第3章◎ 現代社会とのかかわり
日本人の信仰基盤と鎌倉仏教の誕生
はじめに
昨年度の『布教羅針盤』では、現代とは何かという問題点を上げたままで紙数を超えてしまった。今年度は引き続き、〝戒の精神と現代社会とのかかわり〝を考察する前段として、日本人の信仰形態の特徴とも言うべき、神仏習合に焦点を当ててみていこうと思う。
現代でも典型的な旧家には、神棚と仏壇という異なった二様の聖なる空間が共存しているように、神仏は日本人にとって親しい存在であるといえる。ところが神仏は身近にあって親しい存在なるが故に、聖俗不分明な漠然とした存在となっていることもまた事実である。
現代人にとっての神社仏閣の存在については、各種の統計などによっても明らかなように、たとえば菩提寺の宗派名を知っている者は半数にも満たず、崇拝対象の本尊の名を知っている者はせいぜい僅か十数パーセント、宗派の本山の開祖を知っている者となるとさらに低くなってしまうとされている。同様に、地域共同体の神社を、氏神様、産(うぶ)土(すな)様、鎮守様などと氏子が親しんで呼ぶ所以や、祭神の名を正確に知る者は少なく、境内に祀られている摂社、末社の名・祭神の名を知る者はさらに少ないのが日本人一般の神仏像といえるであろう。
このことは、日本人が多宗教で無宗教の民族であるとする見解と無関係ではない。日本人が神話的・神秘的な基層的信仰を底辺にして儒教、仏教、キリスト教という全く異質な外来宗教を時間的にも主体的にも統合することなく受容し、これが重層複合的構造をなして今日に至るまでそのまま堆積させてきているからである。確かに、現代にあっても盛んな正月の初詣や盆・彼岸行事の現象面とは裏腹に、神仏の信仰が観念化され、習俗化し、かつ多様化のうちに拡散化しているという、いわゆる信仰の「見えない宗教化」現象を起こしていることは事実である。
しかし、長い日本の歴史のなかで、神道は神祭りを通して日本人の民族意識を統合する機能を果たし、仏教は先祖の霊を祀る仏壇をシンボライズして「家」を規制する役割を果たしてきたという事実は、近代に至って消滅し去ったのではなく、神仏が現代人の一人ひとりのパーソナリティの奥底に沈潜して生き続けている、いわば日本の文化伝統となって見えない形で宗教化していることを表しているのである。日本人の心意とは何か、また日本人のアイデンティティーとは何かを論ずる際に欠かせぬキータームとなって浮上する所以となっているといってもいいであろう。
本稿では、現代人の意識下にあって連綿として伝わっている神仏観が、日本という地理的・社会的・文化的諸条件のもとで神仏の習合が起こる、その基盤について触れていきたいと思う。
習合要因としての諸条件
では、神仏の「見えない宗教化」はいかにして形成されてきたのであろうか。民俗学者桜井徳太郎は、日本民族の宗教の根源ないし原始信仰といった自然宗教の層が、原始的宗教期から現代に至るまで社会の底流となって多くの影響を与えてきたものと措定したうえで、神道の成立及び仏教との交渉を、これを受けとめた日本民族ないし地域社会住民の側からとらえ、神仏習合の波が習合期を過ぎたのちも中央から地方へと押しよせ、地域社会内共同体の外縁から内縁に、表層から基層へと浸透していったプロセスを論じてい①る。
民俗信仰がとらえどころのないようなほど、複雑多彩な系統・形態を見せて「見えない宗教化」しているのは、日本の置かれたさまざまな条件によって規制されてきたことによると見なくてはならないであろう。
第一の条件として、すでに指摘されているように、日本が置かれている自然的・地理的面である。四方を海に囲まれ、弧状に連なる細長い列島は亜寒帯から亜熱帯に及び、気候的にも多様性に富んでいる。そして、地形の面では、日本の山々は、九州・四国・紀伊・赤石などの西南日本外帯の山地を除いて、概して大山脈としての連続性に乏しいことから、高さの割に傾斜が急で降水量が多い。そのために、峡谷に富み、火山はカルデラ系で山頂が窪んで、民間信仰における信仰対象となっている双峰ができやすい山容を特徴としている。そして麓から海の間には、リアス式海岸の入り組んだ海岸線が続くなかに平野部があるといった、錯綜した地形を構成しているのである。
したがって、第二にはこれらの自然的・地理的条件に立脚する生産構造の多様性があげられる。すなわち、山地には猟師、炭焼、木樵、木地屋、鋳物師、平地には農耕民、海岸部には漁撈製塩の業にいそしむ漁民などが、それぞれの生業に従事しているのであり、山地民には山の神、農民には田の神、海村離島民には海の神などそれぞれの置かれている立地条件・生産構造に適合した守護神を求めた。仏教が伝来し、その影響のもとに農耕栽培文化に支えられた神社祭祀が形を整えてくるにしたがい、広汎な民間信仰の諸相も農耕栽培文化のカミを中心に同心円を描けば、その周辺に山地民・海村離島民のカミを位置づけるような習合過程をとっていったといってもよいだろう。
いうまでもなく、日本仏教が日本文化の構築に大いに貢献し、現代日本人の血となり肉となっているという観点からして、日本仏教がもはや外来宗教ではなく、わが国の土着宗教の一つであるとする視点に立つことを前提としなければならない。いうならば、日本仏教は系譜のうえからはスリランカ、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア等に南伝した、いわゆる上座仏教とは異なり、チベット、モンゴル、中国、ベトナム、韓国、日本へと北伝した大乗仏教に属する。しかし、系譜上また教義上から南伝仏教・上座仏教―北伝仏教・大乗仏教という区別を立てることには意義があっても、生活に根づいた仏教、いうならば生活仏教という観点から見る場合には、たとえば東南アジアの葬送儀礼を例とした場合、それぞれの地域の民間習俗と結びつき、隠然たる勢力をもつ華僑が当該文化にもち込んでいる中国的大乗仏教的要素を無視しては語ることはできない。いいかえれば上座仏教―大乗仏教の区別をもってしては律し切れないものが存在するからである。
このような観点から日本仏教そのものを考えると、中国、朝鮮を経過するにあたって、中国において土着宗教を習合して中国化し、朝鮮に入って、より異質なものとなり、中国仏教および朝鮮仏教を別個のルートで受容したわが国で、さらに日本の固有宗教との習合によってなったのが日本仏教にほかならず、二重、三重の習合体としてなった、いわば生活体としての日本仏教は、もはや中国仏教、朝鮮仏教とは異質の、独自の文化的存在体であると考えなくてはならないであろう。いいかえれば、日本に導入されたのは、インド・中国・朝鮮において生活化された仏教であり、日本仏教が導入時においてすでに諸文化の累積したものであったという事実である。そして、その事実のうえに、さらに定着化の過程における変容という二重の変容があったこと、さらに定着化の過程には仏教が民俗に意味付けを与えて取り込むという「民俗の仏教化」と、仏教が民俗に傾斜して自己を失っていくという「仏教の民俗化」の二方向を展開軸にして、仏教民俗が構築されたと見ることができる。仏教の側に立って具体的に見てみるならば、それは土着化の過程そのものであった。土着化の過程はまさに仏教が積極的に神道、民俗宗教・信仰に働きかけ意味付けを与えて取り込んでいく、先に述べたいわゆる「民俗の仏教化」と、仏教自体が神道、民俗宗教・信仰に影響を与えて溶け込んでいく、いわゆる「仏教の民俗化」の相互作用があってはじめて可能であったのだということができるであろ②う。
日本人の神観念
日本人の「かみ」観念は原始農耕社会に始まり、時代の推移とともに複雑化しながらも今日に至るまで脈々と伝えられている。「かみ」は上代から「神」ないし「神祇」「神霊」の語を当てて表記されたが、観念内容は表記された漢字の原義とは必ずしも合致するものではなかった。江戸中期以降、国学の発展とともに、「かみ」の語義をめぐって盛んに論ぜられるようになり、幕末の復古神道家の間では神学的色彩が濃厚になっていくが、主な見解だけでも十指に余るほどである。
宗教学的に見て、神観念の概念規定の困難さはすでに指摘されて久しく、日本人にとっての神観念も例外ではない。本居宣長が「かみ」の音からその意義を論ずるのではなく、古典や神社に祭られている神々の実態から帰納して、「かみ」を「
思想的発展を遂げた後代の神道教学における神観念は、西欧キリスト教文化圏の〈神・god〉の観念内容をも内に含むものがあるが、その観念の古代形式は〈god〉とはきわめて対照的で、むしろ〈spirit〉もしくは〈divine〉という方が適切であ③る。常民のいだく観念内容を〈神〉とは区別して〈カミ〉と片仮名で表示する理由でもある。
しかし、これらの多様なるカミガミは、海上はるか彼方にある理想の世界・
先に述べたように、日本の地理的条件からして、「山―山の民―山の神」「里―農民―田の神」「海岸部―漁民―海の神」の図式が成立する。この海と山とのつながりを理論的に整合化したのは折口信夫の「まれびと」論である。常世から時を定めて来訪する神〈大きな神〉を迎えて祭りが行われるが、神は
この「まれびと」論に対する批判の一つは、神観念について日本を同質的社会ととらえて一元化した単系的発展段階論の立場に立っていることである。日本神話の複合性が注目を集めたのは、一九四八年、岡正雄・江上波夫・八幡一郎による三者シンポジウムで江上・岡によって唱えられた、三、四世紀のころ北アジア系の騎馬民族が朝鮮半島を南下し、日本に北方系の信仰文化をもたらし、その首長が第十代の崇神天皇であるとする、いわゆる「騎馬民族説」であっ⑥た。奇抜な見解として論議を生んだが、民族構成論を刺激するところとなり、とくに遺伝子分析を駆使した最近の自然人類学の成果からすると、日本人が人種的にはモンゴロイド(アジア系人種)に属するが、少なくとも東南アジア系と北アジア系との混血による複合民族であることは明らかになっている。日本民族が複合民族であるならば、人種・民族は文化の担い手であるから、日本文化は複合文化ということになる。上田正昭は
神仏の隔離と習合
これまで述べてきたように、日本民族が育み育ててきた素朴な民俗社会のカミガミは、仏教の伝来とともに体系化した神道の神々の進出を受けてカミは神に転身したり、仏教と習合したり、駆逐されていく歴史をたどっていく。かかる歴史的経過のどのような段階で神道が成立したかについて、汚穢の観念の忌避の制度化を神道成立のメルクマールとしたのは高取正男である。平安初期に死者を家のそばに葬ることを禁ずる令条を平安京近くの葛野・愛宕の二郡の農民に示している文献がある。当時の農民は死者を家の傍らに葬っていたことが窺われるが、これを嫌った平安貴族は浄穢の観念に吉凶の対立概念をあてはめた。死を怖れ、死の前に慎むのは普通の人間の感情の表出であるが、浄穢・吉凶の対立概念を操作して死を忌むのは思想活動の所産として歴史的に形成されたものであること、そして、その結果として伝来のまつりごとを新しい禁忌意識のもとに歴史的に解釈し始めたという意味で、神道の第一歩が始まったとい⑧う。
この新しい禁忌意識を強化させたのは仏教と陰陽道であった。八世紀から九世紀にかけての桓武期は、男性神官を基軸にした祭祀組織が出現し、山岳仏教が女人禁制を説きだす時期でもあった。高取は、宮廷祭儀における僧俗混在の忌避ないし神仏隔離の思想、および神仏習合の理論的根拠を示す文献として挙げるのは、『続日本紀』天平神護元年(七六五)十一月二十三日条に見える称徳天皇
宮廷祭儀において「出家人も白衣も相雑りて供へ奉る」僧俗混在を忌避し、「神等をば三宝より離けて触れぬ物ぞ」という神仏隔離の思想に対する反論として、日本在来の神祇を仏教でいう護法善神と見なしたことは、神仏関係における習合の理論的根拠を明示した事例としても注目される文献である。その後、歴史的には神仏習合の事象が大きく進展するなかで、右の宣命に示された神仏隔離の思想は消滅することはなかった。明治新政府の発足するまで、伊勢神宮が僧形法体のものの社頭への直接の参入を拒んできた事実もある。幕末期には参道でかつらを貸す業者もあった程といわれ⑨る
以上に述べたように、高取は汚穢観念から神仏隔離による神道の成立を論じたが、柳川啓一は、神仏隔離は「場」の問題として考えてみると、天皇が神であることを再認識させるために、御所の神聖性を説くに始まったものと見る。柳川の言葉を借りれば「仏事はそれ自体が穢れてあるのではなく、その聖空間に異質なものが入るのを忌避するのである。それが明文化されたのが、平安中期であったのである。穢れを排するから僧を排するということは短絡な見方である」と述べてい⑩る
神仏隔離を制度的に見てみると、神祇令の段階では仏法忌避の規定はなく、平安期の『貞観式』『儀式』の段階で整備されてくる。すなわち、神仏隔離は宮中祭祀、さらに正確にいえば天皇祭祀をめぐって制度化されており、しかも斎戒の期間に限って適用されているのであって、禁忌の及ぶ場も、国家祭祀の大賞祭では中央の諸宮司と五畿内諸国司に及ぶが、中祀以下の祭祀においては天皇の住居である内裏に限られているのである。仏法が神事における忌避の対象とはなっているものの、仏法を穢れと見なしている事例はほとんどなく、仏法忌避が死穢の関与とは無関係であったのであ⑪る
柳田のいう祖先神が氏神であるとする仮定については、すでに津田左右吉など多くの批判が寄せられている。下出積與によると、たとえ古代社会にあっても日本人のカミ信仰は決して同一ではなく、社会階層によって異なっていたとする論点から、日本の氏神の概念そのものがその氏を組織する共同体が基礎になっているのに対して、祖先神は本来血縁関係がその祭祀組織の基礎になっていることから、氏神と祖先神の結合は本来的なものではなく、後世において別の契機によってなされたものであろうと述べている。また、大化の改新時においては霊魂は貴人官人の一部上層階級のみに考えられていたものと推断して、祖先神は古代大豪族の間でおそらく五世紀から六世紀初頭の大和朝廷統一のころから発現し、氏姓国家体制に移行する六世紀後半から七世紀にかけて明確な形態をとるに至ったのであろう、とする。これに対して被支配者階級である農民層における祖先神の成立については、大化の改新の葬喪令にも見られるように一般人の死体は打ち棄てられた状況から判断して、少なくとも白鳳時代から七世紀中には祖霊を尊ぶといった心意は欠如していたが、八世紀になると一般人による各種の造像の銘などに〈七世父母の回向〉を願ずるといった表現が見られることなどから推して、おそらく農民層における祖先神の成立は八世紀を下らないと考えることができ⑫る。
このようにして、神仏習合は日本の置かれた地理的条件、文化的、社会的諸条件によって引き起こされるが、具体的な展開は中世を迎えてからのことである。
日本仏教の展開
以上、日本の思想背景となる神と仏について考察してきたところで、次に奈良時代からの仏教の流れを概観してみたい。
奈良仏教が学問仏教であり、平安仏教が学問と修行による加持祈禱であるという特徴は、ともに「古代仏教」と一括されるように、仏教が貴族階層の国家形成期にあたって政治理念として位置付けられ、厳重な制度的管理のもとに置かれた、いうならば国家仏教であった点で共通する。寺院はすべて官寺として建立された。そして僧尼は「僧尼令」(天武天皇十年〈六八一〉の
諸国を遊歴して日本最古の絵図である「行基図」を伝え、行基菩薩とあがめられている行基は十五歳で出家し、法相宗義を学んだが、母の死を契機に教化活動に精進した。すなわち私度僧として諸国を遊歴し、彼に従う道俗を動員して道を開き、池や溝を穿ち、橋を架けるなど社会事業に挺身した。彼の行状は僧尼令に反するとして、その行為を禁じられたが、後の聖武天皇の帰依をうけて大僧正となった。この時点で僧尼令という制度に組み入れて公認の官僧として大菩薩の号を授けられたとある。
奈良時代の僧は、以上のように官寺や豪族の氏寺などの学衆に所属していたが、その一方で、たとえば吉野の深山にある比蘇寺(放光寺)では修行に励む者もあったという事実は注目したいと思う。一言でいって学解仏教であるとともに呪術仏教であった古代仏教には、その展開の場として山林修行があったという事実は、官僧と私度僧という古代仏教二大潮流の共通母胎がそこにあったことを意味する。そしてその共通の母胎がやがて呪術性を払拭して鎌倉仏教における個人救済への仏教の本道に繋がっていくのである。この点で、奈良仏教の拠点が世俗社会の象徴ということになる。
平安仏教は、都塵を離れて、比叡山が伝教大師最澄(七六七–八二二)によって、また高野山が弘法大師空海(七七四–八三五)によって開かれた。「山岳」にその拠点を求めたことは、その寺が官寺に対する私寺であったことと共に画期的な意味を持つもので、これによって聖俗分離が一挙に推し進められたのである。
しかし、平安仏教は貴族仏教であり、祈禱仏教であったために信奉者は皇族・貴族に限られていた。皇族・貴族の出家が相次ぎ、寺院の建立もさかんになることによって、平安仏教はやがて世俗化していった。また、空海の滅後、空海があまりにも偉大であったために、二大拠点であった高野山と京都の東寺間に抗争が起こることとなる。その抗争は九世紀末に頂点に達し、以後法統間の抗争は真言宗が多くの派に分かれていく原因となっていった。
天台宗においても同じような抗争が起こった。天台宗の拠点は比叡山一寺ではあったが天台座主第三代慈覚大師円仁(七九八–八六四)の流れをくむ山門と、第五代の智証大師円珍(八一四–八九一)の流れをくむ寺門との間の対立確執が座主の人事をめぐって起こった。永祚元年(九八九)には第二十代座主に寺門の余慶が補任されても、山門がこの人事を拒んだために山務を執行できずわずか三カ月で辞任してしまう結果に終わった。ついに正暦四年(九九三)には、寺門は円仁の遺跡赤山禅院を荒らし、その報復として山門は寺門の千手院を襲撃破壊した。この事件を契機にして以後、比叡山を追われた寺門千余人は園城寺に移って拠点とした。今日の天台宗寺門宗はこの流れである。天台宗はこの事件を契機にして山門と寺門とに分裂し、以後統合することなく対立と抗争が繰り返された。同宗派内部だけでなく他宗との抗争も、僧兵による武力行使も伴ったので、天災人災の相次ぐ世相の不安は、ますます末法思想を助長することになった。
末法思想の広まりと鎌倉仏教
末法思想は中国に興り、わが国にも奈良時代から存在していたのであるが、平安末期には現実のこととして信じられるようになった。末法思想とは仏教の持つ歴史観である。すべてのものは移り変わるという諸行無常の真理が前提である以上、釈尊の教えといえども衰退・消滅していくという思想である。すなわち、釈尊の教法を三つの時期(「三時」という)、つまり「正法」「像法」「末法」に分けて考える分類をいう。「正法」時代とは教・行・証(さとり)の三つが具わっている時代、次の「像法」時代は教と行は残るが証、すなわちさとりを得る者がなくなる時代、そして「末法」時代は教だけが残っている時代で、さらに時代が進むと教もなくなって法滅期が訪れるというのである。正・像・末の三法の数え方には諸説があるが、中でも正法千年、像法千年、末法万年説がとられた。平安後期に編纂された編年史でもある。『扶桑略記』には永承七年(一〇五二)に末法に入ったと記されている。僧兵が横暴を極め、武士階級の勃興に伴う世相の不安が、人々にその意識を一層駆り立てることになる。
そうした時代観が強まりを見せ、鎌倉時代を迎えようとする頃、法然房源空(一一三三–一二一二)が浄土宗を開いたことは、それまでの奈良仏教、いわゆる南都六宗とよばれる律宗・倶舎宗・成実宗・三論宗・華厳宗・法相宗の六つの宗と、平安仏教の天台宗・真言宗の二宗、合計八宗のほかに一宗を独立させたという事実を超えて画期的な歴史的事件でもあった。
承知の通り、日本に仏教が伝来したのは六世紀のことであるが、それ以来千四百年余にわたる長い日本仏教の歴史は、奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教・近世―近代仏教・現代仏教と世俗社会の時代区分に従って分けて、それぞれの時代別の仏教の特徴が仏教史の上で論じられるのが一般的である。もちろん仏教が教団を組織化しているいわゆる成立宗教となるのは近世―近代仏教期である。それ以前の宗派の〈宗〉という意味は、鎌倉仏教にあってもサンスクリットの原語〈シッダーンタ・siddhânta〉の意味〈成就されたものの極致〉に近く、宗祖が到達した宗教体験である回心のよりどころという意味でしかないもので、浄土宗の開宗がそのまま浄土宗の教団が成立したことを意味するものではない。しかし、浄土宗の開宗以前の仏教は、南都仏教が宗派というよりも学問仏教であり、平安仏教は鎮護国家の祈禱仏教であった。したがって、個人的解脱および救済をめざす創造性・主体性を前面に打ち出して日本化された仏教のはじまりが鎌倉仏教において頂点に立つという意味で、日本仏教史上鎌倉仏教が注目されるのである。
現在、寺院は全国に八万余か寺あるが、そのなかで浄土系寺院は三万余か寺、三十七パーセントを占めている。鎌倉仏教の浄土・禅・日蓮系の寺院は合算すると全寺院の実に七十一パーセントにも達する。寺院の数を見ても、今日の日本人の生活にとって、鎌倉仏教の影響力のいかに大きいかがわかるのである。
本来であればこのあたりで、そうした混沌とした時代に念仏一行による万民平等往生を旗印として掲げた、わが浄土宗宗祖法然が、仏教で説く三学の一つ「戒」をどう見、どう扱ったのか、そしてその戒は、浄土宗の立場から見た場合、現代社会においていかなる意義を持つものかに論を進めるべきであるが、残念ながら紙幅に余裕がなくなってきた。
本書の授戒シリーズも来年度が最終回。本論はその場で、総まとめの意味で記したいと思う。
※注記
①桜井徳太郎『神仏交渉史』三頁(吉川弘文館、一九六八年)。
②藤井正雄『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』四二六~四二七頁(弘文堂、一九九三年)。
③原田敏明『日本古代宗教』増補改訂版、九五~九六頁(中央公論社、一九七〇年)。
④折口信夫「古代生活の研究(常世の国)」(『折口信夫全集』第二巻所収。三三~三五頁。中央公論社、一九九五年)
⑤折口信夫「翁の発生」(『折口信夫全集』第二巻所収、三八一~三八四頁。中央公論社、一九九五年)。
⑥石田英一郎・岡正雄・江上波夫・八幡一郎『日本民族の起源』(平凡社、一九六三年)。
⑦上田正昭『日本神話』一〇七頁(岩波書店、一九七〇年)。
⑧高取正男『神道の成立』二四六~二四八頁、二六五~二六六頁(平凡社選書六四、一九七九年)。
⑨同右、三七~四〇頁、九~一一頁。
⑩柳川啓一「神と仏」(『仏教文化辞典』六八○頁。(佼成出版社、一九八九年)。
⑪佐藤真人「平安期における神仏融離の様相と意義」(一九九一年十二月七日、第四十五回神道宗教学会平成三年度学術大会、シンポジウム「神仏習合と神仏融離をめぐって」発表趣旨)。
⑫下出積與『日本古代の神祇と道教』一~八九頁(吉川弘文館、一九七二年)。
⑬藤井正雄「日本人にとっての神と仏」(岩波講座『日本文学と仏教』第八巻『仏と神』一九九四年、三~三二頁参照〉。