第2章◎ 説戒
  説戒実例

 
 
浄土宗布教委員会委員長 上田 見宥

1.序説 十二門の儀相〈開導から発心まで〉

*同称十念
*開経偈

 つつしんで拝読し奉る

 『梵網菩薩戒経』に曰く(はい ご一緒に)

 衆生仏戒をうけぬれば
 即ち諸仏の位に入る
 位大覚に同じ已りなば
 真に是れ諸仏のみ子なり と 十念

 おはようございます。昨日は初日で、慣れぬことばかりで多少のお疲れもありましょうが、今日も一日よろしくお願いいたします。

 昨日は入門のごく初歩的なところから始めまして、午後には戒体というちょっとむずかしい「起こさば性なる無作の仮色」というお話をいたしました。それは皆さまどなたもがお持ちのすばらしい性能のエンジンを回していただくことでありました。そうすれば摂律儀・摂善法・摂衆生という戒法のお徳をしっかりいただき、まことの人生を歩むことができるのであります。その戒徳は、十二門のうち第七の「正受戒」のとき、かつの作法で発得させていただく、その肝心のところを昨日、先にお取り次ぎいたしましたので、今日は「第一 かいどう」からあらためてお話を進めたいと思います。

第一  開 導

 まず開導の「開」です。開は「ひらく」ということですが、何を「ひらく」のでしょうか。それは「心眼」、心の眼を開くということです。そして「導」ですが、「正道」=正しい道に導かれるということです。

 私たち凡夫はなかなか心の眼を開くことができず、つい「肉眼」でものごとを見、判断してしまいます。肉眼という凡夫の目で見て損だの得だの、勝った・負けた、好きだ・嫌いだという日暮らしをしています。もう一つ心の眼を開けば、物ごとのいただき方が変わるのです。

 仏教では「五眼」と申しまして、肉眼以外に天眼・慧眼・法眼・仏眼の四つがあると考えます。天眼とは天人の持つ眼、慧眼は声聞・縁覚の眼、法眼は菩薩の眼、仏眼はもちろん仏さまがお持ちの眼であります。この後の四つをまとめて心眼と申しましたが、いずれにしても通常の肉眼とは違った、ものの見方、考え方、いただき方をすることが大切だと思うのです。ご承知の『般若心経』などに出てくる「眼耳鼻舌身意」といった六根は、私たちの煩悩を引き出す大本で、目あるがゆえに、見て欲しいと欲の心を起こし、耳あるがゆえに聞こえて腹が立つといった風に、あらゆる煩悩を引き出す働きをしますから恐ろしいことであります。私たちお授戒を受ける身は菩薩の位をいただくのですから、しっかり心眼を開いて「諸悪莫作 衆善奉行=止悪行善」の性を認識し、このお授戒でその徳が具わるようにご修行いただきたいものです。

 『梵網菩薩戒経』に、

金剛宝戒は是れ仏性の種子、諸仏の本源なり。

とあり、また『大智度論』というお書物には、

戒は是れ仏法の大地、一切の功徳之に依って成就す。

とございます。この戒は大地のようなものであり、また種子のようなものです。一切のものを育む大地に種子を蒔いて戒法の芽生えをいただくのです。肉眼だけの認識ではなく、心の眼を開いてわが身に宿る仏性の尊さを信じ、この度いただいたこのご縁を間違いのないものとしてゆく=そうしたことが生活の土台になれば、何よりも有り難いことです。

 眼も耳もあるが故に、見える・聞こえる。これが正道を歩む邪魔をします。見たり聞いたりしている間に、相手が嫌いになる、腹が立つようになる。相手が悪いのではない、私の根性が悪い場合が多いのです。

 今日はお年寄りのお方が相当たくさんおられますが、ちょっと拝見してもお顔にしわがよっていらっしゃる。ひょっとしたら腰の曲がっている方もおられるかも知れん。誰も喜んで年をとった者はないが、苦労の重荷を背負い、子どもや孫の負担に堪えて来た皺です。

  老醜はありて 老美は辞書になし
    哀れなるかな 老いというもの

 歌人だいぼうとしの詠んだ歌ですが、身につまされます。年寄りは残念ながら若いお方の美貌には勝てません。老美という言葉はないのです。それどころか汚い・臭いと言われて小さくなって暮らしているのです。それでも振り込み詐欺に引っ掛かるくらいに子どものことを思うて暮らしているのが親というものです。

 しかるに豪華な結婚式をあげてもらった子どもで、親が亡くなった時、その葬儀費用を「死に銭や」と言う。派手な葬儀をする必要はないけれども、不平たらたら親を見送る根性は情けない限りです。眼あるがゆえに、耳あるがために、年老いた親を馬鹿にするようでは、大学を卒業した値打ちはない。学問が進むほど親を見下げる人がいるのは悲しいことであります。

 そうしたことはすべて心眼がかすみ、曇っているからです。心の眼が開けると、私たちが人間として本来あるべき姿=戒法の大切さが分かってまいります。すなわち地獄・餓鬼・畜生の三途に迷う者には戒が良薬となります。

 みょう(愚痴)の闇をさまよう者には戒がとうとなって行く手を照らしてくださいます。貧しい者が宝を手にするように、飢えた者が食をいただくように、病者が医師に出逢えたように、このたびはこの道場でみ仏の確かなお導きをお受け取りいただきたいと思います。

第二  三 帰

 次は「第二 さん」です。三帰とは三宝に帰依することです。三宝とは、仏と法と僧の三つで、これをお宝として敬うべきであるから「三宝」と呼ぶのです。金銀・ダイヤモンドもお宝ですが、この三宝はお金では買えない宝物です。

 まず「仏」ですが、わかりやすく言えばお釈迦さまのようにさとりを開かれた仏陀のことです。

 「法」とはその仏陀のさとりの内容=釈尊が弟子たちに説かれた教えで、インドの言葉でダルマと言います。

 「僧」とはお坊さんのことではありません。仏陀のもとに何人かの弟子が集まると、そこに修行のための集団ができます。その集いの力をインドでは「サンガ」と言いました。そのサンガという言葉を中国で「そうぎゃ」と音写(当て字)したので誤解をまねきやすくなったのです。

 いずれにしても釈尊がインドのサルナートという土地で、初転法輪といって初めて法を説かれた、その時に三宝に帰依する姿が生まれました。それを「三帰戒」といって、戒の一番基本の相とするのであります。

 今、「帰依」という言葉を使いましたが、帰依とは帰命と同義で帰順・帰投、あるいは南無というのも同じです。全身全霊で三宝の徳により添うてまいることであります。

 この三宝の徳に帰依する姿を椎尾辨匡大僧正は「明るく・正しく・仲良く」とわかり易く教えてくださいました。さとりを開かれたみ仏の心は明るい世界です。陰気なところのない晴れ晴れとした精神状態です。そのみ仏のさとりの内容やお説きになるみ教えは、一点の誤りもない正しいもので、万古不易の真理と申せましょう。そのみ仏のもとに集うお仲間は和合(仲の良い)集団でなければなりません。だから三帰戒を椎尾先生は「明るく・正しく・仲良く暮らすことですよ」と説明されました。明治の明、大正の正、昭和の和、と年号が教えてくれます。これなら誰でも忘れずにおぼえられましょう。

 昔、聖徳太子は仏教の教えで日本の国を治めようと十七条の憲法を定められました。その第一条に、

 「和を以て貴しと為す。さからうことなきをむねとせよ」

と仰せになり、また第二条では、

 「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり。則ち四生のよりどころ、万国のきわみのむねきわみのむねなり……それ三宝に帰りまつらずば、何を以てまがれるを直さむ」
と言われました。「忤うことなき」とは和順ということです。また「終帰と」は終点ではなく、依り所のことです。

 そして第十条では、

 「我れ必ずしも聖に非ず。彼れ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」
と仰せられました。これなどはさしあたり、今日浄土宗が二十一世紀劈頭宣言で申した「愚者の自覚」と軌を一にするもので、その慧眼には頭が下がります。

 聖徳太子が仏教に帰依されてより、日本の皇室は代々仏教を大切にされました。『続日本紀』などに出てくる天皇の祝詞にも、三宝に帰依されておられるお姿を伺うことができます。天武天皇も「家々に仏舎を設け……」と詔をされ、国民に帰依仏教を薦められましたし、知恩院にも天皇さまご染筆のお名号やお写経の数々が見られますことは有り難い極みであります。残念なことに明治初頭の廃仏毀釈で仏教は退けられ、天皇家はあらひとがみとまつり上げられ、国家神道を利用した政治が行われるようになって軍事大国の誤った道を進む結果になりました。明治初期の太政官の罪は重いと言わねばなりません。

 つい横道に逸れかけましたが、日本の文化の底流には仏教の精神が脈々として息づいておりました。その根本が帰依三宝です。み仏に掌を合わせ、そのみ教えに触れ、家族相和して暮らしてまいりました。それが日本の美風でした。三宝は目に見えるものではないけれども、仏壇を中心とした家々に伝わる信仰によって、自然といただいてきたあたたかで心安まる世界でありました。残念なことに終戦後の日本は、物質的には見事に復興しましたが、科学万能・経済優先・欲望本意の精神的砂漠の寒々とした荒野に身を置いて苦しむ人々が何と多いことでしょう。今となって懐かしいのは昔の家族制度です。田舎といえども家族は崩壊してすべて核家族になりました。会社の転勤ということもありましょうが、皆、散り散りバラバラです。

  何ゆえの苦労子供は遠く住み

 こんな川柳が詠まれるのは悲しいことですが、私は今の家庭の姿を「家族の核分裂」と呼んでいます。自分の生まれ育った実家にはあまり未練・執着はないし、住みたくもない。それでも財産だけは欲しいのです。

  財産は取り合い
  位牌は譲り合い

 ご先祖ののこしてくれた財産は独り占めしたいほど欲しいけれども、お位牌の方は「お前がまつれ」と兄弟で譲り合うているという、漫画にもならない愚かな現実があるのです。

 この帰依三宝は「日常勤行式」でも二番目に出てくる偈文、「三宝礼」として「一心敬礼十方法界常住仏 常住法 常住僧」とお馴染みで、よくご承知と思いますが、「一心敬礼」とは心の底から帰依してまいるということです。この世にはいろんなお宝がありましょうが、「明るく正しく仲良く」暮らすことができたら、それが一番のお宝です。

 商店でもこの三つのお宝があればお客が来てくださるはずです。二度三度と行きたくなるようなお店には、この三つのお宝があるものです。その意味ではあの浅草の「なか」という言葉は素晴らしい。同じ商売をしていても、単なる店ではなく「見世」=どうぞ見てくださいと世間に見てもらう、「この店には三宝がありますよ」と公開して見せているのです。それは品物、商品を見せるだけでなく、「心」も見せているということです。旅館でも、また行こう、もう一度泊まりたいと思わせる旅館には三宝があります。「また逢いたいなあ」と思わせる人もいらっしゃるし、尋ねていっても居留守を使われる人もあります。居留守を使われるのか、また来てほしいと思うていただくのか、それはその人に三宝があるかないかの違いです。

 さて翻ってこの私はいかがでしょうか、と自分を振り返ってみる。皆さんは昨日から白い浄衣をお召しになってお袈裟も掛けていらっしゃる。それがまた良く似合っておられる。浄衣やお袈裟のお陰で素直になってくる。それはお袈裟の徳です。お袈裟が私の曲がった根性を直してくださるのです。私などは出来が悪いから、もう何十年、毎日掛けっぱなしです。そして反省・懺悔をさせていただく、それがまた有り難いのです。それに加えて嬉しいことは、昨日から今日にかけて私一人に話をさせておいて、文句も言わずに黙って聞いていてくださる。それはこのご本堂に三宝があるからです。そしてお話が済めば皆でお念仏を申してくださる。こんな世界はどこにもない。いつもこういう世界に居りたいと思うことでございます。

 先ほどは明治・大正・昭和という年号にことよせて「明るく・正しく・仲良く」と憶えて下さいと申しました。この明、正、和という文字に「無」や「不」という否定する字が付けば、ろくなことになりません。

  無明=根本煩悩→愚痴のことです
  不正=警察のご厄介です
  不和=お家騒動、会社も潰れます

 まず、無明です。煩悩でも貪りは水に喩え、瞋は火に喩えますが、愚痴は黒雲に喩えます。ものの道理にくらいということで、夜に喩えて「無明長夜」という言葉があるくらいです。「十二因縁」という私たちの惑いを順序だてて教えくださる、その最初に挙げられるのがこの無明です。この煩悩のお話をすると長くなるので今は省略いたします。

 不正もまた煩悩ゆえの罪つくりです。毎日の新聞・テレビでこのニュースのない日はありません。

 不和もお互いの自我の強さから生まれるのでしょうか。これは鴨居と敷居の関係のようなもので、両者が平行していなければ障子も襖もスムーズに動きません。俺は俺、私は私と勝手気ままな向きに並んでいたらガタガタ(我他我他)、ガタビシ(我他彼此)と平和が乱れます。家庭にも和がなければ内部崩壊してしまいます。

  外からは 手もつけられぬ要害も
         内から破る栗のいがかな

 石垣に囲まれ、うちぐらそとぐらのあるような財産家で、戸締まり=セキュリティも完璧で泥棒も入る隙間もないお宅でも、鍵を開けて入る賊は、言わばまだ小賊で、手に持てるだけのものを盗む程度です。それよりも家に湧いた盗人が怖い。跡継ぎの極道息子のど根性が厄介です。栗の実が内からはぜてこぼれるように、家の中から乱れていくのです。田畑も家も金もダイヤモンドもお宝には違いないが「和」がなければその宝もなくなります。

 明智光秀の謀反も、織田信長の家臣に対する接し方に、「和」を欠くところがあったから起こった、いわば内部崩壊と見て大略間違いはないと思われます。

 この三宝を敬わず、軽蔑し、もし謗るようことがあれば、それは十重禁の一つで、後にまた説明する機会がございます。

 三宝は無形文化財と同じで形はありませんが、家中これが分かっていたら家内安泰です。学問も大切ですが、皆さま方も時折に、おうちの若い人にこの明・正・和の精神をみ込ませてほしいと思います。この気持ちがなくなると栗と同じように中の実が落ちてしまいます。盗人より火事より家の中の虫が怖いのです。先に死んでいく年寄りは後のことが気掛かりで安心してお浄土に参れません。しかしまた逆に、こうしてお授戒の席に連なっていらっしゃる今日のあなた方のお姿を、ご先祖さんはどれほどか喜んでおられると思います。

 正授戒の儀式でご当山のご住職=じょうさまは昔からの漢文調でお授けになるようですから、少し説明しておきます。

 ●帰依仏両足尊=智慧・慈悲の二徳円満具足の仏に帰依するの意
 ●帰依法離欲尊=仏の法に帰依し、不正の欲を離れ、正欲を発し、社会に奉仕する
 ●帰依僧衆中尊=三賢十地の菩薩に帰依し自らの修養につとめる
 ●和尚=和をたっとぶ人

第三  請 師

 第三は「しょう」です。

 請師とは、戒を発動させていただくお方、エンジンのキーを回してくださる大徳をこの道場にごしょうたいすることです。戒師を頼み、らいこっかい(礼を作して戒を乞う)をするのです。しかし、戒師として頼まれる方も凡夫僧で、戒師としての徳がないので、五座のしょうをご請待申し、その加被護念の力を借りてお授けするのです。

 五座の聖師とは、

戒和尚=釈尊=当山住職
かつじゃ=文殊菩薩=作法師
教授阿闍梨=弥勒菩薩=教授師
証明師=十方一切諸仏=ご縁の深いご住職方
同学侶=一切の菩薩=お授戒を先に受けておられる方々

 この五座の方々を申します。

 まず戒和尚について、このお方は戒和上のことで戒本尊です。釈尊がこの方にあたります。釈尊は約二千五百年前の方ですが、残された法は永遠になくなりません。このお方をご請待するのですが、その釈尊の説かれた法を伝えてくださるお方が伝戒師で、ご当山のご住職がこれに当たってくださいます。つまり釈尊が住職であり、住職が釈尊であるといただくのです。この場合、釈尊は不現前の師であり、ご住職は現前の師であります。

 次は羯磨阿闍梨です。これは作法師のことで、羯磨とは所作・辨事・作業と申せばよいでしょう。

 釈尊の左におられる方で、文殊菩薩がこの方で、懺悔滅罪・かいたいほっとくの作法をしてくださる。これによって戒法が得られるのです。

 その次が教授阿闍梨です。いろいろな問題を教授してくださるお方で、釈尊の右におられる弥勒菩薩であります。

 四番目は証明師で尊証師とも証戒師とも申し、十方一切諸仏といただき、正授戒に列席して証明の任に当たってくださる。只今は目に見えてわかるように、ご当山と縁の深いご住職方が代役で座ってくださり証明擁護の役をなさいます。

 最後は同学侶です。これは同学等侶とも言い、一切の菩薩です。先輩の同窓者のことで皆さんより前にお授戒を受けておられる方々が、今この道場に入って見守ってくださるのであります。

 この五座の聖師のお護りを受け、三羯磨の作法を用いて不可思議の功徳である戒体を相伝してくださる。つまりは釈尊の戒徳を受者の皆さんの仏性の中に輸血注射してくださるとご理解ください。

 先ほどから申した五座の聖師の前に、浄衣を着た清浄潔白な皆さんがお座りになる。これで座の形式が整いました。この道場に三尊・十方如来・菩薩方がうんじゅうされ、その中でお授戒が行われます。

 身はふつつかながら、いやふつつかであるがゆえに、このご縁をいただけて無上の法悦を感じますが、その晴れの場所でしきりに反省させられるのは我が身のことです。今日まで愚かで罪深く過ごしてまいった私の目の前に尊い五座の聖師がいらっしゃる。こんな私を何とか救わんがためにお出ましであると知ればただ懺悔あるのみです。そこでこの戒儀では、次に懺悔と進みます。

第四  懺 悔

 第四は「さん」です。

 私たちが懺悔と申している言葉はインドでは「サンマ」と言います。中国では音写して「懺摩」という字を当てていますが、これを意訳して「(過ちを悔いる)」と表現しました。その懺摩の「懺」と悔過の「悔」の二文字を合わせて「懺悔」という言葉ができた、言わば合成語であります。

 今、五座をご請待して、その御前に座ると、おのずから信仰的な懺悔心がフツフツと湧いてまいります。つまり身口意の三業からの一切の罪障を取り除きたいという願いです。まことに懺悔は信仰生活・道徳生活に進む第一歩と申せましょう。これをお化粧に喩えたら、正授戒を前に女性が顔の垢を洗い落として化粧をするようなもの。また掃除に喩えたら、座敷の塵ほこりをきれいに掃除してからお正客を迎え通すようなものと言えましょう。私たちの中で罪のない人はありません。その罪を今、きれいに洗い流すのです。

  罪ある者は懺悔せよ
  懺悔すれば清浄なり
  懺悔せざれば罪ますます深し

と言われていますが、懺悔すれば清浄です。先ほど清浄潔白な浄衣をお召しになった皆さんと申しましたが、着物の中で浄衣が最高です。白ほど美しいものはありません。よごれ目のない、シミのない白い浄衣。よごれが付いたらすぐ気付かせていただけるのが初日から身に着けていらっしゃる白い浄衣です。その浄衣を死ぬ準備と言う方がある。死ぬ準備の白衣なら、お坊さんも神主さんも、お医者さんも料理人も、毎日死なねばなりません。花嫁の着る白無垢も同様で、一番清らかな装束です。

 この娑婆に身を置く者は日々罪をつくって暮らしています。不純な心・煩悩妄念や邪念と恥ずかしい限りです。自分でも罪と思わずに犯す罪もあります。奇麗に見える水にも塵芥が浮いているのです。

 慚愧という言葉がありますが、慚とは心に自らの罪を恥入り、愧とは自らの罪を人に告白し恥じてゆるしを請うことだと言われています。まことに慚愧にたえない自分に気付くことが肝要です。私たちはつい自分の悪や罪を他に転嫁して、社会悪や環境悪のせいにしますが、あまり褒められた話ではありません。

 また罪と言っても法律上の罪、道徳的な罪、宗教上の罪といろいろございますが、この中でも宗教上の罪が一番厳しいものです。

  髪かたちつくろう度にまず思え
        おのが心の姿いかにと
  これ程のことは浮世の習いそと
        心に許す罪ぞおそろし

 美容院でみがき上げ、美しく着飾っても、それは表面だけのこと。心の中が醜悪であれば悲しいことです。そして、これくらいのことはこの世の習いと自己弁護に走るのが凡夫の常であります。省みてそういう自分であることに気付くとき、たとえ法律的には許されることであっても、仏さまの前ではいつも懺悔せねばならない自分の罪悪にりつぜんとするものを覚えます。

 この懺悔にも「ほっ懺悔」といって仏さまの前で自分の罪を包み隠さず告白して悔い改める「あばき露あらわす」という厳しい作法もありますが、まあ通常は、あの「日常勤行式」に出ている「略懺悔」でその意味を分かっていただけると思います。それは、

我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生
一切我今皆懺悔

という偈文です。簡単にその意味を言うと、私が昔から造ってきたいろいろな悪業は、すべて生まれながらに持ち合わせている貧りと、腹立ちと、愚痴によるところで、それが身と口と心の三業となって現れます。その煩悩のすべてを私は今、心から懺悔いたします、というほどの意味とご理解ください。

 昨日お風呂に入ったのに、今日はまた今日の垢がたまりますから、今日もお風呂に入らねば垢が取れません。同様に昨日懺悔したから今日は心機清浄かと言えばそうではない。今日はまた罪障深重の日暮らしの繰り返しで煩悩の垢がたまります。だからいつも懺悔する心を養い、日々の三業を慎むのです。私たち浄土宗の者は、お念仏をとなえる中に自然と懺悔の行を成じていると教えられていて、それを「念々称名常懺悔(念々の称名は常の懺悔なり)」と申しているのであります。

第五  発 心

 第五はほっしんです。

 発は「おこす」ということですから、「心をおこす」、どんな心を発すのかと言えば、菩提心を発すのです。つまり発と心のあいだに菩提の二文字が省略されているわけですから、正式には「発菩提心」と申すのであります。

 お念仏の相伝には信心が必要ですし、また戒法の相承には大乗の菩提心が必要だと言われています。だから古徳がおっしゃいました。

  大乗戒を受くる者は菩提心を発すべし
         この心なくんば戒体発得しがたきなり

と。また『授菩薩戒儀則』(黒谷古本)には、

  菩薩戒の法は菩提心を本と為す。

とあり、『授菩薩戒』(新本)には、

  今円頓戒を受けんと欲せば、宜しく無作の諦境を縁じて、無作の四誓を発すべし。

とございます。

 菩提心とは正道を歩む心、つまり曲がりくねった心から真っ直ぐな心へ転換して、お浄土に遊ぶような心を申し、さとりを求める心と申してもよいでしょう。いずれにしても菩薩たるものの願い・誓いであり、無作の四誓を発さねばなりません。四つの誓いとは、あの四弘誓願(総願偈)に習えばよいのです。

 衆生無辺誓願度────下化衆生(慈悲心)
 煩悩無辺誓願断─┐
         │
 法門無尽誓願知─┼──上求菩提(敬虔心)
         │
 無上菩提誓願証─┘

 いわゆる度・断・知・証ですが、これを三聚浄戒に当てはめますと、

 度=摂衆生戒
 断=摂律儀戒
 知=摂善法戒
 証=三聚の果報成就

となります。

 友松圓諦先生はこの四つの誓願を次のように訳されました。参考にしてください。

 度=衆生(いのちある者)はかぎりなけれども、誓ってみちびかんことを願う
 断=煩悩(わずらいなやみ)は尽きることはなけれども、誓って断ち切らんことを願う
 知=法門(ことわりのかず)は量りなけれども、誓って学ばんことを願う
 証=仏道(さとりのみち)は無上なれども、誓って成しとげんことを願う

 すこし休憩させていただきます。

*同称十念