3.戒の体・相・用

*同称十念
*開経偈

 私たちの生活の原動力となる戒の法門を、儀式として伝えようとまとめてくださったものが『授菩薩戒儀』またの名を『十二門戒儀』と申します。法然上人に伝わりましたこの「戒儀」を、法然さまは「黒谷古本」と「新本」の二本として残しておられます。内容の表現はいささか異なりますが、精神は同じであります。十二の項目も同様でありますから、只今はその第七の正授戒のお取り次ぎであります。

 そこで「戒」の体・相・用についてお話を進めたいと思います。ものごとには、どんなものにも体と相と用があります。

 まず「体」ですが、ものの本体・本質ということとご理解ください。

 次に「相」とは、そのものの姿・形ということです。

 最後の「用」は「ユウ」と読みます。そのものの働きのことを申します。

 どんなものにも体・相・用があると申しましたが、例えば「扇子」を例にとると

 体は、竹と紙です。

 相は、何本かの竹の骨に紙が張ってある状態です。

 用は、儀式に使う、あるいは扇(あお)いで涼をとるためです。

 体は同じ竹と紙でも相が変われば用も変わります。例えば、相が、提灯の形になりますと、用は、夜道を歩く為の灯火になります。

 それでは「戒」の体・相・用はいかがでしょうか。

●戒の用=この戒を受けると、善男子・善女人の名にふさわしく品位を高め、悪事に近寄らず、善事は積極的に行い、社会の為になることを好んでするようになる。これがこの戒の用(働き)です。

●戒の体=これは少々難解ですが、智顗が『戒疏』で「戒体者 不起而已 起即性無作仮色」と言っているそれであります。「戒体とは、起こさずんば已みなん。起こさば性なる無作の仮色」と読むのですが、戒体とは、道徳的行為を起こす根本的原動力を言います。しかしその根本的原動力とは何かと言うと意見がまちまちなのです。心法といって精神・心が原動力だという説、色法と言って身体・肉体が原動力だという説、不相応法戒体説と言って心でもない、肉体でもない、それ以外の別個のものという説など、さまざまに意見が分かれます。また道徳・倫理の本質は良心だというが、では良心とは何かというと分からない。良心と言っても形も分からず、身体のどこにあるのか、心が良心という説、身体が良心という説、まことに厄介なことであります。

 さて、戒体を「起こさずんば」とか「起こさば」などとか言いますが、それは「戒体を発動するか、しないか」という問題です。それを専門語で「戒体発得ほっとく」と言いますが、発得しなければ戒法の功徳は動き出しません。発得して動き出すと「止悪行善」の用(働き)が自然と始まるのです。そこで、

●性なる=仏性の性です。人間が本来具え持っているところの、という意味。
●無作の=自由自在にすばらしい活動をすることのできる、ということ。
●仮色=五蘊仮和合の精神即肉体・肉体即精神のこの五尺の身体。つまり肉体の全体が心であり、心のままが肉体である。大変むずかしい表現ですが、いたるところに心が満ち溢れている肉体。

 言葉で申せば、こんなところでご理解いただきたいと思います。そしてこの戒体が発動することが大切です。発動しなければ「起こさずんば已みなん」です。戒法の功徳はジッとしたままです。「起こさば性なる無作の仮色」で発動すればすばらしい働きをいたします。その立派な無作の仮色を具えながら気付かずにいるのが現状です。それをこの度のお授戒で発動していただくわけであります。
 
 ところで、私たち人間の行為はどのように起こるのでしょうか。まず一、動機です。次に二、決意、三、動作、四、結果と続きます。お授戒ではその動機を作っていただくのです。第七正授戒では「三羯摩」というお作法で戒体が発動する動機をいただきます。三回の問答で和上の「よくたもつや否や」の問いかけに「よく持つ」と答えていただきます。昔、あるお方が、

戒善は生具なり、縁を闕(か)けば起こらず。

とおっしゃいました。戒善は心身と共に滅することはありませんが、放っておくと動き出しませんから、その縁をいただく─三羯摩のお作法がそれであります。

 もちろん、生具の戒善ですから、戒和上の手を借りずに、仏前に誓って自発的に戒徳を起こす方もおられます。「自誓受」というのがそれでありますが、我々は凡夫でそのような能力がありませんので、羯摩のお作法でそのご縁をいただくのです。

 先ほどから申している「性なる無作の仮色」は、言わば大地のようなものです。大地はお米やお野菜を育てる力を持っています。しかし種子を蒔かないと芽は出ません。この「仮色」も道徳的行為をする力を持っていますが、そこに羯摩の種子を蒔くとたちまち戒徳の芽が出て活動していくのです。

 このことを古人は「独楽こま」に喩えて教えてくださいました。独楽は本来クルクル回る性質を持っています。けれども紐を巻きつけ回してもらうというご縁がなければなりません。この独楽の喩えは、今日では自動車のキー(鍵)と申せばよく分かるでしょう。優秀な性能をもつエンジンも、キーを回して初めて動き出します。お授戒の場合はそのキーを回すことが「三羯摩」であり、そこで戒徳が動き出し、働き出す=それを「戒体の発得」と申します。しかも発動した戒の徳は永く消えることがありません。これを「一得永不失いっとくようふしつ」と申します。「ひとたび得ると永く失うことのない」戒の徳をいただくのだと、その幸せをお喜びください。

 戒の相。これは「三聚浄戒」のみ教えです。聚は「あつまる」の意ですから、三つの清浄な戒徳を集めてのお示しです。

一、摂律儀しょうりつぎ戒 ― 止  悪 ― 断徳
二、摂善法しょうぜんぼう戒 ― 行  善 ― 智徳
三、摂衆生せっしゅじょう戒 ― 済世利民 ― 恩徳

 この三つの浄戒の中に宇宙全体の徳・法・功徳が込められています。少し説明を加えますと、

一、摂律儀戒(止悪。諸悪莫作。為断一切悪。防非止悪。六根清浄)

 この浄戒は悪に対する誡めです。「諸々の悪は作すこと莫れ」という諸悪には、大悪もあれば小悪も含まれますが、み仏の制誡は善より悪に厳しく、小悪にも気を付けなさいとの教えです。「尺善をするより寸悪をするな」ということですが、実際に「これくらいは」という甘え心が転落の始まりになるのです。「仏心は大慈悲是れなり」と悪人をもお捨てにならないみ仏の護念に甘えるのは禁物です。法然上人のご法語に、

罪は十悪五逆の者も生まると信じて小罪をも犯さじと思うべし

とありますように、十分に心得ねばなりません。「人が見ていないから」「私一人じゃない」「皆しているから」と悪を大目に許そうとすることにも注意が必要です。

 この浄戒はみ仏の三徳(智・断・恩)の中「断徳」に当たります。断の徳は、全ての煩悩・罪悪を断ち切っておられるお姿です。仏像でいえば「蓮台」が断徳の象徴です。蓮は泥水から出て泥に染まらず美しい華を咲かせます。

泥水の 泥に染まらぬ 蓮の華
泥水を 抜けて涼しき 蓮華かな

 泥田の濁りを娑婆の苦しみに喩えるとき、私たちも泥田にありながら、その泥を肥やしとして蓮のような美しい華を咲かせたい─それが戒を受けた善男子・善女人の願いであると思います。

 この摂律儀戒の詳しい相については、のちに十二門の第十説相の章で申し上げます。


二、摂善法戒(行善。衆善奉行。為修一切善。無漏の浄智を成就)

 この浄戒は善事を行ずる薦(すす)めです。「諸々の善は奉行せよ」という善は、すべての善という意味ではありません。我々は凡夫ですから完全な善・純粋な善は行じ切れません。施しにしても親切にしても、善らしきことはさせていただいたかも知れないが、胸を張って自慢できるほどの善はなかなかできないものです。ですからみ仏の制意を、「身に叶うだけの善はなるべくなさいませ」といただきます。先に申したように「尺善をするより寸悪をしないように」することです。どれほど尺善(沢山の善)をしても一寸の悪ですべてがご破算になりますから注意せねばなりません。

 「奉行」という言葉は仏教語です。大岡越前守や遠山の金さんでお馴染みの奉行ですが、民衆のために力を与え守る人を言います。「与力」というのは現代の巡査のような役でしょうが、これも人々に力を与えるお方です。何かこの浄戒と深い縁の糸で結ばれているのでしょうか。

 この浄戒はみ仏の三徳の中「智徳」に当たります。智の徳は詳しく申せば「四智円満」です。正しく明らかな智慧に照らされると悪事はできなくなります。罪悪はばい菌のようなもので、光明の照らすところでは生きておれないのです。み仏のお姿で言えば光背です。み仏の後光はまことに智徳の象徴であります。


三、摂衆生戒(済世利民。饒益有情戒。大慈悲力)

 菩薩として利他行に励み、他を救済し社会を善導しようと願うのがこの浄戒です。先の律儀・善法の二戒は、どちらかと言えば自己の修養が中心でした。もちろん自己の修養が社会の善導に反映することは当然ですが、この戒は積極的に、世の中のためになるよう、人のために働こうと社会に奉仕することを薦めるのです。

 この浄戒はみ仏の三徳の中「恩徳」に当たります。み仏のお姿で言えば「印相」です。み仏はいろいろな印相を結んでおられますが、衆生済度の象徴的なお姿であります。

この摂衆生戒の具体的な精神は次の四無量心・四摂法ししょうほうで明らかになります。

 四無量心と四摂法については『菩薩地持経』に「菩薩たるものは必ず慈・悲・喜・捨の四無量心、布施・愛語・利行・同事の四摂法を実行せねばならない」ということが説かれています

まず四無量心です。四つの無量の心、無量心とは広大無辺の限りない広い心を言います。
慈無量心は一切の衆生に楽を与えようとする心であり、悲無量心は一切衆生の苦痛を我が苦痛として、その苦を抜こうとする心を言います。この両者はいずれも博愛同情の親切心と申せましょう。喜無量心は衆生の抜苦与楽した姿を見て喜び、妬むことのない心であり、捨無量心とは上の三つの心に執われる心からも離れ、怨親平等に無量の衆生と縁じる協調・融和の心をいうのです。

 この四無量心を簡潔に言って

(1)いつくしみ
(2)あわれみ
(3)よろこび
(4)平らかな心

と説明される方もあります。参考にしてください。

 次に四摂法です。これは四摂事、あるいは四摂行とも申します。利他摂化と言って、人さまを利することをして教化してまいります。

 その第一番目が布施です。これはいうまでもなく施しです。施しといえば金銭や物を与えることと思いがちですが、それだけが施しではありません。釈尊は法施をされました。教えを説いて迷い多い人々を救われたのです。ある日の朝、釈尊が托鉢に村へ出られたとき、一人の村人が釈尊を非難して「あなたは田畑を耕さずして、人々から恵みを受けて生活している。あなたも我々と同じように農耕をすればよいのだ」と。釈尊は「私も耕している。私は人々の心を耕しているのだ」とお答えになったといいます。衆生の心田を耕す=こういう姿を法施と申します。

 もちろん、財施も尊いことです。できるだけの財物を施しましょう。
それにしても欲心の深い私に、施しをお勧めになる、これは釈尊の教化の妙と言えましょう。施しをすることを通じて私の慳貪心を治してやろうというお計らいと有り難く受け取らねばなりません。
皆さん、一度ご自分の掌を上向けてよくご覧ください。牛や馬や犬に猫は前足(人間で言えば左右の手)がクルッと上向くことはありません。人間の手の平だけが上を向くのです。この上を向く掌は、人さまに「どうぞ」と心を込めて差し上げる手です。また「どうも有り難う」と押し頂いて受け取る手でもあります。こんな手の持ち主であることを自覚して心を清くすることが大切であると思います。

 そして仏教では「三輪清浄」ということを教えてくださいます。三つのこと、すなわち、

(1)施しをした人も
(2)施しを受けた人も
(3)その施物も

すべてを忘れなさいということです。そういうことに執われるから、「お礼がない」「お返しがない」「詰まらぬものを」と不平不満が出てくるのです。

 それからもう一つ「無財の七施」というみ教えをご紹介しておきます。これは施す財物がなくても立派な布施行ができるということです。七つあります。

(1)眼施=やさしい眼、清らかな眼。心眼を開いて相手に接する。
(2)和顔悦色施=相手にやさしい顔をする。
(3)言辞施=心あたたまる言葉、信頼される言葉を使う。
(4)身施=身体で人に尽くす。
(5)心施=なごやかな善心。
(6)床座施=席をゆずる。
(7)房舎施=宿舎を提供する。

以上ですが、よい心・よい癖は一つでも多く身につけたいものであります。

二番目は愛語です。言葉は人格の表われです。やさしい言葉、親切な言葉、慰めの言葉、喜びの言葉、ためになる言葉─言う方も聞く方も嬉しいものです。『無量寿経』にも、

善語を修習せよ。自らを利し、人を利し、人と我と兼ねて利す。

とお教えであります。また道歌に、

なさけをば 人の心の 根とすれば 
         ことばの華も 美しく咲く

とあり、善語の裏には情け心があるのです。反対に「悪語消え難し」と言われます。言った本人は忘れていても、言われた方は絶対に忘れません。「死んでも忘れん」と言うのですから恐ろしいことです。悪語は折り紙の折り目のようもので、消えることがありませんから注意したいものであります。

 三つ目は利行です。これは他人の利益になること。身口意の三業による善行で人々に利益を与えることを申します。すなわち、自分のためになっても、他人の害・社会の損になることはしない。反対に自分は苦しくても、他人・社会の利益になることは万難を排しても行うということです。

 以前アルバイトでビルの清掃の仕事をしていた大学生がいましたが、仕事がきつく、体も汚れがちな作業ですから、もうこのアルバイトは辞めようと、一緒に仕事をしていた先輩に告げました。するとその先輩が言いました。「君の気持ちも分かるが、せっかく慣れてきた仕事ではないか。もう少し続けてみたらどうだ。僕たち、雑巾になろうよ」

 雑巾になろうと言われても、すぐにはその意味がわかりません。改めて聞き直すと、「雑巾はものを拭いて奇麗にするだろう。そのかわり自分は汚れる。自分が汚れるけれど相手が奇麗になればそれでいいんだ。僕たちの仕事でこの会社で働く人が気持ちよく仕事ができたら、僕はそれで満足だ」。この言葉に感激した大学生は、それからは心を入れ替えて仕事に精を出すようになったそうです。

 四摂法の最後は同事です。これは社会の人々と協調協同して生活することです。「他人と相容れず、協調のできない人は仙人になれ」と言いますが、相手と同じ立場になって考えることが大切です。

手をとりて 共に泣かなん 泣く人の
         痛む心に こころ合わせて

悲しいときには一緒に泣き、嬉しいときには共に喜んで差し上げる、そんな人格に憧れます。また、

何事も 人の心と 身になって

という句もございます。前の歌と同様に心得ねばならないことです。

 以上、四無量心・四摂法をも含めて三聚浄戒を略述しました。この浄戒は「一切菩薩総相戒、一切菩薩根本戒」と言われています。その意味は「すべての人々が、人間である以上は実行すべき浄戒・守るべき倫理道徳である」ということです。

 欧米では第二次大戦後、倫理道徳が退廃しその立て直しが計られましたが、思うような成果が挙がっていません。一方、日本には、古来「有り難い」「もったいない」という、仏教道徳に基盤をおく考え方が根付いており、欧米の注目するところですが、日本でも最近はその美風が急速に失われつつあることは残念です。世界を指導する倫理道徳の原理は仏教にあり、その根幹は実にこの三聚浄戒であります。

 この稿を執筆中に東日本大震災(三月十一日)が起こりました。地震と大津波、加うるに原発の破壊と未曾有の惨事であります。瞬時に命を奪われたたくさんの方々に衷心より哀悼の誠を捧げますと共に、被災された皆さまに心からなるお見舞いを申し上げ、復興の一日も早からんことを祈るばかりであります。それと共にただいまの日本人が、等しく持たねばならない心根が、この「四無量心・四摂法」ではなかろうかと思います。まず何より大切なことは、被災者の心に寄り添うことです。それは「同事」のみ教えです。家を失い、大切な家族と別れ、電気のない避難所で寒さに震え、飲む水や食事に事欠く、何と惨(むご)いことでしょうか。その心情を我がこととして、共に悲しみ、ともに泣く─被災者の方々と同じ目線に立つことが「同事」であります。さすれば自分に何ができるのか、何をして差し上げられるのか─それが「利行」であります。NPOで奉仕する人、それの叶わぬ方は精一杯の義援金(これは布施行でもあります)で、あるいは医療の面で、人それぞれの利行があるはずです。ある理髪店主が避難所で整髪の奉仕をされた様子が放映されましたが、被災者が「心の底までサッパリした」と喜ばれた笑顔が印象的でした。これなどは素晴らしい「利行」でありましよう。

 また放心状態のお老婆さんにやさしい言葉でケアされていた「愛語」の摂法も何度か放映され、有り難く拝見いたしました。

 それらはすべて菩薩の心=大慈悲心(抜苦与楽)のよみがえりです。普段は忘れがちであったけれども、ご先祖代々日本人の血に流れている菩薩の精神が、この国難とも言うべき非常時に甦り、青色青光とそれぞれの分野でともいきの実を挙げていてくださるのです。
戒の体・相・用のあらましのお取り次ぎを終わりまして、次回からは正授戒にいたる序文六カ条のお話に入ります。

※注記
皇円阿闍梨(?―一一六九) 天台宗学僧。比叡山東塔西谷の功徳院に住す。法然上人の師。
伝教大師(七六七~八二二) 日本天台宗開祖。最澄。勅を蒙って入唐。
叡空上人(?―一一七九) 慈眼房。円頓戒黒谷流の戒師。比叡山西塔黒谷における法然上人の師。
黒川立道上人(一七五五~一八三六) 京都嵯峨正定院の学僧。著書甚だ多し。
十戒など 善導大師『往生礼讃偈』の「広懺悔」に出る、以下のさまざまな戒のこと。
五戒 本文(六六頁)参照。
八戒 八斎戒の略。在家信者が一日一夜守るべき戒め。五戒に以下の三つを加えたもの。〈6〉装身化粧を止める、〈7〉高く広々した床に寝ない、〈8〉昼以後食事をとらない。
十戒 先の八戒に以下の二つを加えたもの。〈9〉演劇などを見ない。〈10〉金銀財宝などを蓄えない。沙弥(二十歳未満の出家した男子)、沙弥(同じく女子)が守るべき戒。
十善戒 不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見。
二百五十戒 律蔵に説く戒律。「四分律」「十誦律」「五分律」「摩訶僧祇律」など。具足戒、五百戒も同様。
十無盡戒 〈1〉殺す、〈2〉盗む、〈3〉淫らな行為、〈4〉嘘をつく、〈5〉酒を売る、〈6〉菩薩や比丘・比丘尼の罪を話す、〈7〉自分を褒め、他人を謗る、〈8〉布施をするのを惜しむ、〈9〉相手が謝罪しても許さない、〈10〉仏・法・僧の三宝を謗る、の十を行わないこと。十重禁戒とも言う。
菩薩の三聚戒 〈1〉あらゆる悪を行わない(摂律儀戒)、〈2〉あらゆる善を行う(摂善法戒)、〈3〉すべての衆生を救う(摂衆生戒)の三。一つ目の摂律儀戒には前項の「十重禁戒」を当てる。
鳩摩羅什三蔵(三四四─四一三) 西域亀茲国の生まれ。仏典翻訳家。
『梵網経』 二巻。鳩摩羅什三蔵訳。『梵網経盧舎那佛説菩薩心地戒品』第十。『菩薩戒経』『梵網菩薩戒経』とも言う。大乗菩薩戒の根本聖典として尊崇される経典であり、下巻には正しく十重四十八軽戒の戒相を細かく説明している。
『瓔珞経』 二巻。姚秦の竺佛念訳。『菩薩瓔珞本業経』『瓔珞本業経』『菩薩瓔珞経』とも言う。下巻「大衆受学品第七」に、「今諸菩薩の為に一切戒の根本を結す。所謂三受門なり」として「摂善法戒は、いわゆる八万四千の法門なり。摂衆生戒、いわゆる慈悲喜捨なり。化、一切衆生に及び、皆安楽を得しむ。摂律儀戒は、いわゆる十の波羅夷なり」と説く。
『地持経』 十巻。北涼の曇無讖訳。『菩薩地持経』『地持論』『菩薩地経』『菩薩戒経』とも言う。第四巻第十章に菩薩の護るべき戒・自性戒・一切戒・在家戒・出家戒・三聚浄戒を説き、第五巻第十章に菩薩律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒・四波羅夷・波羅提木叉・難戒・一切門戒・清浄戒などを説く。
南岳慧思(五一五─五七七) 中国天台宗第二祖。南嶽大師とも呼ばれる。
天台智顗(五三八─五九七) 中国天台宗第三祖。天台大師、智者大師とも。
妙楽(七一一─七八二) 中国天台宗第九祖。荊渓尊者、湛然、妙楽大師、記主法師とも呼ばれる。
『梵網菩薩戒経義疏』 二巻 天台智顗講述。『菩薩戒経義疏』『菩薩戒経義記』『菩薩戒義記』『戒疏』とも言う。
四智 仏が自らの内に証得した四つの智慧。大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智。