法然上人の弟子・帰依者

 法蓮房信空や西仙房心寂は、叡空の没後に法然上人の弟子となっている。また承安元年(一一七一)、上人三十九歳のときに真観房感西が弟子入りしている。さらに上人が醍醐に寛雅を訪ねたとき同道した阿性(証)房印西や、遊蓮房円照など、いろいろな階層の人たちが弟子入りしたり、帰依者となって法談に耳を傾け、称名の声によって法然上人の身辺が活気づき、他宗の僧侶以下皇族・貴族・武士らと道交が深まり、上人の令名を高めた「大原談義」や東大寺での「三部経講説」を境としてそれ以降のことである。

 こうして帰依した人々について『勅伝』の注釈書として知られる『円光大師行状画図翼賛』六十巻(円智述・義山重修、浄全一六所収)には、『勅伝』に載せられた人物を整理し、第九巻以後に記述している。総勢一〇三人の名が挙げられている。なお、『勅伝』は最後に上人の門弟らを第四三から四八巻に至るまで詳細に論じている。第四三巻には法蓮房信空、西仙房心寂、正信房湛空、播磨国朝日山の信寂房、醍醐の乗願房宗源、第四四巻には隆寛、遊蓮房円照、第四五巻には、勢観房源智、禅勝房、俊乗房重源、第四六巻には二祖の聖光房弁長、第四七巻には善恵房証空、津戸の三郎入道尊願、最後の第四八巻には法性寺の空阿弥陀仏、往生院の念仏房(念阿弥陀仏)、真観房感西、石垣の金光房の名を挙げている。

 再び『円光大師行状画図翼賛』に戻ると、そのうち法然上人から戒を受けた「上皇」には後白河院、高倉院、後鳥羽院の三方の名が見られ、「公家」では、右京権大夫隆信入道、月輪殿下(九条)兼実ほか八名、「武家」では、十六名のうち、とくに目立つのは東国御家人帰依者が多く上野国の大胡の小四郎隆義、武蔵国那珂郡の住人弥次郎入道、同じく猪股党の甘糟の太郎忠綱、下野国の宇都宮の弥三郎頼綱、上野国の薗田の太郎成家、武蔵国の熊谷の次郎直実、同じく津戸の三郎為守、信濃国の角張の成阿弥陀仏、武蔵国の桑原左衛門入道、塩谷入道信生、千葉の六郎大夫入道法阿などである。

 「婦女」では、月輪殿北政所、鎌倉二位の禅尼、宜秋門院等一〇名にのぼる。「僧尼」の部は最も多く五九人の名が記載されている。

 以上の弟子となった者のほかに、天台座主として大原談義の顕真、明雲の名や慈鎮和尚、明遍僧都の名を見出すことができる。そして、「庶民」としては、陰陽師の阿波介、強盗の天野四郎ほか七名の名が見られる。

 帰依者がいずれの階層にもわたっていることをもってしても、宗祖法然上人の円満な人となりと教化力の偉大さを伝えてあまりあるものがある。