2.勧誡説示の要点
以下、勧誡説示の実際について略述したい。三席くらいの勧誡を予想して十項目ほどに分けると次の通りである。
一、合掌と礼拝
二、物質生活と精神生活
三、罪障懺悔
四、本宗の本尊と祖師の恩徳
五、浄土宗の安心・起行・作業について
六、三帰三竟の大意
七、五戒
八、十重禁戒
九、お剃度
十、日課授与
一席しか時間のない時は、取捨よろしくお取り計らいをいただきたい。
(ⅰ)合掌と礼拝
合掌はどんな宗教でも、その基本になるものである。礼拝もまた同様である。浄土宗の合掌は「堅実心合掌」でその掌を胸におさめる(併せて数珠の掛け方も指導する)。胸は「棟(家の棟)」に通じ、また「宗」「旨」もムネと訓じる。胸は心の宿るところであり、そこに掌を収めて阿弥陀仏を拝み、頭を低くする。拝む心が合掌の形を作り、その形が今度は拝む心を養ってくれる。善悪無主で、拳固を作り、人をも殺しかねない手が、合掌すれば拝む姿に変わる。驕慢心の強い私が低頭して、謙遜とやさしい心をいただくのである。
朝起床してから夜寝るまで、私たちの手の働きは百千とあるけれども、そこに合掌の心がないからいろいろな間違いを起こすのである。千手観音さまも、千の手にさまざまな道具をお持ちで、あらゆることをなさるが、真ん中の二腕は合掌のお姿である。合掌の心ですべてのことをなさるから、仏・菩薩のなさることに誤りはなく、すべてがお慈悲の働きとなる。私たちもみ仏に合掌低頭することによって、お互いに拝み合う心を育てたい。家庭社会にこの姿・心を広げていきたいものである。
母が拝めば子もおがむ おがむ姿の美しさ
子どもは親の背中を見て育つと言われている。今日の青少年問題のほとんどは大人の責任と言って過言ではない。まず私たちが掌を合わせあう生活をすべきである。
礼拝には上中下の三通りがある。上礼は最も丁寧な礼拝で、立って坐って五体投地をする。つまり額と両肘、両膝を地につけてみ仏の尊体を拝みたてまつるのである。このとき両掌にみ仏を乗せて頂く心地で礼拝する。み仏のみ足に接する思いで頂くから「接足作礼」と言う。「恭敬礼拝」とも言って、「恭敬」とは心からも、姿かたちの上からも、うやうやしく敬い、それが形に表われたところが接足作礼である。この「恭敬礼拝」の、中の二字を取って「敬礼」、すなわち日常勤行式に出てくる「三宝礼」の「一心敬礼」はこの意味で、やはりここでも上礼をするのである。中礼は長跪といって膝を立てた姿勢から礼拝をする。下礼は坐ったままのお礼であり、一番略式のものである。
(ⅱ)物質生活と精神生活について
物質文明が進み、生活がどれほど豊か、かつ便利になっても、その一方で精神面の充足がなければ、真の幸福はない。科学万能・経済優先の弊害は日々の社会現象で明らかに知るところである。凶悪な犯罪、汚職、悪行の低年齢化、学校や家庭の崩壊、ミーイズム・ナウイズム(私さえ良ければ・今さえ良ければ)の浸透など、金と物さえあれば、の風潮は憂うるべき限りである。従って安らぎのない精神面の砂漠化がどんどん進み、ポッカリ空いた心の空洞に虚しさを覚えるのである。
さもなくても老・病・死の世の無常は避くべくもない。核家族化の結果としての孤独な老人の姿に、福祉国家とは名ばかりかと寂寥の感を深くさせられる。
加えて貪・・痴・疑・慢・邪見などの煩悩は、如何に文明社会になっても消えてなくなるわけではない。知識人ばかりで随分賢い人が増え、是非善悪の分別がつくべき人が、やはり煩悩のとりことなって日暮らしをしているのである。ここから考えても、釈尊や法然上人の教えが決して古いのではない。二五〇〇年前、八○○年前のみ教えはもう時代遅れだという声も聞こえるが、そうではなく昔も今も「無常の理」は変わりなく、「煩悩の惑い」は絶えることがない。愛別離の悲しみや怨憎会の苦しみも、千古変わらぬ世相であってみれば、凡夫救済のみ教えに新旧の別のあるはずはないのである。
人間の生活には財産・物質だけでは癒されぬ面がある。地位・名誉で解決しない悩みも数多い。おしなべて泣くことの多い人生を、しかし泣きながらも渡って行かねばならない。まことの信仰は、そんな私に生きる力を与えてくれるものである。耐えがたい憂世に、安らぎと勇気をいただく─それが釈尊のみ教えであり、法然上人の説かれたお念仏である。
(以下次号)