2.十二門の儀相(問遮から現相まで)

*同称十念
*開経偈

 つつしんで拝読したてまつる。

 『授菩薩戒儀』(新本)に曰く。

 「すでに能く心を発す。次にまさにしゃなんを問うべし。もし七遮あれば戒品発らず。我れ今汝に問わん。まさに実のごとく答うべし」と。

第六  問 遮

 発心の次が「第六 もんしゃ」です。詳しくは、「遮難を問う」ということで、「遮」は「さえぎる」、つまり正授戒を受けることをさえぎる難があるかないかを問いかけ、実のごとく―本当のところを正直に答えなさいと、問答形式になっているのであります。

 この遮難とは、いわば逆罪で七つございます。七つの逆罪はみな、あるはずのないこと、またあってはならないことばかりですから、「なし」とお答えいただくのですが、こう申しますと「形式的ですなぁ」と思われるかもしれません。しかしながら静かによく考えてみると、自信をもって「なし」とは言いづらい私であることに気付くのであります。

 すでに第四で「懺悔」がありました。身口意の三業になすところの一切の罪障を懺悔し、懺悔こそが信仰生活・道徳生活に入る第一歩であると身に染みて頂戴しました。

 そして第五の「発心」では「この心なくんば戒体発得し難きなり」と菩提心を発させていただきました。もう正授戒の準備はすべて完了しているのに、再度の資格審査とは、まさに屋上屋を重ねるようなものだとの疑問も湧いてまいりましょう。だから説戒をなさる先生の中にも、この問遮を軽く扱われるお方もおられますが、懺悔・発心まで進んで、なおここで遮難を問うというのは、妙楽大師がいかにこのことを重要視されていたかということのあらわれで、それは大師の『授菩薩戒儀』を拝読してもよくわかることであります。この念の入れかたは、航空機が出発直前まで点検するようなもので、戒を受けると菩薩の位につかせていただきますが、不実を答えて「虚しく菩薩と称する」ことを厳しく誡められているのであります。

 七つの問遮とは、

 (1)汝、仏身より血を出さざりしや否や
 (2)汝、父を殺さざりしや否や
 (3)汝、母を殺さざりしや否や
 (4)汝、和尚を殺さざりしや否や
 (5)汝、阿闍梨を殺さざりしや否や
 (6)汝、羯磨僧を破らざりしや否や
 (7)汝、聖人を殺さざりしや否や

この七つです。以下順を追って説明します。

(1)汝、仏身より血を出さざりしや否や

 これが最初です。み仏さまのお体から血を出すようなことは、まずあり得ぬことですが、もう一歩深く踏みこんで、どれほどのまこと心(真実心)をもって恭しく敬うて(恭敬心)いるかと問われると、だれしも忸怩たるものがありましょう。有り難いことにわが国ではほとんどのお家にお仏壇があり、ご本尊さまがまつられています。天武天皇さまが白鳳十三年(六八五)三月、家ごとに仏舎を設け、仏像・経巻をおくよう詔されたのが最初と聞いていますが、途中の変遷は別として、こんにちのお仏壇の普及は欧米の諸国には見られぬけっこうな姿です。

 あるタクシーの運転手さんですが、信仰の深いお方で毎朝お家のご本尊さまに合掌お念仏をとなえてご出勤になります。近ごろは交通渋滞も多く、神経がイライラしてストレスがたまる。車が流れ出すとつい無理な追い越し。すべて事故のもとですが、毎朝たとえわずかな時間でも、ご本尊に向き合いご挨拶すると、その日は神経も立たず調子がよいそうです。 「何かの都合でご本尊に掌も合わさずに出勤した日は、心に穴があいたようで満たされず、一日中不安定な気持ちです」 とおっしゃいました。

 お仏壇はお家の中心です。そこはお浄土の出張所であります。ご本尊さまは飾りものではありません。ご本尊さまこそ、そのお家の「戸主」であります。今ここに座っておられる皆さんは、お家のご主人・奥さま、みな偉い人ばかりで、私が戸主、世帯主と思うておられるかも知れませんが、そうではありません。「住民登録票」には載っていないが、真実の戸主がいらっしゃる。そのお方がご本尊、阿弥陀さまであります。

 その阿弥陀さまを、しっかりおまつりし、大切にお給仕されているでしょうか。よく拝ませていただくと、指が少し欠けていたり、後光(光背)が壊れていたり、ないことではないのです。「いや、次のお年忌に修復します」こう申される方もありますが、阿弥陀さまとご先祖の年忌を混同しては困ります。そんなお方は大怪我をしても「次の誕生日までは病院へ行きません」とおっしゃるのでしょうか。

 たとえお指や後光に傷がなくても、お掃除は行き届いていましょうか。阿弥陀さまに薄埃がたまっているのを、よく見かけることがあります。

 昭和四十四年(一九六九)に亡くなられた大石順教尼というお方、時間の都合で詳しい話は省略しますが、お若いときにたいへんな目にわれました。有名な「堀江六人斬り」で山海楼の主人中川万次郎の狂気の刃で両手をくされるのです。その後、いくたの人生の苦難を経て仏門に入られ、最後は京都山科じゅう寺(じ)の庵に落ち着かれます。それからは朝夕の勤行でご本尊さまとご対面の日々ですが、ある日どうもご本尊さまが塵でうす汚れしているように見えて、それが気になって仕方ありません。順教尼はその心を次のように詠まれました。

  勿体なや尼が不自由はみほとけの
          お肩につもるちりも払えず

 これは聴く者をして感動せしめる歌であります。この両手が自由になるのなら、いますぐおそばにまいって塵を払って差し上げるものを……相すまぬことでございます、申し訳ありません、とわが身の不自由を詫び、至らぬわが心を懺悔されているのであります。しかるに、手も足も丈夫で、目も見える私たちが、ろくなお給仕ができない、お肩に積もる塵も払えぬとは一体どうしたことでしょうか。そのくせ自分は毎日でもお風呂に入りたい。化粧品まで買うて身を飾るのですから、恥ずかしいの一言に尽きるわが心です。ですから「仏身より血を出さざりしや否や」と問われて、「なし」とは言いづらい私であります。

 仏身より血を出すということは、なにも赤い血が流れ出すということではなく、ご本尊阿弥陀さまに対するわが心のありようが問われているのです。しかし「なし」とお答えいただかないと儀式になりません。ちょうど親に叱られたとき「わかりました、かんにん、かんにん、もうしません」と反省して頭を下げるように、今そのことに気付かせていただきました、これからはそういうふうに阿弥陀さまを拝みお給仕させていただきます、という決意をこめて「なし」とお答えくだされば結構かと存じます。次に進みます。

(2)汝、父を殺さざりしや否や
(3)汝、母を殺さざりしや否や

 この二つは父母ということで、まとめてお話をいたします。これも「なし」と答えていただくのですが、自信をもって大声で「なし」と答えにくい方が大勢おられるように思います。ここにお座りの皆さんはご年配から見てほとんどのお方はもう両親を見送られたと思いますが、はたして父上は安心して、また母上は思い残すことなくお浄土へ旅立たれたでしょうか。生きておられるうちには、なかなか親孝行はできにくいものですが、皆さまはいかがでございましょうか。親孝行をするどころか、随分と心配をかけたという方もいらっしゃいましょう。

 目を閉じて静かにふり返ると、心配のかけどおしでした。私が生まれるとき、両親はどれほど心配し、無事に生まれてくれとどれほど祈ってくれたことか。子どものころに体が弱くてご苦労をかけた人、入学試験に失敗して親の心を痛めた人、成人しては勝手な結婚をして家を飛び出し嘆かせた人、それはそれは数えあげたらキリがない。刃物で殺した覚えこそありませんが、あれやこれやと、なし崩しに親の寿命を縮め、精神的に苦しめ殺しはしなかったか。

  世の母はみな観世音 春の風

 これは松野自得さんの俳句で、西日光耕三寺(広島県尾道市)にその句碑がありますが、母親とは子どもにとって観音さまのようなものです。大慈大悲をもって守ってくださるお方、どれほど背かれようと見捨てず、大きく包みこんでくださるお方、母親を「お袋」と呼ぶなんて、言い得て妙であります。

  お袋は勿体ないが だましよい
  これきりで もう無いそよと 母は出し

 こんな川柳に笑っている場合ではありませんが、身に覚えはございませんか。そのくせ旅行一つ連れてもいかず、お小遣いも満足に差し上げたこともない。思えば悔いが残ることばかりです。

 この後悔を転じて「これからは亡き父母をふたたび泣かしめるような生活はいたしません」。この間遮はそういう誡めだと受け取っていただく。そしてこのたび、お授戒をお受けくださって、白い浄衣に身を包んだ皆さまのお姿を「よう変わってくれた。立派になってくれた」といちばん喜んで見ていてくださるのは、きっとご両親にちがいないと思うのであります。また皆さまは、せめてもの親孝行と贈授戒や常回向で親さまのお名前を読み上げていただいて、同行衆が自他の差別を超えてともどもに礼拝をしてくださる。そのお姿を見、そのお声を聞いていて涙の出る思いであります。

 もしまた皆さんの中で、現に親さまがお達者であれば有り難いことです。どうぞ大切にして差し上げてください。

 つい最近まで、お年寄りのことを「粗大ゴミ」という人がありましたが、このごろは、「生ゴミ」と言う方がおられます。ひどいものです。今、現存する親さまを泣かしていないか、「生ゴミ」扱いにして精神的に殺していないか。ご自身の胸に問うていただきたい問題であります。

(4)汝、和尚を殺さざりしや否や

 和尚は和上といっても同じで、もともとはインドのバラモン教で、親しく教えてくださる師匠のことを言ったのであります。この和尚を鳩摩羅什三蔵は「りきしょう」と漢訳しましたが、まことに名訳です。和尚は今ではお坊さんを指す言葉になっていますが、子どものころから今日まで、私に力をつけてくれ、力を与えてくれたお方という意味で、力とは道力、つまりそのお師匠さんによって弟子に道力を生じさせるから、力生と言われるのであります。「アイウエオ」や「一二三」からはじまって、何もかもわたしに教えてくださった、その先生です。お習字やお茶、お花、お裁縫やお料理、今でしたら車の運転からコンピューター、先端科学にいたるまで、すべてどなたかのお導きによらないものはありません。「私は独学です」とおっしゃっても、そのテキストは誰かが書いてくださったものです。ノーベル賞をいただくほどの方は、きっと賢い人でしょうが、もし昔習った小学校の先生を小馬鹿にするようなら、「力生」を殺すことになります。博士になろうが、社長になろうが、同窓会で年老いた恩師を囲み「先生、先生」と幼な心に返って慕う姿は美しいものであります。

 お相撲の世界でも、勝って恩返しと言いますが、「ごっつぁはん」という言葉の中に、鍛えてくださったあなたのお陰です、という気持ちがこめられているのです。

 お嫁さんにとってはお姑さんが力生です。若くて何も知らないのですから、素直に教わればよいのですが、なかなかその気にはなれないようです。梅干しの漬け方から、お盆のまつり方、習うことばかりです。力生がいなければ何もわかりません。

 以前、私の知り合いの女性が、お姑さんが亡くなってしばらくすると、少し肥り出しました。失礼なことですが、「あなた、ちょっと肥えましたね」と声をかけると、「はい、落とし蓋がとれましたから」。一瞬考えましたが、すぐその意味がわかりました。「落とし蓋」とはお姑さんのことです。お料理の落とし蓋のように、頭の上から私を押さえつけていた人、その人が亡くなってスッとしたから肥えたのです、というんでしょう。

 なるほど、上手に言うなあ、と変なところで感心したのですが、そのお方の今日あるのは、みな落とし蓋のお陰です。お姑さんの考え方、ものの言い方、すること、すべてが嫌いで批判的だったお嫁さんが、なんとご自分も年を取るに従って、あれほど好きでなかったお姑さんに似てくるのですから不思議なものです。ご自分ではお気付きでないでしょうが、すること為すこと、考え方から喋り方まで、気持ち悪くなるほど同じです。お年忌ごとに聞かされていたお姑さんへの悪口も、近ごろはほとんどご無沙汰になりました。それどころか今度はご自分が息子の若嫁さんの「落とし蓋」になってけっこう活き活きしておられるのですから、世の中はわかりません。

 このお方は、昔お姑さんから教えられた一つ一つが、今の私の肥料こやしになっていると、きっとお気付きになり、懐かしくさえ思っておられるのではないかと思うのであります。

 和尚(力生)を殺すなかれ―この教えの意味するところをわかってくだされば結構です。

(5)汝、阿闍梨を殺さざりしや否や

 阿闍梨は、現在の日本では僧職の一つになっていますが、インドでは師匠のことで、学問などを授ける人を言い、「軌範師」と漢訳されています。教団の先生役と申しましょうか、私たちの手本となり、物差しとなって、お弟子たちの行いを正し、教授してくださる高徳の僧であります。その阿闍梨を殺さざりしや否や。これも実際に殺すのではなくて、あなどり軽んじたことの有無のお尋ねであります。今日でも学校の先生に暴行するなど、この種の話をよく聞きますが、これでは本当の教育は成り立ちません。ましてや人格を磨く修行の場でこのようなことが許されるはずがありません。師匠は弟子を慈しみ、弟子は師匠に絶対の信頼と帰依をもって随順するという厳しさが求められているのであります。

(6)汝、羯磨僧を破らざりしや否や

 羯磨は業・所作の意で「作法」と漢訳され、また僧は僧伽の略で「衆」とも「和合衆」とも漢訳されています。僧は仏法僧の三宝の一つで、三人とか五人とか、ときにはそれ以上の比丘がいっしょに集まって修行する「つどい」、つまり共同生活をする仏教の教団のことですから、仲良くせねばなりません。したがって羯磨僧を破るとは、なごやかに、平和に、作法・規則を守って修行している集いを破壊することを言うのであります。

 これは世間一般にもよくあることで、その一人のためにグループが解散したり、職場の雰囲気が乱されたり、まことに困ったものです。一人のわがままによって家庭が破壊されたり、また一社員の公金横領で小さい企業が倒産することもありましょう。

 お互いに規則や約束を守って仲良くやっていこう。これは、ただ今のこの道場でも大切なことで、ある人は「もっと朝早くから始めてほしい」、ある人は「日中は忙しいから夜にしてほしい」と言い出し、また「私は寝ころんで話を聞きたい」「私はお酒を飲みながら」……とめいめいが言いたい放題になるとお授戒の道場は成り立ちません。

 皆さんもそれぞれご意見があることでしょうが、入行の時に約束した「道場清規」を守ってご修行していてくださる、それがただ今の尊い姿です。私たちは知らず知らずのうちに、つい身勝手に流される凡夫でございますから、よほどの注意が必要であります。

(7)汝、聖人を殺さざりしや否や

 これは凡夫に対する聖人で、お釈迦さまなどはその筆頭になるお方です。ヒマラヤの山々や富士山のように、見上げるように立派な方がいてくださるので、そういうお方を見習っていかねばならぬ、と目標が立つのでありますから有り難いことです。観音菩薩の大きな慈悲も、勢至菩薩のすばらしい智慧も同様です。地蔵菩薩のお育てのお徳は、どのような子どもであっても、すべての子どもをご自分の温もりで守ってくださるのです。

 そうした菩薩さまは、それぞれが阿弥陀さまのお徳を分担してお示しであると頂戴して喜ばせていただき、この私が向上していく目標とせねばなりません。聖人を軽んずることのないようにしてまいるのが、このみ教えであります。

 以上で簡単ながら、七つの遮難についてのお取り次ぎを終わりたいと思います。それにつけても、私というものを見つめなおし、身の程を知れば、ただ懺悔あるのみです。その懺悔の心をもって、またこのお授戒で生まれ変わらせていただき、蘇らせていただく希望をもって、力強く「なし」とお答えください。

 なお、この大勢の中には、お一人くらいは七つの逆罪、まったく身に覚えはないというお方もいらっしゃるかも知れません。もしおられたら、まことに幸せなお方と言わねばなりませんが、それはそのお方の手柄ではありません。七つの大罪を犯さずに今日まで来れたという、その境遇・環境を有り難いことであったとお喜びくださいまして、感謝の心で同様に「なし」とお答え願いたいと存じます。

  「告げて云わく、すでに七遮なし。受戒の器に堪えたり」

第七  正授戒

 いよいよ肝心要の第七しょうじゅかいです。『授菩薩戒儀』には「前六段はこれ受戒の前方便なり。今は正しくこれ受戒の時なり。殊にこの段に至っては余念なく、心にこれを聴くべし」とございます。そして相伝戒や発得戒についての弁がありますが、それらの説明はすでにいたしてありますから、重ねては申しません。

 『戒儀』にもございますように、この段にいたって「まさしく受戒の時」と心得て、しっかり「起こさば性なる無作の仮色」=戒体の発得をしていただきたいとこいがねうものであります。少し繰り返しますとそれは、三羯磨というお作法のご縁をいただいて発得いたします。三羯磨というのは三遍の問答による作法です。

 『授菩薩戒儀則』(黒谷古本)によると、

受者のご一同、あきらかにお聴きなさい。あなた方は今、私のもとで菩薩の浄戒を受けることを求めている。浄戒とは摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒である。過去の一切の菩薩もすでに受け、すでに学し、すでに成仏しているし、未来の一切の菩薩もまさに受け、まさに学し、まさに成仏することである。いま現在の一切の菩薩も、いま受け、いま学し、いま成仏す。あなたがた仏子も、ただ今から未来を尽くすまで、そのあいだに於てこの戒を犯してはなりません。この戒をよく守り保てるか、どうか。

 およそこのような意味の問いかけを、格調の高い漢文調で「よくたもつや否や」とお唱えになりますから、受者の皆さまはしっかりした決意のもとで「よく持つ」とお答えをしてください。このような問答形式の問いかけを羯磨と申しまして、第一羯磨から第三羯磨まで三回行われます。

 第一羯磨で「よく持つ」とお答えになった時、十方世界一切のところに遍満する戒法が振動して動き出します。

 次の第二遍の羯磨で、動き出した戒法が十方よりこの道場に来り集まり、雲のようにまた天蓋のように受者の頭上を覆います。

 第三の羯磨で皆さんが「よく持つ」とお答えのその時が、まさしく戒法成就の時であります。ご一同の頭上に雲のように集まっていた戒法の功徳が、おつむりの頂から身中に流れ入って充満し、受戒の果報をたしかにお受け取りになるのです。

  衆生仏戒を受けぬれば
  即ち諸仏の位に入る
  位大覚に同じ已りなば
  真に是れ諸仏のみ子なり

 戒法をそなえれば、まさに仏子でありますから、皆さんの身は限りない功徳で充ちあふれます。そして自由自在に三聚の浄戒を実践できるお徳を頂戴されるのでありますから、これ以上の尊いことはありません。

 これを以前に申した言葉で言えば、が回り出したということです。キーをひねってエンジンが始動したということです。そして戒のご精神が、実生活の中に本当に生かされてまいれば、何よりも法然上人のお心に叶う道であると信じるところであります。

第八  証 明

 第八はしょうみょうです。

 この段は、無事に授戒のお作法が終わりました、菩薩さまがたくさんに誕生いたしました、と仏前にご報告することであります。

  我すでに証明をなす。唯願くは諸仏も亦為に証明を作したまえ

と仏前に申すのであります。

第九  現 相

 「第九 げんそう」に進みます。

 これは瑞相とも奇瑞とも言われるめでたき相が現れるということです。清涼の風が吹き、微妙の香りが流れ、不可思議の光明がかがやき、妙なる音楽が聞こえ、名花が咲き乱れるといった、めでたき相が見られるといいます。これは娑婆という極悪のところで、煩悩具足の悪業の衆生が、極勝の心を起こしてただ今、新学の菩薩となって円頓仏性戒を受けた、その故にこの瑞相が現れたというのです。しかし、ちょっと考えたらわかるように、そんな奇瑞が本当に起こりましょうか。この段の意味するところは、お授戒の人はすべてを有り難く受け取ることができる、ということです。それは戒を受けることによってその人の根性が変わったという意味です。根性が変わりますから、晴天なら晴天を喜び、雨なら雨を喜ぶお人柄にならせていただいたのです。晴れる日も有り難く、雨もまたお恵みとして尊く受け取れるのです。梅雨の長雨も小出しに降ってくれるので結構です。一年分一度に降れば大洪水です。

 お月さまも同様、春の月も美しく、秋の月も美しいと感じるようになります。しかしすべての人が美しいと思うとは限りません。金色夜叉の貫一のように「来年の今月今夜のこの月を涙で曇らせてみせる」と恨み悲しむ人もあるのですから。春でも秋でも、いつも美しいなあといただけたらお授戒の徳です。

 暑い、寒いも同様です。温暖化のせいでしようか、近年の夏の暑さは耐え難いものがありますが、

  暑き日を暑きと言えること嬉し
     冷たくなりし人にくらべて

という歌のとおりです。生きているから暑いと言える、死んで冷たくなったら暑いとも言えません。

 お授戒を受けた人は「日々是好日」と暮らせる方です。それは色声香味触のすべてが有り難く受け取れるお人です。お互い凡夫ですから、毎日、毎日、好日だ大安吉日だとは過ごしにくい日もありましょうが、少なくとも、六日に一回ほどの大安吉日を暦で教わるのではなしに、ご自分の戒徳で大安吉日の数を増やしていただく、それがこの「第九 現相」の真の受け取り方と思うのであります。

      *同称十念
※注記
①大悟法利雄(一八九八–一九九〇)=歌人。若山牧水の高弟。
②椎尾辨匡大僧正(一八七六–一九七一)=増上寺八十二世、大正大学学長、共生運動を提唱する。
③聖徳太子(五七四–六二二)=推古天皇の摂政。日本仏教の祖と言われる。六〇四年、「憲法十七条」を制定。
④『続日本紀』四十巻。『日本書紀』に続く第二番目の勅撰の正史。
⑤天武天皇(六三一?–六八六)=第四十代天皇。
⑥『授菩薩戒儀則』(黒谷古本)=『浄土宗聖典』五・四七八頁。
⑦『授菩薩戒儀』(新本)=『浄土宗聖典』五・四九四頁。
⑧友松圓諦先生(一八九五–一九七三)=仏教学者。ラジオでの講義を通じて仏教の大衆化に寄与、全日本真理運動を展開。
⑨『授菩薩戒儀』(新本)=『浄土宗聖典』五・四九五頁。
⑩大石順教尼(一八八八–一九六八)。順教尼の生涯については『無手の法悦』(春秋社刊)に詳しい。
⑪『授菩薩戒儀則(黒谷古本)』=『浄土宗聖典』五・四七九頁。
⑫「日々是好日」=中国・雲門宗の祖、うんもんぶんえん(八六四–九四九)の言葉。
⑬色声香味触=五境のこと。色声香味触の五法は眼耳鼻舌身の五根が縁じる対境であるから五境という。