「これからの布教教化」を巡って

 浄土宗と言わず、もっと広い視野に立った場合、現代の仏教界の状況は必ずしも楽観視できるものではない。

 第一に、すでに述べたように、寺ないし住職と檀信徒との間の信頼関係の欠如が挙げられよう。「葬式仏教」という言葉がなによりもこのことを指し示している。寺の経営については従来営まれてきた通りのことを踏襲的に行っていればそれでよしとする態度に表れている。お盆の習俗に端的に現れているが、最近の統計数値が語るように、住職に挨拶せずに自分のお墓だけにお参りして帰る檀信徒がいかに多いかが判る。お布施にしても「住職にふんだくられた」という檀信徒の愚痴を聞くだけでも、寺と檀信徒との信頼関係が崩れていることを窺わせる。一刻も早く信頼関係の再生に努力を怠ってはならない。

 第二に、教化力の欠如を挙げねばなるまい。「僧侶になる」決意に戻ることが肝要であろう。本稿の表題は「灯しびを継ぐ」である。法灯を継ぐとは宗祖法然上人が浄土宗を開かれたプロセスを知ることにある。これまで刊行された『布教羅針盤』(1)~(4)を是非参考にして貰いたい。

 第三、に変化に即応することである。明治五年の一片の太政官布告「肉食蓄髪勝手たるべし」によって僧侶の生活は一変した。僧侶が結婚するようになり、大正中期に二世の出現となり寺院は一部を除いて世襲制になった。それに付随して僧侶が「仲人」を引き受けることになった。

 第四に、前項の変化は寺院の私有化をもたらしたが、寺院は本来宗教法人である。宗教法人には特典がある。それはその活動には「無税」ということであり、その特典の根拠は寺院のもつ「公共性」にある。「公共性」とは何かを、「師資相承」の際に考えた僧侶は何人いるか、ということである。

 第五に、「師資相承」の際に「血脈」、なかでも「戒脈」を受けたことを思い起こしていただきたい。毎日お唱えする「日常勤行式」の終わりの部分に「四弘誓願」がある。「四弘誓願」は、冒頭に「衆生は無辺なれども、誓って度せんことを」(「衆生無辺誓願度」)を唱え、後の三句はそのために煩悩を断じ、法門を学び、仏道を成ずることを誓うのである。前半は「利他」であり、後半は「自利」と言い換えてもよい。まず「利地」を第一に掲げ、それを完遂するために「自利」があるのであり、それが「代受苦」の思想になっていく。言うならば、「代受苦」とは、「衆生の苦」を「自らの苦」と受け止めて救済を志す菩薩の慈悲心に基づく行為のことである。

 このように、法話を「師資相承」ないし「灯しびを継ぐ」の意義を巡って行うことは、このシリーズで『勅伝』を扱ってきた『布教羅針盤』の締めくくりになる。

 本稿に執筆の「念仏生活との関わり」の三師は布教師会からのものである。北陸地区支部の泉清孝師は法然上人と弟子(門下)との関わりを特に教学的な一念義などの異安心問題を含みながら総論的に説き、東北地区支部の東谷信昭師は源智上人について「一枚起請文」や「玉桂寺阿弥陀如来像」などのエピソードを交えて説き、九州地区支部の山𥔎龍道師は二祖の聖光上人を取り上げて主著『末代念仏授手印』を中心に説いている。

 このように、法話は『勅伝』の中に記述された弟子一人を取り上げても構わないし、『勅伝』を表題にしても構わない。要は教化力を駆使して檀信徒との信頼関係の回復に努めるに越したことはないと考えたい。

 概して宗教は社会変動を従属変数としてきた。社会変動が大きければ大きいほど宗教は変わっていかねばなるまい。これと共に、宗教は独立変数とならねばならない。すなわち、社会変動を宗教の従属変数とするにはどんな努力をしなければならないか。現代は宗教の在り方を考えるべき時ではないかと思いたい。その目的のために一歩一歩着実に進めていきたい。