2.法然上人の伝戒
*同称十念
*開経偈
今から約二千五百年前、インドに釈尊がお出ましになり、将来、釈迦族の王となるべき位と財と国を捨てて出家され、苦行六年、ついにさとりを開かれて仏陀となられました。釈尊はこの天地の中に一つの「法」が具わっていることをさとられ、その法を説かれました。釈尊は天文・地理・社会のあらゆる学問に精通しておられましたが、法以外はお説きになりませんでした。ご入滅の時に、
我を見る者は法を見る者なり
法を見る者は我を見る者なり
と言われたと伝えられますが、法を生涯かけて残された─それが後にお経となるのですが、そのお経のどこを拝読しても、出てくるのが戒であります。それは、ご自分の生活も戒の通りの生活をされていた、つまり天地宇宙のキマリに順応したものであったということであります。お弟子たちはお師匠である釈尊から教えられるとおり修行してみる。そこでまず生まれるのが「戒」でありました。次に静かに呼吸を整え、意を統一する「定」の境地を会得し、最後に「慧(般若)」─さとりの智慧に到達する─こうしてお弟子たちの日常生活のすべてに釈尊の教え(仏教)が生き生きとかがやく教団が誕生したのです。
この戒と定と慧、これを「戒定慧の三学」といって仏道修行の大目標とし、お弟子たちは大切にしてきました。同時に釈尊の教団に「三帰戒」という基本的な戒もできました。
さとりを開かれた尊者(釈尊)=(仏)
仏の説かれた法門(教え)=(法)
仏のもとの弟子たちの集い=(僧)
この仏法僧の三つを「三宝」=三つの宝ものといただき、その宝に帰依してまいる=この帰依三宝(三帰戒)が一番最初に生まれた戒であります。この三宝帰依はお授戒のお作法の二番目に出てきますので、そのお取り次ぎのときにまた詳しく申します。
この三帰戒の次には五戒があり、これはお聞きになったかもしれません。殺生(ものの命をとる)
偸盗(他人のものを盗む)
邪淫(よこしまな心・行為)
妄語(嘘をつく)
飲酒(お酒を飲む)
この五つです。
それから十戒⑤などがあり、出家者の具足戒(比丘=二百五十戒・比丘尼=三百四十八戒)までいろいろな戒ができましたが、一番分かりやすいのは「七仏通誡の偈」です。それは、
諸々の悪は作すこと莫れ
衆々の善は奉行せよ
自らその意を浄くする
是れ諸仏の教えなり
というものです。悪を止め善を修し、我が心を浄らかにする。これはどんな仏さまでもおっしゃる教えです、と。これは戒の全体に通じる原則です。この原則を元としてさまざまな戒が生まれたと言って間違いないでしょう。インドでも上座部の各部派によって各種の戒が生まれ、やがて長い年月を経て中国に伝えられました。それは伝来し翻訳された経典によって中国に根付いたと言えましょう。例えば鳩摩羅什三蔵⑥は『梵網経』⑦六十一品百二十巻の中、第十地菩薩心地品二巻を翻訳、その上巻では菩薩の位を説き、下巻では菩薩の守るべき十重四十八軽戒が説かれています。『瓔珞経』⑧『遣教経』『持地経』⑨『無量寿経』『法華経』『華厳経』なども皆、何らかの意味において戒と関係のあるお経です。それらは皆大乗の経典ですから、そこに説かれる戒はもちろん大乗戒です。この大乗戒を「円頓戒」と呼び、このたび皆さんがいただかれるのは実にこの戒であります。
円頓の「円」とは「偏(かたよる)」の対句で「完全円満」ということであり、「頓」は漸(ぜん=長い時間を費やす)の反対で「頓極(速やか)」ということです。つまりこの戒を授かれば如何なる衆生も完全円満・しかも頓速に仏位に順同し、身はたとえ穢土にあっても位は聖衆に等しい果報を得るのであります。
ついでにこの円頓戒はいろいろな名称で呼ばれていますので、参考までに挙げておきますと、
円戒
円頓菩薩戒
大乗戒(小乗戒に対して、自他法界に利益を同うし、共に三業を浄化する故に)
大戒
性徳戒(性は性具・仏性=生まれながらに持戒の生活をする力を備えていること)
常住仏性戒
妙戒(不可言・不可説の尊い戒)
金剛宝戒(ダイヤモンドの如く身を荘厳し、人生を美化し、世界の光となるために)
仏戒(仏果を成ずる)
三聚浄戒
このように約十種類ほどの名前で呼ばれる戒ですが、それぞれにこの戒の持つ特質をよく言い表しているように思います。
そしてこの戒法の流れには、二つの系統があります。一つには『梵網経』の相伝、もう一つは『法華経』の相伝です。この二つを系図として示しますと、
梵網相承=本師蓮華台上盧舎那仏―釈尊―阿逸多菩薩―二十余人の菩薩―鳩摩羅什三蔵―南岳慧思⑩―天台智顗⑪―章安―智威―慧威―玄朗―妙楽(荊渓湛然)⑫―道邃―伝教
と伝わって日本に伝来しました。これを「台上相承」とも申します。
法華相承(=霊山会上多宝塔中釈尊より南岳慧思と天台智顗が直授された)という戒系で、以後、
章安―智威―慧威………伝教
と続きます。これを「霊山相承」とも言います。
少しむずかしい話になりました。そこで分かりやすく一口で申しますと、『法華経』に説かれている戒の精神を、『梵網経』で説くところの戒相によっていただく=そのようにご理解くださったら結構かと存じます。法華相承は『法華経』の見宝塔品の説に依るものですが、具体的な戒相は『梵網経』の十重禁戒・四十八軽戒、合わせて五十八戒に依るのであります。
伝教大師最澄は、この戒脈を持って帰国し、比叡山に大乗戒が伝わりました。伝教大師の目標はこの戒による菩薩の養成であり、仏教を大改革しようという理想がありました。菩薩とは「己れを空しくして(慈悲の極まり)他の為に働く人をいう」と言われています。
伝教大師は『山家学生式』、で
国宝とは何ぞや。宝とは道心なり。道心ある人を国宝となす。
古哲の曰く、径寸十枚国宝に非ず。一隅を照らす。これを国宝となす。
と宣言され、円頓戒による菩薩の出現を期待されました。ここにこの戒が日本人の道徳としての地位を確立したと申せるのであります。
伝教大師から法然上人に至る戒の系譜は、
伝教大師―慈覚大師―長意和上―慈念僧正―慈忍僧正―源心―禅仁阿闍梨―良忍上人―叡空上人―法然上人
と続きます。
このようにして浄土宗に伝わった円頓戒は伝々相承して今日に及び、只今は皆さま方にお伝えすることになりました。それはこのお授戒会の最終日に、「正授戒」という儀式を通じてお授けするのですが、さかのぼれば釈迦牟尼如来にいたる戒の真髄をこの身にいただくことは、まことに有り難いことであります。
その儀式は「十二門戒儀」または「授菩薩戒儀」とも呼ばれる作法をもって伝えられます。只今から以後はその解説のお話としてお聞きください。この解説なしで急に、突然に「正授戒」の席に着かれましても「よく分からなかった」という結果になろうかと思います。ですからこの数日は前行と申して、田植え前にはその準備をするように、大切なご修行の期間と思し召して、精々ご精進をくださいますようお願いいたします。
さて、先ほど申しました「十二門戒儀」の基礎的な順序立ては南岳慧思が手掛けてくだされ、次の天台智顗が『梵網菩薩戒経義疏』⑬二巻を著して円頓戒の思想を確立されたのです。すなわち上巻の冒頭では勧門(もろもろの善を奉行せよ)や誡門(もろもろの悪を作すことなかれ)について説き起こし、「戒の
古徳及び梵網・瓔珞・地持 並びに高昌等の文に依って菩薩戒を授ける行事の儀、略して十二門と為す。
とあり、湛然が『梵網経』『瓔珞経』『地持経』といった経本や古徳の説に依って十二の項目を立てた戒儀をお作りになったことを知るのであります。その十二の門・項目とはお手もとのテキストにありますように、
第一 開導
第二 三帰
第三 請師
第四 懺悔
第五 発心
第六 間遮
第七 授戒
第八 証明
第九 現相
第十 説相
第十一 広願
第十二 勧持
と、この十二門であります。
この順序でお話を進めるのが本義ですが、まず最初に肝心要(かなめ)の戒のお話、ここで言えば第七正授戒のところからお取り次ぎをしたいと思います。
『梵網菩薩戒経』に、
大衆心に諦らかに信ぜよ、汝は是れ当成の仏なり、
我は是れ已成の仏なり。
とございます。
み仏は已にさとりを開かれたご存在ですが、我々はまだまだ迷いの多い凡夫です。しかし生まれながらに持ち合わせている仏性に気付いて磨き上げたら、やがては仏とも菩薩とも成らせていただくことができます。今迷っているのは無明(愚痴)ゆえの姿で、鉄の錆のようなものです。この錆を「戒法」という砥石で磨くのです。砥石や磨き粉で錆を取る─無明煩悩の錆を取り、具縛の凡夫が無垢真如の輝きを頂戴するのです。
「我は是れ已成の仏なり」。これは釈尊が成仏され、さとられたことを言います。さとるとは真理に気付いた自覚です。大いなるものに生かされていることに目覚めると申してもよいでしょう。例えば呼吸=息をするということです。鼻や口や肺という器官があって呼吸していることは事実です。しかしそういう器官・機能を頂戴していることも有り難いが、空気がなければ呼吸はできません。この空気はどこから来るのでしょうか。部屋の中でも地下鉄、地下街でも、どこにいても空気のお陰で息をしています。空気の製造所はどこにあるのか。一円のお金も払わずに空気を頂戴しているのです。科学的にはいろいろと解明し説明できるでしょうが、宗教的にはあらゆるものを生かさんがための大いなる計らい・情けと受け取ってまいります。自然とは、まさに自ら然らしむる力であり、たとえ物質的に空気と呼ぼうとも、精神的にはそれを「法」の然らしむるところと気付かせていただくことが尊いのです。ですから「法」は自然とも申せます。別の譬えで言えば引力もそうです。引力がなければ少しの間も立っておれません。しかし引力は誰かが作ったものではありません。ニュートンが発見して引力と命名したけれど、発見しない前から備わっていたのです。百花・百鳥、さまざまな名前を付けたのも皆、人間の計らいです。かように今日の文化万般にわたって、文化の方法は人間が研究したが、その原動力は元から備わっていた=その「法」にはキマリがある。そのキマリとは今日の言葉で言えば「大調和」ですし、仏教的に言えば「涅槃寂静」の世界と言ってもよいと思います。すなわち春の次が夏、夜の次が昼、煙は上へのぼり、水は低きに流れ、椿は冬から咲き、桜は春に咲く。それぞれのキマリの中に争いのないのが自然であり、それがまた戒法の心でもあります。西洋の人々はこの自然を敵と見てきた面がありますが、東洋人の歴史には自然と調和した暮らしを好む面があります。私たち日本人の心の中にも知らず知らずの間に、この大調和のキマリを受け入れる素地があるように思えてなりません。しかし最近は殺人や詐欺など、憂うべき事件が多発していることも事実です。悲しいことですが、我が身を誇り、財に頼り、力を過信し、学歴を振り回し、してはならないことをする族もないことはありません。
前節でも申したとおり、今こそ戒法に目覚め、軌道(レール)を踏み外さず、正しい理(コトワリ)の中に調和のある人格が求められています。この大乗仏教相応の日本で、大乗戒法の花の芽を、皆さんお一人お一人の心の中にしっかり育ててくださいますようお願いいたします。それがまた、とりもなおさず、戒法を浄土宗に根付かせてくださった法然上人に対する一番の報恩行であります。
*同称十念