第2章◎ 説戒
説戒実例
1.序説 「戒はレールなり」
*同称十念
*開経偈
このたびは、この尊いお授戒の道場にお申し込みをいただき、早朝よりご参集くださいまして有り難く存じます。しばらくお身体を楽にしてお聞きくださいませ。
この中には、すでに五重相伝をお受けになられたお方もおられましょうし、また、まだお受けでない方もおられることと思います。五重を受けられたお方は、こうした道場の雰囲気も体験済みで、ある程度慣れていらっしゃいますが、今回初めてのお方はいささか窮屈に思われるかも知れません。しかしそれも今日半日も経ちますと、大体の要領を会得していただけると思いますのでよろしくお願いいたします。
今、五重相伝ということを申しましたが、よく「このお授戒と五重相伝と、どちらを先に受けるのが正しいのですか」と尋ねられることがあります。これはご縁に導かれてお受けになるのですから、正しい・誤りの問題ではありません。「随縁」という言葉があるとおり、縁に随って今ここにいらっしゃるわけです。ご縁が整わないと、ここにお座りにはなっていません。どれほどお授戒を希望され、お待ちになっておられた方でも、この時期にもし病気で入院されていたらお受けになれません。家族に重病人がおられても受けにくいでしょう。それに加えて四、五日間という、この別行中の日を空け、ご用を差し繰ってのご入行ですから、正にご縁が整ったと言う以外ありません。私たちはこれを「仏縁」といただき、「縁に随う」だけでなく、「縁を喜ぶ」心を持ちたいものです。この仏縁を喜べば、今回のお授戒からきっと実り多い宝を得ることができると信じて疑いません。
さて、先ほど申した五重相伝との関連ですが、法然上人の場合はお授戒が先でした。法然上人は十五歳の久安三年十一月八日に、皇圓阿闍梨①をお師匠さまとして出家得度されました。昔はその節に登壇授戒という戒を受けました。比叡山には八世紀に伝教大師②が中国から伝えた菩薩戒がありましたから、法然上人も当然その戒をお受けになったことでしょう。
殊(こと)に十八歳で隠遁された西塔黒谷では、円頓菩薩戒の権威者である叡空上人③のお弟子となられたのですから、戒の精髄は十二分にいただかれたわけであります。
ここで少し、授戒と五重相伝の関わりについてお話ししておきたいと思います。浄土宗にとりましては、両者どちらも大切なものです。授戒は言わば仏教道徳の世界であり、五重相伝は純粋な宗教の世界、阿弥陀仏の他力・お念仏による救いをお伝えするものです。この二つは車の両輪のようなものです。浄土宗は五重相伝だけで充分だという受け取り方もありましょうが、仏弟子としての基本である戒の精神をしっかり味わってみることがまず必要であると信じます。私たちの大先達のある高僧が、次のように教えてくださいました。
お念仏は三度の食事で栄養をいただくようなもの
戒を受けることは、お薬をいただいて病を治すようなもの
と。なるほどなぁ、と思いました。法然上人は日に何万遍ものお念仏を申される毎日でした。まさにお念仏は上人にとって生きていく力であり、わが精神をいつも新陳代謝してくれる滋養そのものであったことでしょう。その一方でまた上人は、ご自身のありようについては常にきびしい内省・懺悔の念で一貫されました。
このことは上人の残された数々のお言葉から明らかです。十悪の法然・愚痴の法然などと、法然上人のご法語からは五十余の種類のそうしたお言葉を拾い出すことができます。言わば凡夫の自覚です。上人のような志操堅固にして人格円満なお方がそうおっしゃるのですから、われわれ愚昧の者は推して知るべしです。
お念仏をとなえさせていただく身ながら、煩悩妄念を止め得ぬ私―そんな私がこの度はお授戒を受けるのです。戒ですから当然のことに「故(ことさら)にものの命を取ることなかれ」とか「与えられざるものを盗むことなかれ」といった戒めの数々を授かります。詳しくは後に触れてまいりますが、それらは人間として踏み行わねばならない「道」です。その道を正しく渡っていけば良いのですが、悲しいことに凡夫はしばしば道を踏みはずします。その時に戒を受けた者は、すぐに自分の愚かさに気付き、懺悔とともに正道に戻らせていただける。そこのところを、お薬をいただく姿に喩えて教えてくださったのだと思うのです。
尊い戒のこころをいただきますと、私たち凡夫は本当に懺悔することばかりです。その懺悔がホンモノであれば、自然とまたお念仏が進みます。戒というお薬と、お念仏という栄養が一つになって、浄土宗の信者のお方にはすばらしい信仰生活を送っていただける、そのように信じて疑いません。
大変前置きが長くなりましたが、お手元にお配りしてある「授戒の栞(しおり)」をご覧ください。最初のほうに『梵網菩薩戒経』の偈頌の一節を載せておきました。それをご一緒にお読みいただきたいと思います。ご正座ください。
つつしんで拝読し奉る
『梵網菩薩戒経』に曰く
(同音)
衆生仏戒を受けぬれば
即ち諸仏の位に入る
位大覚に同じ已りなば
真に是れ諸仏のみ子なり と 十念
有り難うございました。これから毎朝一席目にこのご文をご一緒に読ませていただきます。
どうぞご安座ください。
さて、ただいま拝読しましたのは『梵網菩薩戒経』に説かれている一節です。皆さま方がこの戒をお受けになると、諸仏の位―つまり仏さまと同じ位に就くことになる。これはちょっと大層な言い方ですが、少なくとも菩薩の位をいただくことになります。菩薩と言えば観音菩薩とか勢至菩薩、地蔵菩薩と同列ということです。はなはだ恐れ多いことですが、観音菩薩のような尊いお方と同列とはどういうことでしょうか。菩薩とは梵語で「ボディサトゥーバ」=「只今修行中」ということです。観音さまや勢至さまは、もうご修行も充分になされて「仏」の位に就かれても良いのですが、なお修行中の姿で娑婆に留まり、親しく我々凡夫と交じって導いてくださっているのです。地蔵菩薩などはその典型的なお方で、僧形で村の辻に立って私どもを見守っていてくださるのですから有り難いことであります。
そして「真に是れ諸仏のみ子なり」とあったように、仏さまの愛し子にしてくださるのですから、これ以上の喜びはありません。み仏さまを親に持てば私たちの名前も変わります。男性のお方は「善男子」、女性のお方は「善女人」となります。名前が変われば心も変わります。名前によって新しい自覚が生まれます。「私は善男子なんだ。み仏の子どもと生まれ変わったのだ」という自覚があれば、悪いことには近付きにくくなります。これほどの果報を受けるのですから、このご縁を喜んで精一杯のご精進をお願いするところであります。
このように、仏さまの子どもとして生まれ変わった私たちは、親さまの教えをしっかり聞き確かに実行しなくてはなりません。そのことをいつも忘れないようにと、先ほどお話の冒頭に「開経偈」というご文を読みました。
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
「無上甚深微妙法」とは、み仏のお説きになった法(み教え)ということです。限りなく深い意味を持ったみ教えです。そのみ教えには百千万劫にも遭い遇うことは難しい。百千万劫とは想像を絶する永い時間のことですが、よほどのご縁が結ばれないとみ仏の教えに遭うことはできないものです。しかるに私は今、幸いなことに「見聞し受持することを得たり」、つまり「この身にしかと聴聞することができました。どうぞ如来さまのまことのみ
そして大切なことは「法」「仏法」ということです。この「法」とは何か、どこに示されているのかというと、それは「お経さま」に示されています。お釈迦さま一代にお説きになった法はすべてお経となって今、私たちが拝読するところですが、実はその法が、今皆さんがお受けなさる「戒」そのものなのであります。ですからお経を開けば、どこをいただいても「戒」の心が説かれています。「戒」の精神が溢れているのです。
つまり戒とは「法」であり、「
理とは天地のコトワリで、人のふみ行うべき道です。すじみち・条理・道理です。それに反するのを「無理」と言います。無理ではいけません。
道もまた、人の守るべき物事の筋道・道義ということです。それが守られないと「非道」です。「
法というのも同じでオキテ・キマリ。人としての間違いのない道を教えてくださっています。ですから理屈に合わないことを「法外」なことと非難します。「無法・滅法」という言葉も法に反したときに使うことは、ご承知のとおりであります。
このように戒が法であり、理であり、道であるということは、決して難しい問題ではなく、人として当り前のことをするという、それに尽きるのであります。戒は梵語でシーラ(尸羅)と言い、仏教の教団に入った者が守らねばならない基本的な倫理のことです。つまりは道徳的な生活態度をもって修行しなさい、という教えです。このことについて黒川立道④上人は『真葛傳語』の「円頓戒口訣」で「戒は仏門の通軌である」と言われました。軌は道という意味です。電車の通るレールを敷いた道を軌道と言いますが、電車の通る道もあれば、人間の通る道もあります。軌道から外れると電車は脱線・転覆しますし、我々も仏門の軌道である戒法の通り生活しなければ仏さまの教えに背きます。逆に言えば、戒法という軌道の上を進めば、善男子・善女人として間違いのない人生を全うすることができるのです。ですから私は「戒はレールですよ」と申し上げるのです。み仏さまが用意してくださった「レール」を踏み外すと転落します。それは大臣でも博士でも転落します。大勲位の勲章を頂くようなお方でも同じです。道のすぐ側には溝がありますが、一歩踏み外すと溝に落ちるのです。偉いお方、賢いお方、立派なお方、ヤリ手と言われたお方がアッと言う間に転落するのは残念なことであります。
ただし、戒の道はレールのように目に見えるものではありません。目には見えないけれども、この道は存在します。船舶が航海する時も、海の上にレールがあるわけではないが、瀬戸内海を東へゆく船、西へゆく船が左右に分かれて事故が起きません。それは目に見えない軌道があるからです。空を飛ぶ飛行機の航行も同様です。それどころか夜空に輝くあの星たちも、整然とした軌道に沿って運行しています。それが星たちの道であり、天地のコトワリ(理)です。それをまた法と呼んでも間違いではありません。このコトワリを習うのが授戒です。この道を踏み外さないようにすることが大切なのです。そして、その道・法・理に今、出逢っているのです。先ほどは「開経偈」を例に「我」と「今」のお話をしましたが、もう一つ「ここで」ということにも触れたいと思います。つまり、この私が、今、ここで、み仏にお出逢いする機会に恵まれ、戒法を直授されるのです。そういう姿を昔から、
面前の直授
面見
面授口訣
面授嗣法
などといった言葉で表現してきましたが、つまりは全身全霊で戒法を授かり、我がものとさせていただくのです。
人身受け難し 今既に受く
仏法聞き難し 今ここに聞く
この身今生において度せずんば
更に何れの生においてかこの身を度せん
至心に三宝に帰依したてまつる
今いただいているこの命、この生涯に一度しかない一期一会の授戒で菩薩の位を頂戴するのですから、これ以上の幸せはありません。ただし菩薩さまは、自分だけ救われたらよい、私だけが幸せならよい、というわけにはまいりません。自利利他といって、自利は自分が救われることですが、利他、つまり人さまも共どもに救われることに尽くすのです。利他が伴って初めて菩薩さまですが、これについてはまた後に申し上げる機会がございます。
それからもう一つ、戒と律についてお話しをしておきます。先ほどから法とか道とか申しましたが、それは天地のキマリ・コトワリということでした。そしてその法が実は戒にほかならないのです。私たちは毎日、この戒法にお出逢いをして暮らしているのですが、それに気付く人もあれば、気付かずにいる人もあります。お授戒というのは、天地の間に具わっているこの戒法に気付かせていただくことであります。戒法を受けたら自然に正しさと邪(よこしま)とを判断し、善悪を区別し、まっすぐと
この三蔵のうち、戒は経蔵に属します。戒律と一口に申しますから、戒と律が一緒に重なりあって両者とも律蔵に属するように理解されがちですが、別ものなのです。律は梵語で「ビナヤ」と言い、調伏とも訳されてなかなか厳しいものです。この律は戒法と違って他律的に規制されるもので、違反すれば教団追放の処罰を受けることにもなりかねません。時間の都合で律についてのこれ以上の詳しい説明は省略いたします。
*同称十念