗法苑義林章』巻六において、
仏、滅度の後、法に三時有り、正・像・末と謂う。教・行・証の三を具するを正法と為し、但だ教・行、有るを名づけて、像法と為し、教、有り、余無しを名づけて末法と為す〈5〉。
と記し、釈尊滅後を、正法・像法・末法の三時に分かち、正法時は、教・行・証、像法時は教・行が存在し、末法時は教のみが存する時代、との説を出し、その後、この説が通念として、中国、日本に敷衍していく。
法然上人は『選択集』第一章に道綽の『安楽集』の一文「当今は末法、現に五濁悪世なり〈6〉」を引用して、道綽と同様に末法の世を切実に感じとっていたことはいうまでもない。
同じく『安楽集』を引用して、
大聖 を去ること遥遠 〈7〉
理は深く解 は微
の二を示し、大聖釈尊が世を去ってから、あまりにも遥かな時代が過ぎ去ったこと、また、教えを本当に理解するためにはあまりにも奥深すぎて不可能であること、その二点を掲げ、今時末法では、浄土門と同じく、勝法とした聖道門であるが、この教えでは救われない、と断じたのであった。
また『選択集』第六章では、
この念仏の行は、ただ彼の時機に被るとやせん。はた正像末の機に通ずとやせん。答えて曰く、広く正像末法に通ずべし〈8〉。
とし、浄土門の教えは単に末法時に限った教えでなく、正・像・末に普遍的な法門とし、さらに「三学非器」による立場から「
宗祖法然上人が、釈尊の説かれた一代仏教を、聖道と浄土の二門に分かち、その中から時機相応の教えとして、浄土門、すなわち、本願称名の念仏を選び取って浄土一宗を立て、専修念仏に帰入された。これが、いわゆる浄土宗の立教開宗である。
この浄土宗の立教開宗された年は、承安五年(一一七五)とされている。したがって平成三十六年(二〇二四)には開宗八百五十年を迎える。
十二世紀の人師、戒度はその著『霊芝観経義疏正観記』において、「宗」の意に、独尊・帰趣・統摂の三義を有することを説いている〈10〉。浄土宗第三祖良忠上人は、その著『伝通記』第四で、この宗三義を示した上で、宗をして「独尊の義に当る也」と記し、自己の確心を、もっとも尊いと、思いとることと解している〈11〉。
法然上人は、「大聖を去ることを遥遠」そして、釈尊の教えが今の世においては、あまりにも「理は深く解は微」となってしまった時代そして機根、その現実を強く自覚されて、浄土の法門、すなわち本願称名の念仏こそ唯一無二の法門とされたのであった。
この考え方は現代に当てはめれば、ますます、その光彩を放つ。私たち一人一人が「宗」の意をさらに重くとらえ、本願称名の念仏、そして弘通に精進してゆきたいものである。
[註記]
〈1〉竜樹撰 鳩摩羅什訳『大智度論』巻二十二(『正蔵』二五・釈経論部上・二二二頁下)には「八万四千法聚」と記す。また「法蔵」「法蘊」とも称す。
〈2〉『浄全』四・五三一頁
〈3〉『浄全』七・三四三頁下
〈4〉石井教道師『選択集全講』六六五頁参照
〈5〉『正蔵』四五・諸宗部二・三四四頁
〈6〉『聖典』三・九八頁
〈7〉『聖典』三・九七 九八頁
〈8〉『聖典』三・一三五頁
〈9〉日本仏教学会編『仏教における時機観』一九二頁。福原隆善師「浄土教における時機観」参考
〈10〉『浄全』五・四四四頁
〈11〉拙稿『平成二十年度 布教羅針盤』参照