2.『菩薩瓔珞経』の三聚浄戒

(ⅰ)具足戒は小乗戒なのか

 インドでは、在家の菩薩と出家の菩薩とでは受持する戒が全く異なることはすでにのべました。また前述の、中国に流布した『梵網経』が説く菩薩戒は在家と出家に共通する戒でした。しかしながら、中国の出家者が一様に『梵網経』所説の大乗菩薩戒を受持したのかといえば、そうではなかったのです。中国仏教は概ねにおいて大乗仏教であったといってよいのですが、出家者が受持した戒は律蔵に説かれる具足戒が基本でした。律蔵はインドにおいて歴史を重ねた部派仏教が伝承したものです。具体的には法蔵部の『四分律』、化地部の『五分律』、大衆部の『摩訶僧祇律』、説一切有部の『十誦律』などです。さらには南方に伝わった『パーリ律』もあります。

 しかし、部派仏教は大乗仏教の側からは小乗仏教と見なされました。律蔵の中味そのものは仏による制誡であり、大小乗を超越した存在ですから、インドの大乗仏教の出家の菩薩は自然ななりゆきで部派仏教の律蔵を用いました。つまり二百五十戒などの具足戒です。インドから中国にやってきた訳経僧たちも具足戒を受持していました。ところが中国では、部派仏教は小乗仏教であるから、彼らが伝承した律蔵に説かれる具足戒は小乗戒であるという意識もあったのです。大乗戒に対して「しょうもんかい」ともいいました。

 仏教の多様な思想がインドから中国へ流入するにつれ、中国にはさまざまな学問宗が成立します。たとえば華厳宗、法相宗、三論宗、などなどです。その中には律蔵を研究する学問宗もありました。中国では律蔵の中でも『四分律』が一般化するのですが、この『四分律』をもとにした律宗が唐代に成立します。その中でも後世に多分に影響を及ぼしたのはどうせん(五九六–六六七)を祖とする南山律宗です。

 律宗ではインド伝来の律蔵の研究をさかんにするのですが、『四分律』等の律蔵は多分に小乗戒であるという意識はあったようです。そのような意識の中で、南山律宗は律蔵に対して「分通大乗」という見解を示しました。この考え方は、律蔵そのものは小乗仏教の教団が伝承したもので、そこに示される具足戒は小乗戒であるが、出家者が受持する戒の精神は大乗仏教とも共有できるものがあるというのです。したがって、中国においても出家者が具足戒を受持しても何ら不都合はないのだという考え方です。実際においても、中国では出家者が具足戒を受持するのが一般的でした。日本の奈良朝期に来日したがんじんじょうもこの流れをくんでいます。

(ⅱ)中国に三聚浄戒が伝来

 このような展開の中にあって、インドから大乗仏教の菩薩戒を説く経典が中国に伝来します。それがどんしん訳の『菩薩地持経』とばつ訳の『菩薩善戒経』です。いずれも五世紀の初期に中国に伝訳されています。この両経はともに昨年度の本書中、「インドにおける大乗菩薩戒の展開」において紹介した玄奘訳の『瑜伽師地論』百巻の部分訳で、その第三十五巻から第五十巻に相当します。大乗仏教の菩薩の修行道が説かれている所で、「菩薩地」と称されています。『瑜伽師地論』は七世紀の中ごろに玄奘が訳出したのですが、それに先立って「菩薩地」相当箇所のみがその異訳として訳出され、中国に流布しました。ただし『菩薩善戒経』は多少の改編が加えられているようです。

 すでに前回、『瑜伽師地論』「菩薩地」の戒品に説かれる菩薩の三聚浄戒を紹介いたしました。『菩薩地持経』『菩薩善戒経』にも戒品があって、同様に三聚浄戒が説かれています。その三聚の名称は次の通りです。

『菩薩地持経』 『菩薩善戒経』 『瑜伽師地論』
律儀戒 律儀戒
摂善法戒 受善法戒 摂善法戒
摂衆生戒 為利衆生故戒 饒益有情戒

 この三聚浄戒、つまり三種類の浄らかな菩薩戒は、在家と出家の両菩薩が受持すべき戒ですが、それは菩薩の実践徳目である六波羅蜜中の第二の持戒波羅蜜の具体的内容を三種に分類したものです。したがって三聚浄戒を受持することは、持戒波羅蜜を実践することと同義になります。再度の説明になりますが、①律儀戒は七衆(比丘、比丘尼、沙弥、沙弥尼、式叉摩那、優婆塞、優婆夷)の戒、②摂善法戒は、六波羅蜜等すべての善法をさとりへむけて実践すること、③饒益有情戒は、弱者救済や教化等のすべての利他行です。

 三聚浄戒の受持、すなわち持戒波羅蜜の実践は、たんに律儀戒の実践にとどまるのではなく、むしろ積極的に仏の教えを実践する摂善法戒、大乗仏教の利他の精神を実践する饒益有情戒に大きな比重があることはすでにのべたところです。その上でこの三聚浄戒は在家出家に共通する菩薩戒なのですが、律儀戒だけを見ると、在家と出家は受持する戒が異なるのです。すなわち在家の菩薩は信者と同じ五戒、出家の菩薩は具足戒です。インドではこれが普通だったのですが、前述のように中国では具足戒は多分に小乗戒であるという意識がぬぐいきれなかったようです。つまりインド伝来の三聚浄戒には小乗戒が含まれているのです。そこに登場してくるのが『菩薩ようらくほんごう経』に説かれる三聚浄戒です。

(ⅲ)『菩薩瓔珞経』の三聚浄戒

 じくぶつねん訳として伝わる『菩薩瓔珞本業経』二巻は『菩薩瓔珞経』とも略称されます。同じく竺仏念訳の『菩薩瓔珞経』十四巻がありますが、これは全く別物です。この経典もさきの『梵網経』と同様に不思議な存在で、竺仏念(四世紀後半に長安に来て訳経)が訳出したと伝えますが、インドで流布した形跡がありません。また古い訳経目録に記載されることもなく、六世紀末の『法鏡録』以後になって竺仏念訳と見なされるようになりました。内容的には『華厳経』『仁王般若経』『菩薩地持経』、さらには『梵網経』などの思想を取り込んでいます。

 実はこの『菩薩瓔珞経』にはインド伝来の三聚浄戒とは異なる新たな菩薩の三聚浄戒が説かれているのです。まずその下巻の「因果品」第六に、十波羅蜜(施・戒・忍・精進・禅・慧・願・方便・通力・無垢慧)の第二の戒に三種ありとして、①自性戒、②受善法戒、③利益衆生戒の名を見ることができます。おそらくこれはインド伝来の持戒波羅蜜を三種に分類する三聚浄戒と同じ意味だと思われますが、名目の列挙だけで内容の説明はありません。

 次に、同じく下巻の「大衆受学品」第七には新学の菩薩が受持すべき根本の戒としての「三受門」が説かれます。実はこれこそが、後世に大きな影響を及ぼした菩薩の三聚浄戒であり、次のように説かれています。

〈1〉摂律儀戒……十波羅夷
〈2〉摂善法戒……八万四千の法門
〈3〉摂衆生戒……慈・悲・喜・捨によって衆生に安楽を与える。

 これら三種の中で、インド以来の三聚浄戒と最も内容が異なるのは最初の摂律儀戒です。それは十の波羅夷とあります。波羅夷とはサンスクリット語のパーラージカ、重罪のことです。つまり十の波羅夷とは十の重戒です。その十の重戒の内容は、同じく大衆受学品に十無尽戒、十重戒として説かれますが、その十重戒は『梵網経』の十重戒と全く同じ内容で説かれています。したがって摂律儀戒の十波羅夷とは『梵網経』が説く菩薩の十重戒ということになります。『梵網経』の菩薩戒は道俗一貫の大乗戒であり、この中に具足戒は含まれていません。つまり『菩薩瓔珞経』の摂律儀戒は、小乗戒という認識のあった具足戒を廃して、純粋な大乗菩薩戒のみを内容にしているということになります。なおこの経には『梵網経』の四十八軽戒に相当する戒は説かれていません。また十重以外の八万の威儀戒は軽であるとも説いています。

 第二の摂善法戒は、八万四千の法門ですから仏の教えのすべてが戒であるという意味になります。『瑜伽論』の摂善法戒も基本的には同じ意味なのですが、その善法は六波羅蜜を中心とする菩薩道の意味合いが強いように思われます。『菩薩瓔珞経』での善法はその意味を限定することなく仏の教えのすべてを意味することになります。つまり八万四千の法門の中には、天台も、華厳も、三論も、法相も、禅も、浄土三部経の教えも、あらゆる教えがその中に含まれます。換言すれば、聖道門も浄土門も、すべてが善法であり、それを実践することが摂善法戒ということになります。

 第三の摂衆生戒は、玄奘訳の『瑜伽論』では饒益有情戒ですが、これも基本的には意味は同じです。平成二十四年度版の本書で紹介したように『瑜伽論』では菩薩の利他行を、疾病等の苦から救う、さまざまな恐怖から守るなど具体的な十一種を列挙するものでした。これに対して『菩薩瓔珞経』では、慈・悲・喜・捨という四無量心によって説明しています。慈は衆生に楽を与えること、悲は衆生の苦を抜くこと、喜は衆生の楽を喜ぶこと、捨は差別を捨てて衆生を平等に利することです。この四つの広大な量り知れない心で衆生に安楽を与えるのが摂衆生戒です。

 以上のように『菩薩瓔珞経』の大衆受学品の三聚浄戒を概観しましたが、インド伝来の三聚浄戒を引きつぎながら特異な主張がそこに見られます。第一には、摂律儀戒の内容ががらりと変わっています。全くの純粋の大乗菩薩戒、すなわち盧舎那仏が発信元になっている『梵網経』の菩薩戒がその内容になっていることです。

 第二には、従来の三聚浄戒は持戒波羅蜜を三種に分類したものでしたが、大衆受学品の三聚浄戒はその範囲をすでに脱した意味があるように思われます。なぜなら三聚浄戒は初めて発心した菩薩が受持すべき「正法戒」であると説いています。しかも三聚の順番が、実は摂善法戒、摂衆生戒、摂律儀戒になっているのです。摂善法戒が最初にあります。これは八万四千の法門という仏の正法なのであり、仏の教えそのものが戒であるという考え方が前面に出ているといえます。つまり仏の教えを実践することが三聚浄戒の受持なのです。摂律儀戒はその一部なのであって、これが前面に出ているのではないという点にも注目すべきであると思います。