(讃題)
『勅修御伝』二十九巻を拝読するに、
「御返事に云く、一念往生の義、京中にも粗(ほぼ)流布する所也。凡そ言語道断の事也。真にほとほと御問(おんとい)に及ぶべからざるか」と。 | |
(聖典六・四六一頁) |
成覚房幸西の弟子たちが越後の国(新潟県)で一念義を広めていました。その頃、法然上人の弟子で熱心な念仏の行者であった越中の国(富山県)の光明房林海が、一念義の教えに合点がいかず、一念義が説いている法門を手紙に書いて法然上人に教えを請いました。そのお返事の初めの部分を讃題でお読みいたしました。
「本願を信ずる一念があれば、一声の念仏で極楽往生できるとする説は、都でもほぼ流布されているところです。この説はとんでもないことであります」とお返事され、続けて長々と一念義の正しくないことを述べておられます。「獅子の身の中の虫」「天魔」ということばでもって批判しておられます。
幸西の弟子を善心房としており、その善心房と善信房(親鸞)と音が通じることから、親鸞を指すと見る人もいるようですが、同一人かどうかは未詳です。
法然上人に、越後の一念義について訴えた光明房林海とはどのような人であったのでしょうか。
光明房という房号を頂く前は、林海法印と呼ばれていました。建久五年(一一九四)五十八歳で都に上り、法然上人(六十二歳)に拝謁して師弟の縁を結びました。長年の修学と顕密の行業を放棄し、専修念仏に取り組んだので、ついに肉身より光明を放っていたので、師の法然上人より称讃されて「光明房」の房号を賜ったと言われています。聖光、聖覚と並んで、法然上人の弟子の中の三俊と称(たた)えられています。
光明房は、法然上人の命を奉じ、北国念仏弘通のために越中に帰り、富山市の(見附)来迎寺中興の開山第一世となり、「北国念仏の最初道場」と称しました。総本山知恩院第七十一世万誉顕道大僧正の筆による墨痕大らかな書体で、「北國、念佛、最初、道場」と縦に二字ずつ書かれ、華頂山大僧正顕道書とあり、現在も本殿奉掲の額として飾ってあります。
魚津市の大泉寺の開創も同じく光明房で、法然上人が母上秦氏の追善菩提のために十八幅の名号掛軸をお書きになり、その一幅を、念仏弘通に尽くすよう光明房にお与えになったと寺伝にあります。
現存するその名号軸を拝ませていただきましたら、十念が書いてあります。右側に、小さな文字で南無阿弥陀仏を四念、左側にも名号が四念、中央に同じ大きさの小さい文字で一念、その下に大きな文字で一念が書いてあり、計、お十念の名号掛軸であります。法然上人の念仏弘通に対する強いみ心が、ひしひしと伝わってくる掛軸でありました。
数年前に、光明房林海上人開創八百年慶讃法要を盛大に厳修されました。
ところで、射水市(旧新湊市)に浄土真宗の大宝寺というお寺があります。
門を入り左側に二・五メートル程の銅像が立っております。親鸞聖人の銅像だと思っている人がほとんどですが、よく見ると「光明房林海上人之像」と書いてあります。
編み笠をかぶり、草鞋ばき、右手に木の枝の杖、左手に百八念珠、素絹に五条を掛け、領帽のような布を首に巻いて襟にはさんだ姿です。眼光鋭く正面を見、がっしりした体格の銅像です。
その銅像の横の大きな石碑に、次のように彫られてあります。
光明房林海上人之碑
今を去る八一四年前、安元元年 法然房源空上人が京都東山吉水の地に草庵を建て、「浄土宗」を立教開宗された。それは、激動の世に生き苦しむ庶民に向かって説きひろめられた仏の救いの道であり、暗闇にさ迷える名もなき人々をお念仏によって、生きる喜びに満ちあふれる光のお浄土のみ教えへと導かれた。この念仏門に生きる法然上人に深く帰依し、高弟として一念義における重要な御意見番をはたされたのが、豊後国四条大納言の末裔「光明房宗重」である。法然上人の命により念仏の法門流布のために越中につかわされた。海岸線を中心に念仏興隆に生涯を捧げられ、ゑびえ御坊大寳寺の開基となられた。北風寒く雪深い国に生きる念仏者の信心を守りつづけた全生涯をたずさえて建暦元年十一月二十四日静かにお浄土へ旅立たれました。のちの人々は「林海上人」を崇めた。ここに滅後七七七年にあたり、今日の時代に生きる有縁の同朋が銅像を建立し、永遠にその偉徳を讃仰するものである。尚第九世住職順慶法師は本願寺中興の祖蓮如上人の弟子となり、浄土真宗となった
平成元年六月
光明山大寳寺第二十七世住職釋秀天 識之
富山県は真宗王国といって、浄土真宗系が七割強を占めています。その浄土真宗のお寺に光明房の立派な銅像を建て、石碑には、法然上人立教開宗のみ心を、要を得た表現で書いてあり、また、光明房を称(たた)える気持ちが溢れており、我がことのように胸が熱くなりましたので、石碑の全文を載せた次第です。
当時の越中の国は、法然上人の念仏宗にとってどうだったのでしょうか。
昭和五十四年、滋賀県信楽町の玉桂寺で発見された阿弥陀如来立像胎内文書中の「越中国百万遍勤修人名」と題される念仏結縁交名によって念仏弘通の一端が伺えると思います。
この結縁交名を納めた阿弥陀如来像は、法然上人の弟子勢観房源智が、師の一周忌間近の建暦二年十二月に、師の恩徳に謝するために多数の道俗に勧進して造立したものです。胎内に納められた結縁交名は、総数でおよそ四万六千人余に上っており、鎌倉時代初期における念仏普及のすさまじさを伝えるものと言えます。
そのうち「越中国百万遍勤修人名」には、三枚を継いだ用紙の表裏に四千人に近い越中関係の念仏者名が記されています。表の前半部は清書されており、その部分だけでも一六三四人に達します。結縁交名全体のうち、国名を明記し、一国単位でまとめられ、しかも清書されているのは、越中国分だけなのです。これは、越中国に特に念仏者が多く、まとまった勧進成果があげられたことを意味するものと思われます。ただ、ここで書き上げられた四千人すべてが越中在国者であったかどうかは明らかではありません。また、ことによると、この中には追善的な意図をもって記入された過去者の名が含まれている可能性もあろうと思われます。ともあれ、「越中国百万遍勤修人名」の出現によって、越中における法然上人のお念仏の普及発展のすさまじさが実感として知られることになりました。念仏の行者と言われる光明房林海の周辺にも多くの念仏者がいたことと思われます。
そのような念仏集団の中にいた光明房が、一念義の教えに合点がいかないのは当然のことで、師法然上人よりお返事を頂いた光明房は意を強くして、ますます念仏弘通に力を注いだことと思われます。
光明房の手紙で、越後の国の様子を知った法然上人は、一念義停止の起請文を定められることにまでなりました。
ここで言う一念義は、法然上人の教えの流れの中で、どのような立場にあったのでしょうか。
いくたびかの法難によって、洛中から専修念仏者は一掃されたかに見えましたが、一度点(とも)された信仰の灯は、たやすく消えませんでした。専修念仏者を衰えさせることはできませんでした。
このような社会情勢の中で、着実に信仰の灯を点(とも)し続けた幾人かの人達がいました。信空・源智・隆寛・幸西・長西・証空・親鸞・湛空・聖光といった人達がそれであり、それぞれの門流を形成していきました。
信空の門流は白河門徒、源智の門流は紫野門徒、湛空の門流は嵯峨門徒と呼ばれ、また、隆寛は多念義、幸西は一念義、長西は諸行本願義、証空は西山義を唱え、聖光は法然上人を嗣ぎ、親鸞は浄土真宗の開祖と仰がれています。
一念義を唱えた成覚房幸西は、少壮の頃、叡山におり、法然上人が『選択集』ご選述の建久九年に三十六歳で法然上人の弟子となりました。法然上人の生前に一念の新義を唱え、師から一念義停止を受けても、師の滅後も、一念義をもって盛んに教化しました。『浄土宗大辞典』で「一念義」の項を見ますと、「法然上人門下に起こった異義であって、一念によって浄土に往生することができると主張する一派の説である」と出ています。
光明房に対してお返事された法然上人の意図とするところを端的に表した御法語は、『十二問答』の中の次の問答だと思います。
問いていわく、『礼讃』の深心の中には「十声一声、必ず往生を得。乃至一念も疑心あることなし」と釈したまえり。また『疏』の深心の中には「念念に捨てざる、これを正定の業と名づく」と釈したまえり。いずれか我が分には思い定めそうろうべき。 答う、十声一声の釈は念仏を信ずる様(よう)、念念不捨者の釈は念仏を行ずる様なり。かるが故に信をば一念に生まると取りて行をば一形に励むべし、と勧めたまえる釈なり。また大意は「一たび発心して已後、誓いてこの生を畢(おわ)るまで退転あることなく、ただ浄土を以(も)ちて期とす」の釈を本とすべきなり。 | |
(聖典四・四三六頁) |
この『十二問答』は、法然上人がご選述されたもので、質問者は禅勝房と言われており(ある文には、隆寛律師の問いとも言われている)、浄土宗の要義についての十二の問答です。右の問答は八番目で「十声一声と念念不捨者の念仏」についての問答です。
この問答をわかりやすく訳すと、大体次のようです。
法然上人にお尋ねいたします。善導大師のお書きになった『往生礼讃』の深心(深く信ずる心)について「お念仏を十遍となえても一遍となえても、必ず極楽に生まれることができる。だから、一遍のお念仏をとなえても、仏さまのお救いにあずかることを疑う心は少しもない」と解釈しておられます。また、同じ善導大師の『観無量寿経疏』の深心の解釈では「念念に捨てないといって南無阿弥陀仏とお念仏をとなえ続けるのが正定の業といって往生のための正しい定まった行いである」と書いておられます。この二つのうち、どちらが私にふさわしい行いであると思うべきでしょうか。
法然上人のお答え。お念仏を十遍となえても一遍となえても往生する。だから、一遍のお念仏にも疑いの心がない、という解釈は、お念仏を信ずるありさまのことです。念念不捨者の解釈で、お念仏を一念一念続けておとなえするというのは、念仏を実践するありさまのことです。だから、信心は一遍のお念仏で極楽に往生できると理解し、お念仏をおとなえすることを一生涯続けて励むべきです、とお勧めなさっているという解釈です。
「一枚起請文」にも「浄土宗の安心起行この一紙に至極せり」とありますように、浄土宗では、深い信心、すなわち、「疑いなく往生するぞと思いとる」ことと、「南無阿弥陀仏と申す」お念仏の実践行との両方が具足しなければならないことを、ことばを変えれば、信行双修ということが示された問答です。
一声も捨てぬ誓いのうれしさに 思わず積もる弥陀のかずかず |
一声となえただけでも摂取不捨の光明にあずかることができる私でありますことよ、と思ったら、うれしくて、うれしくてたまりません。そこで、無理なく、力みもなく、お念仏を数多くとなえさせていただく私であります。なんと結構なご縁をいただいた私でしょうか、という意味です。この歌が、信行双修を歌ったものです。
法然上人の和歌に、
阿弥陀仏と十声唱えて微睡(まどろ)まむ永き眠りになりもこそすれ | |
(聖典六・四八三頁) |
という歌があります。
眠っている間に命が尽きるかもしれないので、命終の時のお念仏のつもりでお十念をとなえてから眠ることにしています、という歌です。
この歌は、布教でよく話材にさせてもらっていましたが、この私は、七十を過ぎてからやっと床の上でお念仏をとなえてから眠りにつくようになりました。
法然上人のお念仏を伝えんと、北国に念仏弘通に生涯を捧げられた光明房林海上人のご努力を思う時、なんと恥ずかしい自分であったろうかと、悔悟、反省させられます。
私が総本山知恩院布教師の検定を受けたのは、昭和五十二年、三十二年前の四十歳の時です。検査委員の諸上人の講評を受けた中に「泉上人のお念仏は堅い。それは、お念仏の申しかたが足りないからです」とバッサリと切られたように感じた厳しい戒めのことばをいただいたことを思い出しました。
光明房に対する法然上人のお返事は、私に対してのみ教えであったのだ、と深く感じ、「信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし」を生きる指針として宗祖法然上人八百年大遠忌を迎えたいと思います。