第1章◎ 学問的・歴史的視点から
  インドにおける大乗菩薩戒の展開

 
 
大正大学浄土宗学監 小澤 憲珠

1.初期大乗仏教の菩薩戒

(ⅰ)戒波羅蜜と十善道

  まず初期大乗仏教を代表する『大品だいぼん般若経』巻五、問乗品の次の経文を紹介いたします。

云何いかん尸羅しら波羅蜜と名づくるや。須菩提よ、菩薩摩訶薩は薩婆若さつばにゃ(一切智)に応ずる心をもって、自ら十善道を行じ、また他に十善道を行ずることを教う。無所得をもっての故に。これを菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜と名づく。

この経文が何を意味しているのかといえば、端的に菩薩の戒(尸羅、シーラ)波羅蜜の内容は具体的には十善道であることを指し示しています。いうまでもなく大乗仏教の主役は菩薩です。したがってその菩薩が受持して実践すべきものが大乗菩薩戒になります。それがここでは十善道として示されています。『大品般若経』の問乗品は、その菩薩が乗り込んで菩薩の道を歩む大きな乗り物、すなわち大乗が説かれるのです。そしてその菩薩の大乗が、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜として示されます。まさに六波羅蜜は大乗仏教の菩薩の大きな乗り物なのです。その六波羅蜜の第二が戒波羅蜜ですが、その内容が前述の経文として示されるのです。

菩薩は自らが十善道を実践し、また他人に対しては十善道の実践を教えるのです。つまり自利行として、また利他行としても十善道を実践することが戒波羅蜜の内容として説かれています。まさに菩薩の大乗(大きな乗り物)としての戒波羅蜜が十善道ということになります。十善道は十善戒ともいい、初期仏教のころより十善業道ともよばれ、十善の行為によって善業が成立し、その善業が通る道といわれます。

それでは十善道とは具体的には何かといえば、『大品般若経』にはその十善道の各名目が出ないので、より成立の古い『小品しょうぼん般若経』巻六、阿惟越致相品あゆいおっちそうぼんによれば、

また次に須菩提よ、阿惟越致の菩薩は、自ら殺生せず、他に教えて殺生せず、自ら偸劫ちゅうこうせず、邪婬せず、妄語せず、両舌せず、悪口せず、無益語せず、貪嫉せず、瞋悩せず、邪見せず、また他に教えて邪見を行ぜしめず。この十善道、身に常に自ら行じ、また他に教えて行ず。この菩薩ないし夢中にも十不善道を行ぜず、ないし夢中にもまたつねに十善道を行ず。須菩提よ、阿惟越致の菩薩は、この相貌をもって、まさにこれ阿惟越致の菩薩なりと知るべし。

とあります。阿惟越致とは不退転のことで、不退転の菩薩は般若経が説く理想的な菩薩です。そしてここに十善道とは、不殺生、不偸劫(盗)、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不無益語、不貪嫉、不瞋悩、不邪見の十であることがわかります。


(ⅱ)十善道は在家戒か

 ところで初期仏教以来、教団の構成員に適用される戒は、出家者であれば基本的には律蔵に説かれる具足戒ぐそくかいです。例えば『四分律』によれば、男性の出家者である比丘は二百五十戒、女性の出家者である比丘尼は三百四十八戒です。具足戒は一人前の出家者が受持するべき戒であって、伝統的な既成教団の出家戒であり、大乗戒に対して声聞戒しょうもんかい、さらには後世は小乗戒とも称したことがあります。また在家の信者は男女ともに不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒の五戒を守ります。

 それでは菩薩の十善道は在家戒なのでしょうか、出家戒なのでしょうか。

 大乗仏教では菩薩は在家でも出家でもよかったので、その両様の菩薩の存在が想定されます。大乗仏教は紀元前後から次第に盛んになりましたが、初期においては菩薩の教団はいまだ存在しませんでした。したがって菩薩のための律蔵もなかったのです。また『小品般若経』をはじめとする初期の大乗の経典は、大概において在家出家を区別することなく菩薩とは何か、またそのあり方を、大乗仏教の理念を説いています。戒波羅蜜についても、菩薩の戒波羅蜜として説かれただけで、在家出家の区別はしていません。

 しかし戒波羅蜜の内容である十善道には「不邪婬」があります。不邪婬以外の九の善道は在家出家に共通に適用されますが、不邪婬は在家戒です。在家の菩薩は当然ながら通常の社会生活や婚姻も認められますから、不邪婬は夫婦生活を逸脱する男女の行為を誡めるのです。これに対して出家の菩薩は不邪婬ではなく不婬です。この観点に立てば、十善道は不邪婬を含むので在家戒といえますが、不邪婬を不婬とすれば出家戒にもなりうるのです。

また『小品般若経』には六斎日が説かれます。それは月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日の六日であって、在家者はこの日に限っては出家に近い生活を送るのです。つまり不邪婬にかわって不婬を守り、午前中のみの食事とし、歌舞音曲等を離れ、高床のベッドで寝ないのです。出家の菩薩を見習うのです。

 さらに梵行ぼんぎょう(ブラフマ・チャルヤー)という言葉もあります。これは出家者の断婬行のことです。したがって『小品般若経』にも出家菩薩の存在をうかがうことはできるのです。

 さらに『大品般若経』になると、在家の菩薩、出家の菩薩という用語が出てきます。さらには具足戒、律儀戒という用語も見受けられます。つまり出家菩薩の教団の存在を示唆しているともいえます。また十二の頭陀行ずだぎょうも説かれます。これは阿蘭若あらんにゃ、常乞食、納衣、一坐食、節量食、中後不飲漿、塚間住、樹下住、露地住、常坐不臥、次第乞食、但三衣の十二です。森林等の寂静処(阿蘭若)、墓地(塚間)、樹下等をすみかとし、食事は乞食のみで、糞掃衣ふんぞうえを身にまとうもので、出家者のみが可能な行です。頭陀(ドゥータ)には煩悩の垢を振り払うという意味があります。

 このように『大品般若経』には出家の要素が多々見られるのですが、経典自体は在家と出家を区別して般若波羅蜜の教えを説くことはなく、戒という立場からは十善道を基本としているのです。


(ⅲ)『大智度論』の理解

 それではインド大乗仏教の大論師として知られる竜樹りゅうじゅ(ナーガールジュナ、一五〇─二五〇頃)はどのように見ていたのでしょうか。竜樹は『大品般若経』を注釈した『大智度論だいちどろん』を著しています。『大品般若経』は前述のように菩薩の戒波羅蜜の内容を十善道と説いたのですが、『大智度論』巻四十六には、戒波羅蜜には一切の戒法が含まれるはずなのに、どうして十善道だけを説くのかとの設問があります。その答えとして、

仏は総相にて六波羅蜜を説けり。十善を総相戒と為し、別相に無量の戒有り。不飲酒、不過中食は不貪の中に入り、杖不加衆生業は不瞋の中に入り、余道は義に随って相従うなり。戒は身業と口業に名づく。七業道の所摂なり。

とあります。

 この中にいくつかの見解が示されています。一つには、十善道は総相として説くのであって、実際の戒波羅蜜には無量の戒が含まれている。二つには、戒は身業と口業のものをいうのであって、不殺生ないし無益語の七業道が戒である。三つには、十善道の中の不貪嫉、不瞋悩、不邪見は意業であって、この三善道は貪・瞋・痴の三毒に正反するもので、ここから無量の戒が実際に派生する。以上のような理解が汲み取れると思います。また「十善道を説けば則ち一切戒を摂す」ともあります。

 また『大智度論』巻十三は、『大品般若経』が説く戒波羅蜜を詳しく解説しています。ここに注目されるのは、在家と出家の菩薩を区別して戒を説いていることです。

 まず在家(居家、白衣とも)に対しては、初期仏教以来の信者が守る五戒です。つまり不殺生、不与取、不邪婬、不妄語、不飲酒の五戒に、さらに六斎日には、殺生、不与取、不邪婬、不妄語、不飲酒の五戒に、高床のベッドに寝ない、アクセサリーや香水をつけない、歌舞音曲から離れる、の三戒を加えた八戒を守ること、またこれに不過中食(正午を過ぎて食事をしない)が加わることがあります。まさに六斎日のそれぞれの一日一夜を出家に近い生活を送り、懺悔をするのです。

 このように見ると、在家菩薩の戒は通常の在家信者と同様であることがわかります。しかし『大智度論』は在家の持戒には、下人の持戒(今世の楽のため)、中人の持戒(後世の楽のため)、上人の持戒(涅槃のため)、上上人の持戒(仏道のため)の四種の区別があることを説いています。この中、前二者は在家信者としての持戒で、後の二者は在家のままでさとりを目的とした持戒です。

 つまり同じ五戒の受持でも、その目的によって差別が生ずるので、特に最後の上上人の持戒は、

衆生を憐愍し、仏道の為の故に、諸法を知り実相を求めるをもっての故、悪道を畏れず、楽を求めざる故なり。

と説明されますから、輪廻をも畏れずに菩薩道を実践するための持戒です。すなわちこれが在家の菩薩の持戒ということになります。

 次に出家の菩薩ですが、出家の律儀に四種ありとして、沙弥しゃみ沙弥尼しゃみに式叉摩那しきしゃまな、比丘、比丘尼とあります。これらの名目は伝統的な出家教団の構成員であり、いわゆる声聞戒と同様の律儀戒が大乗仏教の出家菩薩にも適用されたことが予想されます。ちなみに未成年の男女の見習い僧が沙弥と沙弥尼で十戒です。式叉摩那は比丘尼になる前の二年間で、六法です。比丘と比丘尼は二十歳以上の男女の大僧で、具足戒が適用されます。なお、具足戒、十戒、六法の具体的な内容説明は省略させていただきます。

 『大智度論』は以上のように十善道を基軸にしながら、その一方で在家者の五戒と出家者の具足戒等のすべてを菩薩の戒波羅蜜の具体的内容として説いています。大乗仏教では、在家でも出家でも、男女を問わず、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい (最高の正しいさとり、ブッダと同等のさとり)に発心したものはすべて菩薩であることが基本的な理念になってます。しかし時代とともに在家者よりも出家者の優位性が強調されるようになるのです。『大智度論』は在家者の四種の持戒(下人、中人、上人、上上人)に続いて、次のような設問があります。在家者の持戒でも菩薩道が可能であり、また涅槃に至ることができるのであれば、出家戒は不必要なのではないかと。この問いに対して、在家者にはそれぞれの家業があり、仏道に専念すれば家業が廃れてしまい、また家業に精を出せば仏道が疎かになり、いずれにしても在家の菩薩では結果を出すことは難しいのだといっています。


 

(ⅳ)『十住毘婆沙論』の説

 竜樹はまた『十地経』の注釈書である『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』十七巻を著しています。全三十五章のうち、第九章の易行品は「信の方便」という易行によって菩薩の不退転が得られることを説き、後世の浄土教に大きな影響を与えました。この書の主旨は、『十地経』をふまえながら、菩薩は輪廻の苦をいとい恐れることなく長劫にわたって利他行を実践し菩薩道を歩み、そして十地を全うして仏果にいたるべきことを説くのです。その上で前半では在家菩薩の行法が説かれ、後半では出家菩薩の行法が説かれます。ちなみに易行品の内容も在家菩薩の行法になります。

 さてそれでは、在家と出家の両菩薩が受持する菩薩戒は何なのでしょうか。

 まず在家の菩薩ですが、主に『郁迦いくが長者経』をより所に、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒の五戒が基本として説かれます。ちなみに郁迦長者とは郁迦という名の在家の菩薩です。この五戒の受持が日常の規範になりますが、月の六斎日には出家に近い八斎戒を守るのです。これについては『大智度論』等に示されたことと同様です。

 さらにこの六斎日には自宅にいるのではなく、塔寺に詣でて出家の菩薩に坐禅や経典を学ぶべきであると説いています。この塔寺というのは、ストゥーパ(仏塔)もしくはヴィハーラ(精舎)のことですが、在家者が参拝し、出家の菩薩が止住する場所です。出家の菩薩とは比丘ですが、様々なタイプの比丘がこの塔寺にはいたようです。たとえば説法が得意なもの、経律論の三蔵の専門家、頭陀行を得意とするもの等々です。そして在家者は彼らに布施行によって物質的な援助をし、教えを習うのです。

 つぎに出家の菩薩に対しては、『十地経』が説く十善道を示しながら基本的には頭陀行です。頭陀行は『大品般若経』にも説かれましたが、衣については、糞掃衣三衣、食については、常乞食で午前のみの食事、住については、静寂な森林、塚間(墓地)、露地、樹下などが基本です。まさに初期仏教の出家者と同様の生活スタイルです。

 しかしながら出家者は頭陀行を基本としながらも、前述の塔寺に止住する場合があります。出家者といえども病気になって体調を崩すこともあれば、また高齢になれば頭陀行は困難になります。「解頭陀品」には出家の菩薩がどのような場合に塔寺に来至するかを十通りに述べています。