(讃題)
「弁阿血脈を白骨に留め、口伝を耳底に納めて、たしかに以て、口に唱うる所は、五万六万、誠に以て、心に持つ所は、四修三心なり」と。 | |
(『末代念仏授手印』聖典五・二二三-二二四頁) |
建暦二年(一二一二)正月二十五日真昼大往生を遂げられた元祖法然上人でありました。
しかし、お弟子や辺地に居られたお念仏の信者の方々は、法然上人の説かれた教えの一部分だけにとらわれて「一遍のお念仏で往生するのだ」(成覚房幸西上人)とか、「お念仏は間なしに臨終まで唱えるのでなければ往生は難しいのだ」(隆寛上人)とか、すでに大乗の教えで悟りを得ている人、深く教義を理解している人、厳しく戒律を持っている人などのとなえる念仏が悪いというのではない(証空上人)等いろいろな解釈、議論がまきおこり、どれが本当の元祖法然上人の御教えであろうか、と迷い、戸惑う人が多くあったのであります。
そこで、二祖鎮西聖光上人は「その義を水火に諍(あらそ)い、その論を蘭菊に致して、還って念仏の行を失って、空しく浄土の業を廃す」(『末代念仏授手印』=聖典五・二二四頁)すなわち、お念仏の道理を水のように、または火のように、筋道を蘭のように、または菊のように議論して法然上人の御教えを正しく受け止めず浄土往生の修行が廃れてしまう、と愁い嘆いて、肥後の国(今の熊本市)白川の辺において二十数名の方々と四十八日の別時念仏をなされ、『末代念仏授手印』をまとめ著してくださり、他の門流の邪義を正し、法然上人の真意を明らかにしてくださいました。
二祖鎮西上人は、応保二年(一一六二)、筑前の国加月(香月)のお生まれです。今の福岡県北九州市八幡西区吉祥寺町、青柳上人ご住職の吉祥寺は藤の花の名所となっており、盛りの時期には多くの参詣者が訪れます。
十四歳より天台宗を学び、二十二歳、寿永二年(一一八三)の春、比叡のお山に登り観叡法橋上人に就き、後には宝地房法印証真上人に仕えて一宗の奥義を極められ二十九歳(建久元)に故郷に帰られました。翌年には、当時天台宗の九州一の学問、修行所であった油山の学頭(学長)になられたのであります。
ところが三十二歳の時、突然お身内の無常にお会いになり名利(学頭)を離れ後の世の安楽を求められたのであります。
明星寺五重の塔再建に尽力され、その塔の本尊を迎えるため京へ入洛された聖光上人は、仏師康慶の離れ家を借りて住まわれ本尊の完成を待っておられました。その時、東山吉水の草庵(知恩院)で専修念仏を弘められる法然上人の噂を聞きご対面されたのでした。時に法然上人六十五歳、聖光上人三十六歳でした。
聖光上人はひそかに、「法然上人知恵、弁舌深いと雖も、何の仏教の奥義を極めた私に勝ることはないであろう」と思われ、試みにと浄土教のかなめを法然上人に問いました。
法然上人は、
「あなたは天台の学者であられるから三種の念仏を区別してお話しましょう。一、『摩訶止観』の念仏、二、『往生要集』に勧められる念仏、三、善導大師の新たにはっきりとしてくださった念仏です」 |
と答えて、詳しく十時間にわたってお話くださいました。
一々の道理は広く、解釈は深く、あたかも高い山を仰ぎ、深い海底をのぞき込むようであると申され、法然上人を仰ぎお慕いする心は深まったのであります。
帰郷して五重の塔本尊の開眼をすませた聖光上人は再び京へ上られ、以後八年間にわたって、常に法然上人のお側に有って、浄土の法門を授けられ、細かく教訓を受けられました。
建久九年(一一九八)の春、『選択本願念仏集』を授かり寸暇を惜しんで経文を極め、水を一つの器から同じ一つの器へ移すように法然上人から浄土宗の御教えを伝授されたのでした。(『勅修御伝』)
聖光上人は、法然上人の往生の後、み教えを正しく後世に伝えるために『末代念仏授手印』をまとめ著してくださいました。その中心は、返す返すもお念仏をおとなえするのは「ただ往生極楽」のためでありますと。
この世はお念仏の申されやすいように過ごすべきである、と法然上人のお導きがありますように、お念仏を続けていくところに往生の身の上と確信して明るく、正しく、和やかな人生を送ることが出来るのであります。
そのためにどのようにお念仏をおとなえするのかと申しますと「口称本願の念仏」であります。法然上人も「声を本体と思ってください」と、また「声に尽きて決定往生の思いをなすべし」とお勧めであります。
たとえば、武道などは、大声を出すことにより特別意識しなくても声と共に身体が反応するのだそうです。お念仏も、声に出すことにより、自然に煩悩も去り往生を願う心も定まる、とのお導きであります。声に出すお念仏を続けていくうちにこの世、後の世共に御本願のお慈悲によって不安なく大安心の日暮らしが出来てくるようになる、とのお導きです。
では、どこに心を据えてお念仏をしていくのか。お念仏の心の据えどころ、これを安心と申します。
私の心を御仏さまに安置する。そこに心は安定し、安楽になるとお示しであります。これに三種あり、一つに至誠心、二つに深心、三つに回向発願心とお説きくださいます。三心は、ただ往生を願うときは一心であると申されています。また、お経の『観無量寿経』には、三心を具足すれば必ず往生するとお説きくださいます。
一つ目の至誠心について、唐の善導大師(法然上人の信仰上のお師匠様)は至は真、誠は実、真実心とお説きであります。虚仮の心なきをお示しです。内心と外相とが異なることなきようにとのお導きです。
内心助けたまえと、端座合掌称名。
嘘、偽り、飾りのなきように本気になってお念仏しましょうと仰せであります。根拠ないことをさもあるかの如く、根拠あることをさもないかの如く、偽ったり、人前を飾り、さも念仏者の如く振る舞うことのないようにとのお導きです。
法然上人も「智者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」と仰せです。真実心はなかなか出にくいものですが、幸い私たちは心に「蔵」を持って生まれさせて頂いているとのことです。
心の中の「蔵」にお念仏を「主人」と捉え、起こり来る「煩悩」は客と思い、起こらば起これとさしおいてお念仏するうちに往生を願う心(真実心)は易く起こると懇切なお導きであります。
また、「仏さまのお姿(お像)を見る、お経を読む、お上人等の善知識に会う、お経や人さまのお念仏を聴く」ことにより、真実心は起こるとのお導きです。
二つ目の深心とは、深く信じる心とのお導きで、これに二種説かれます。
一つには、我が身の程を信じ、二つには仏の願(本願、お念仏をとなえた者は必ず救うとのお誓い)。この二つを深く信じてお念仏をとなえていきましょう、とのお諭しです。
まずは、私とはどんな人柄か、それを振り返るのです、完全な、非の打ち所のない人など存在しません。多かれ少なかれ、罪を犯さない人はありません。
罪悪についてよく三種に分けて説明されます。法律に触れる罪、道徳的罪、仏教上の罪の三種です。
法律に触れる罪を犯せば、人々の社会生活を脅かすことになり一定期間施設(刑務所)に隔離されなければなりません。また、死刑となる場合もあります。幸い、法律に触れる罪を犯さなくても、道徳的罪になるとあやしくなり、自分で自らを責める結果となります。
千葉県の田舎から東京に通う女子高生が、こんな内容の作文を書いています。
電車の席を二度までは譲ったが、三度目には席を譲ることをしなかった。房総半島にきれいな夕日が沈むのを眺めることもなく、下を向いたきり耳まで赤くして自分を責めながら帰った。帰ってからも三日間責めつづけた。そして「これからはどんなに疲れていようとも必ず席は譲ろう」と心に決めたとたんに重い自責の念から解放された。
こうした作文です。別に刑務所に入ることはないにしても、自責の念に駆られるのが道徳的な罪であろうと思われます。
仏教上の罪になると「色心不二」「心身一如」(唯識)と言われるように、身体と心は一つであるから、心を清めるのは身体を清めることによると示されます。この教えからすると、心に思っただけでも罪になるということになります。しかし思ってしまう。自分のものでありながら自由にならないのが自分の心なのであります。
心に思うことが心の「蔵」にしまい込まれ、縁があればそれが行動となり言葉となる。それがまたまたしまい込まれる。ぐるぐるめぐり習いとなり業となる。業が次の世界を決める。たとえば、昨日悪いことをして今日清らかな気持で過ごせないのと同じであります。
お釈迦さまは、仏教信者として最低守るべきこととして「五戒」をお説きです。今、その一つ一つを挙げてみましょう。
一つ目は「不殺生」。ものの命を取ってはいけないとお説きですが、心の中では親でも修行者でも殺していることはないでしょうか。
二つ目は「不偸盗」。人さまのものを盗んではいけないとお説きですが、人が見ていなければそれを自分のものにしたいと思ったことはないでしょうか。
三つ目は「不妄語」。嘘をついてはいけない、殊に悟りを得ていないのに悟ったようなことを言ってはいけないとお説きです。法然上人も「知者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」と仰せです。
四つ目は「不邪淫」。よこしまな男女関係を結んではいけないとお説きです。現代の世の中は殊に乱れているようです。心の中でどうかとなると、私もはなはだ疑問であります。
五つ目は「不飲酒」。酒を飲み過ぎて人さまに迷惑をかけてはいけないとお説きです。酒を飲み過ぎて人さまに迷惑をかけたことはないでしょうか。
私達はどこまでも清く澄んだ心で日々過ごしたい願いを持っていながらそれが出来ないのであります。でも清く澄んだ心で日々過ごしたい、どこまでも願いながら空しく諦めながらの生活であります。
法然上人も「愚痴の法然房、十悪の法然房」と申され、善導大師も「罪悪の凡夫に常に没し、常に流転して出離の縁有ること無し」と申されるところであります。そこにただ仏の本願を信じ打ち任せてお念仏申すより他に救われる道はないとのお導きであります。
お念仏していても煩悩が起こりますが、この身このままをお救いくださるのが「慈悲本願」の素晴らしいところであるとのお導きです。
『観無量寿経』には「一声のお念仏に各々八十億劫生死の罪を除く」とあります。劫は時間の単位で四里四方の塀の中に芥子粒を満たし、百年に一粒ずつ出してすべて出し終わるのが一劫とされています。その八十億倍ですから考えもつかぬ長い間、生まれ変わり、生まれ変わりして償わなければならぬ罪も、一声のお念仏に除いてくださるとお説きくだされ、法然上人は御詠歌に「雪の中仏の御名を称うれば積もれる罪ぞやがて消えぬる」とお詠みくださるところです。慈悲本願を深く信じ、私の方に重きを置かず御仏の本願を頼みとし打ち任かせ、往生の身を疑わず、日々お念仏に励んでいきたいものです。
三心の三つ目、回向発願心とは、往生を願い少しでも善根功徳を積ませてもらい極楽に納め込むことをお勧めくださるところです。
往生の願いを起こすことは、はなはだ些かな私ですが、往生の一大事を遂げることを願いきって少しでも本気のお念仏をおとなえし、善根功徳を積ませてもらい廻し向けて往生の一大事に備えたいものであります。
過去善(この世に生まれてくる前、私たちは懸命に善根功徳を積んで人として生まれさせて頂いたのだそうです)、随喜善(人さまが良いこと美しいことを実行されるのを見て共に喜ぶこと)、現在善(たとえ微々たる善根功徳でも精いっぱい積んで)。
この三つの善根功徳を極楽に納め込んで行くことをお勧めです。この三心は極楽を頼みただお念仏をおとなえするときは、一心であるとのお導きです。
天草の拙寺(遣迎寺)のお檀家に木村家があります。
平成十五年八月十八日朝早くに電話がかかりました。
「今から息子直晴の遺体を引き取りにまいります。帰ったらまたお電話をします。枕経をおねがいします」
とのことでした。
帰られて枕経の後、よく話を聞いてみると、息子さん(直晴君)は、中学卒業後、海上自衛隊少年術科学校(現・少年工科学校の前身)に入隊して、海上自衛隊に入った。広島の江田島にある海上自衛隊の養成校に入学し、そこで訓練を受け後半年で卒業し乗船する船も決まっていた。
しかし、何があったのか、何を苦にしたのか十九歳の若さで自らの命を絶っていった。通夜、葬式を済ませ、満中陰まで毎週御回向に通い、お念仏を勧める以外手だてなく「とにかくお念仏を、お念仏を」と申し上げ続けたのであります。
木村家の父母、妹二人は悲しみのなか懸命にお念仏をとなえながら、「親として息子直晴を守れなかった、育て方を間違えたのだろうか」と、妹二人は「何で、何で」と自問自答するばかり。
しかし百カ日の時に伺うと、一家四人はにこにことして晴れ晴れとしたお顔で、
「直晴も自らの命を絶とうとするときは、きっとお念仏しながら逝ったに違いないし、極楽に居ることを確信できました。私たちもただ、ただこの悲しみが、夢であればと御仏にすがりお念仏をしてきました。そして、私たちも極楽へ生まれさせて頂きたいと夢中でした。やっとお念仏の尊さを実感出来て、明るく位牌に手を合わせることが出来るようになりました」
と喜びひとしおでありました。
本気になり、私の力弱くても御仏の御本願強きがゆえに、少しでも善根を積み、極楽を強く願いすがっていくところ必ず往生の身の上とならせて頂けることを信じお念仏に励みたいものです。
二祖鎮西聖光上人は、元祖法然上人の御教えを一器の水を他の同じ器に移すように余すところなく相伝してくださいました。『末代念仏授手印』にお纏めくださり、お示しくださるところです。正に、私たちの念仏信仰の指南の書であります。
大切にして御指南のお念仏信仰を生涯続けていきたいものであります。ありがとうございました。
同称十念