教諭

 法然上人は全仏教を救済性があるか否かで見直されました。「真言止観のたかき行」は捨てるべきものでしかありませんでした。上人は法門の価値を決定する機軸を、今の世「時」と、人々の器量「機」の実相に置いていました。そして課題は、末法の「時」と、戒定慧の器にあらざる「機」にふさわしい時機相応の教門は何かということでした。
 そしてまた、もし「仏教が宗教である」と云えるためには「今」に立ち、「ここ」に居て、「今、ここ」を生きるすべての人々が平等にめぐまれた救済を被らなくてはならない、否、そうあるべきだと確信されていました。都が戦乱、飢餓、掠奪、天災地変などで地獄・餓鬼・畜生化していくのを見逃せませんでした。傍観者ではおられなかったのです。変革のあおりをくらってさまよう貧賤、愚鈍、破戒の無善根者、無力な貴族も含めて、道俗男女の差を超えて、皆が生きる望みと歓びが持てるように、かれらの師友となろうと決断されました。
 時は過ぎ、明星が光り、上人の回心は成りました。弥陀の本願に絶対の帰信を寄せ、称名の一行に徹する「念仏往生」の道が現れました。貧しく、苦しむ民衆、否、万民の救済が可能となり、真に万民のための仏教が登場しました。
 念仏者は、一念で往生が決定するとの深き信を抱き、多念の行を励むべきである。智慧のまなこあるものも、仏を念じなければ願力にかなわず、愚痴の闇深いものも念仏すれば本願に乗じて往生できる。弥陀の大慈大悲は一切衆生を対象とし、本願に絶対の信を寄せるならば、一切平等に慈光に包まれる。貴賤、賢愚、男女、道俗がともにただ一向に念仏を称えることによって万民平等の世界がひろがるという点に法然上人の念仏思想の根基があります。この万民にひらかれた宗教が混沌の世の大きな光となりました。
 宗祖法然上人八百年大遠忌の勝機には、凡愚往生の大道を教示された鴻恩に報謝したのでした。『知恩講私記』の第五徳に「滅後利物」が挙げられ、「先師上人、浄土の宗義に就いて凡夫直往の経路を示し、選択本願を顕して念仏行者の亀鏡となす、余恩、没後に当たっていよいよ盛んなり、遺徳、在世に(ひと)しくして、世に変ることなし」と讃仰されました。末流の者が称える念仏は未来際の尽くるまで変わること無しと報恩の誠を捧げたのであります。
 法然上人のみ心に従えば、肝心なのは常、日頃の念仏行です。大遠忌での鴻恩感謝の称名の高揚を(たゆ)ませることなく、平生の念仏を相続させ、祖師の念仏精神をしかと体解しましょう。そして、上人の出世の本懐について深く(おも)いをめぐらしていきましょう。平成三十六年は開宗八百五十年です。

  うけがたき人身すでにうけたり
  あいがたき念仏往生の法門にあいたり
  弥陀の本願ふかし 往生はたなごころにある也  (『和語燈録』四)

          合 掌

   平成二十五年 一月 一日       浄土門主 願譽 唯眞