「共生」と仏教思想
この「共生」の思想を仏教の中に見てみると、仏教の根本思想である「縁起」に由来することは、これまで多くの研究者によって指摘されてきた。この縁起の思想に、中国初唐の浄土教思想家であった善導大師(六一三―六八一)の「願共諸衆生往生安楽国─願わくは諸の衆生と共に安楽国に往生せん」(『往生礼讃』)の偈文、および源信(九四二─一〇一七)が『往生要集』において述べた「共生極楽成仏道─共に極楽に生じて仏道を成ぜん」(四弘誓願)を法然上人(一一三三─一二一二)が結び付けて、浄土宗を開いたことによって、共生の思想をわが国に根づかせたのである。
「共生」を「きょうせい」と発音するのは漢音、仏教読みは「ぐしょう」、訓読みは「ともいき」である。
この思想を在家仏教運動として大正期に共生会を組織し、共生思想を提唱・展開したのは椎尾弁匡師(一八七六─一九七一)である。椎尾弁匡師は愛知県の真宗高田派の寺に生まれ、浄土宗で出家、一高から東京帝国大学に進み宗教学の姉崎正治の門下生として学んだ。その活動は実に多岐にわたっている。
第一に浄土宗の僧侶であり、研究者であり、教育者であり、事業家であり、政治家であり、組織者であり、仏道の実践家であり、在家信仰運動の師表でもあった。一二〇におよぶ著述があり、著書は『椎尾辨匡選集』全十巻(山喜房仏書林刊)に収められているが、そのうち三十数編の仏教学術書を除くと、その大半は宗教思想の啓蒙書と信仰書で占められている。宗教は必ず社会的なものでなくてはならないと考え、大正期における第一次世界大戦後の社会不安・思想界の混乱、そして第二次世界大戦の戦中・戦後の激動期を背景にして一大国民覚醒運動を展開した。それが「共生会」という信仰運動で、「共生」という言葉は、環境問題が契機になって、今や現代思想をとらえるキーワードの一つになっているが、共棲という生物学的意味で用いられていた用語に初めて宗教哲学的意味内容を与えて唱導したのは椎尾師であったと言える。
大正十四年の『共生講壇』の「序講・共生の主張」には、次のように述べている。
仏教は無我の根底に立ち縁起の実相を主張いたします。すべてに個在の孤立を認めません。一切は縁によってできあがりてゆくのであります。誰人といえども一個人として独存すべきものではありません。この肉体が衆縁の合成であるように、その存続もまた衆縁の力であります。縁に遠近の差別こそあれ、全法界をあげて一切が相依相関でないものはありません。すべては協同であり、共生であり、社会のおかげであります。 | |
(『椎尾辨匡選集』第九・七頁) |
共生とは先に述べたように、善導大師の『往生礼讚』の一節「願わくは諸の衆生と共に安楽国往生せん」からとられて名付けられたが、仏教の根本思想である縁起の教えを社会の中に活かす信仰運動、浄土宗の信仰運動として展開した。
共生会は師の次の三首の和歌にその思想が端的に表れていると思われる。
ひといきも くさきのいきと ともなれば このみさながら あめつちひろし |
第一首の和歌は、共生会のバイブルともいうべき『共生教本』に見られる標語で、人は呼吸をして生きており、呼吸が止まれば死を迎えることになる。呼吸によって人は酸素を吸収し、炭酸ガスを吐き出し、その炭酸ガスを草や木が吸収して、酸素を吐き出してくれる。そこにこそ自然と人間との共生の原点が見られるという、まさに「共生」思想を一首で表している和歌の一つで、人間がありのままの本来の在り方に目覚めるべきことを宣言する。