昭和五十四年秋、当時滋賀県大津市伊香立(いかだち)の新知恩院にございました浄土宗教師修練道場生の一人でありました私は、滋賀県立琵琶湖文化館において浄土宗にとって非常に貴重な資料を閲覧する機会をいただきました。
多くの先生方に混じって、一枚の古文書や人名を書き連ねた紙の束を覗き見る私には、その資料『玉桂寺文書』の価値などわかるはずもなく、浄土宗を代表する先生方が熱心に見入る様子と半々に眺めるばかりでありました。そんな私たちに、道場でお世話になっている先生が浄土宗史上貴重な資料であることを教えてくださいました。それが法然上人様のお側にお仕えになった勢観房源智上人の新たな一面を伝える、非常に重要な文書であったことを後になってから聞き、もっとしっかり拝見しておけばよかったと後悔したことを今でも記憶しております。
勢観房源智上人(一一八三~一二三八)はご存知のように、法然上人が極楽浄土にお帰りになる二日前の一月二十三日、「念仏の安心、年来御教誡に与ると雖も、猶御自筆に肝要の御所存、一筆遊ばされて、賜わりて、後の御形見に供え侍らん」と請われ、まさに御遺言の書としての「一枚起請文」を授かったお方であります。浄土宗においては法然上人がお元気な頃からすでに、背師自立の義といわれる一念義などの邪義を立てるものが横行しておりました。末尾の「源空が所存、此の外に全く別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存をしるし畢んぬ」のお言葉はこのような状況を踏まえられたものであります。これを憂えた源智上人が、法然上人のお念仏のみ教えの確たるところを残してくださるように願ったのであります。枕辺にはべる諸先達をはばかりながらも、お師匠様のみ教えを堅持しようとする芯の強さを見て取ることが出来ましょう。
しかしながら『法然上人行状絵図』(以下『勅修御伝』)に伝えられる源智上人は、「ただ隠遁を好み、自行を本とす」と語られておりますように、数あるお弟子の中でもあまり目立たずおとなしい方という記述をされていました。しかも「一枚起請文」の原本を蔵す黒谷金戒光明寺、「法然上人御真骨」と源智上人が書かれた紙で包まれたご遺骨とご遺髪を胎内に納めた法然上人像を安置する百万遍知恩寺の両本山が、法然上人を初代、第二代を源智上人としており、法然上人の跡を継ぐ方として重要な位置にあった源智上人でありましたにもかかわらず、その出自をも含めて源智上人の真骨頂は長らくベールに包まれておりました。それは、『勅修御伝』に「勢観房源智は、備中守師盛朝臣の子、小松の内府(重盛公)の孫なり」と記されておりますように、当時源氏が平家一族の殲滅を展開していたことにより、平家一門につながるものとしてひたすら身元を隠し、母(『玉桂寺文書』から「秘妙」という名を推定されています)とともにひっそりと生きなければならなかったことによるものと考えられております。
『勅修御伝』によりますと、源智上人が法然上人の室にお入りになったのが建久六年(一一九五)、十三歳のときでありました。逆算いたしますと平家が壇ノ浦で滅亡したのが文治元年(一一八五)でありますから、この時源智上人はまだ三歳であります。この後の十年間のことは分かりません。源氏の落人狩りから身を隠し、母とともに歴史の裏に潜んでいたのでありましょう。法然上人は幼くして父親と死別したこの少年を、自らの生い立ちと重ね合わせ、深い同情を覚えられたのではないかと想像いたします。
法然上人はこの時すでに、授戒を通して時の関白九条兼実公に念仏を勧める間柄にあり、その舎弟であります天台座主慈鎮和尚慈円僧正に託して、得度の師となっていただいたのであります。慈円僧正の下での修行がどのくらいであったのか、正確には分かりません。『勅修御伝』には「いくほどなくて上人の禅室に帰参」とありますので、おそらくは短期間のことであったと思われます。その後十八年間、法然上人に常随給仕されたのであります。また法然上人も源智上人に対し、「上人憐愍覆護、他に異にして浄土の法門を教示し、円頓戒この人をもちて付属とし給う。これによりて道具・本尊・房舎・聖教、残る所なくこれを相承せられき」と授けられたのであります。
建暦二年一月二十五日、法然上人がお浄土に帰られた後の源智上人の活動が、人が変わったように目覚ましいものであったことを今に伝えております文書が、冒頭にご紹介いたしました『玉桂寺文書』であります。
源智上人は法然上人の一周忌を迎えるに当たり、報恩のために三尺の阿弥陀仏立像の建立を発願されました。建暦二年十二月二十四日、四万六千余の念仏結縁交名録とともに、阿弥陀仏像の胎内に納められました『源智阿弥陀如来造立願文』に、源智上人の法然上人に対する深い報恩の念が切々と述べられております。その一部分を、大本山増上寺第八十六世藤堂恭俊台下が、かつて『知恩』誌(知恩院発行)に掲載くださいました御訳をもってご紹介いたします。なお、『願文』の原文の読みは大正大学・宮沢正順先生が示されたものです。
この尊いみ教えに遭い、浄土の人に生まれかわることのできるのは、ひとえに、私の師匠法然上人の恩徳(めぐみ)のたまものであります。この広大な恩徳(めぐみ)は、たとえ骨をくだき、生まれかわり・死にかわりしながら曠劫(こうごう)という容易に計ることができない、長いながい歳月をかけて、感謝に感謝をかさねたとしても、決して及ぶところではありません。また、昔(いにしえ)に菩薩の道を歩まれた行者が、自分の眼球をくりぬいて施(ほどこ)されたが、そのような施しを生まれかわり・死にかわりいくらかさねようと、とうてい、師の上人の恩徳(めぐみ)に報いることができましょうか。決して出来ません。 | |
(『知恩』昭和六十年五月号・三二頁) |
源智上人の報恩の思いは、多くの念仏上人が諸国に分かれて念仏結縁を勧進することによって伝えられていきました。法然上人のご臨終が間近に迫った頃、長老法蓮房信空上人の遺跡建立のお尋ねに対し、法然上人は「跡を一廟にしむれば遺法あまねからず、予が遺跡は諸州に遍満すべし」とお答えになり、伝教大師最澄上人の比叡山や弘法大師空海上人の高野山のようにひとつ所に遺跡を定めてしまえば、津々浦々にわが教えが広がって行くのが困難になる。あらゆるところで念仏を申す一人一人の心にこそ我が遺跡を建立することが出来るのである、と諭されたのであります。
この問答のありました際にも信空上人とともにお側にお仕えになっておられたでありましょう源智上人は、このお言葉を実現することこそ真の報恩行とお考えになったことと存じます。その思いの前には「隠遁を好む」姿を捨て、同信同行の徒とともに念仏勧進に邁進すること以外に道はなかったのでありましょう。
結縁交名録からは、近畿はもとより、伊勢・北陸・中国・東海・越中・越後、そして蝦夷すなわち東北の地まで結縁の輪が広がっていったこと、殊に「エソ 三百七十人」の記事からは源智上人の先達であります石垣の金光(こんこう)上人(一一五四~一二一七)が、法然上人の指示によって東国に下って念仏教化に尽力された様子を知ることが出来ましょう。
その後の源智上人の祖師報恩の活躍は、法然上人の二十三回忌に当たります文暦元年(一二三四)の、総本山知恩院の基礎であります御廟の復興や堂舎の建立をはじめ、法然上人のお側に常随されていた方として、御遺文やお言葉を記録されていたこと(『法然上人伝記附一期物語』を編纂)、『選択要決』の執筆によって『選択本願念仏集』に対する非難への論破など、並々ならぬものがございます。
先年、山形県天童の地で、五十三歳を一期として加藤美津子さんという女性が帰らぬ人となりました。老母志津子さんを残しての極楽への旅立ちは、失った後ろ髪を引かれる思いであったことでしょう。
美津子さんは四十代後半から癌を患い、つらい闘病生活を続けていました。父幸一さんを見送って間もない発病でした。元来人一倍元気で明るい性格でありまして、おとなしいご主人と好対照ながら、仲睦まじい日々を送っていました。すでに三人の子供たちもそれぞれ独立し、末っ子である愛娘の恵子さんがいち早く結婚し、まもなく授かった長女を一生懸命育てていました。発病は恵子さんが二人目を宿した矢先のことでした。
老母志津子さんのご主人幸一さんは、お寺の役員として様々な行事に欠かさず参加してくださる方であり、また世知に長けた方で、お寺の事業については常に適切な提言をしてくださいました。惜しむらくは蒲柳の質で、喘息の持病を持ち、七十歳を少し超えた時に肺炎を発して亡くなられたのです。
幸一さんと志津子さんは三人の娘さんを育て上げ、それぞれがよい伴侶を持ったことに大変満足していました。そしてその娘さんたちがそれぞれに、三人ずつの子供さんを授かりました。男の子四人女の子五人の九人の孫さんは、共働きの両親たちがいない平日には、幸一さんと志津子さんが一生懸命に育てたのです。時には隣の山形市にある書店まで、バスに乗り、列車に乗り換え、駅からは約一キロの道のりを遠足のように連れて行き、好きな本を選ばせるという、子供たちにとっては大冒険のような旅をさせることもありました。二階建ての書店は、一階に漫画や文庫本、週刊誌や専門書が並び、二階には絵本などの児童書のほかに学習参考書やレコードなども陳列され、年の違うそれぞれが楽しむことが出来ます。お二人は子供たちが思い思いに歩き回る様子を、二階の喫茶コーナーから見守っているのが楽しかったと語ってくれました。
この九人が小学生になると、例年の拙寺の新入生祝賀会に参加してくれました。さらに小学校三、四年生になると夏休みの子供会、五年に上がって浄土宗青年会の夏休み子供会、そして平成元年から六年生を対象に募集を始めた総本山知恩院の「おてつぎこども奉仕団」にと順次参加してくれたのです。当時美津子さんたち三姉妹は、打ち合わせ会に出席してくださるごとに、異口同音に「じいちゃん、ばあちゃんが、ぜひ参加させろと言うのよ」とうれしそうに語ってくれました。
盆正月や彼岸ともなりますと、総勢十七人がお墓参りをし、本堂に上がって揃ってお念仏の声を堂内に響かせてくれたのです。また盆正月にお参りにうかがいますと、在宅している限り鐘の音を聴きつけて私の後ろに座り、一緒にお参りをしてくれる子供たちでした。熱心な念仏の信者でありました幸一さんと志津子さんの日常が、子や孫にまでしっかりと受け継がれていることがよくわかる様子でした。
ご主人幸一さんが先立たれた時の志津子さんは、さすがにショックを隠すことは出来ませんでしたが、それでも気丈に振る舞っていました。喪主を務める長女のご主人には、地域の風習を陰から色々と話してあげたり、親戚の方々にも最後のご様子を語ったりと、妻としての務めを果たしておられました。
しかしこのたびは全く違っていました。知らせを受け枕経に駆けつけた私に、こう言ったのです。
「おっさま(私の地域では僧侶のことをこう呼びます)、長生きをしたばっかりに娘を送る羽目になってしまった。こんなことになるのなら、爺さんと一緒に私も阿弥陀さまのところに行っておけばよかった」
体を震わし、涙を流しながら訴えるのです。これまでの志津子さんとは思えない言葉と姿に、一瞬言を失った私に代わって、孫の恵子さんが志津子さんの手をしっかりと握って、
「おばあちゃん、そんなことを言っちゃだめ。おじいちゃんが亡くなった時に、私たちに言ったことを忘れたの。私たちがお寺で貰ったり作ったりしたお経の本を持ってこさせて、おじいちゃんのためにお勤めをして、お念仏をして、と言ったでしょ。お母さんのためにおばあちゃんも一緒にお念仏をしよう」
と叫んだのです。
枕経、お通夜、葬儀そして七日参りと、恵子さんは常に志津子さんの支えとなって一緒にお経を読み、大きな声でお念仏をとなえてくれました。志津子さんの心の痛みも徐々に癒えていき、満中陰の法要の折には笑顔がでるようになりました。曾孫の恵理子ちゃんも毎回一緒にお参りに来てくれましたので、上手にお念仏がとなえられるようになりました。
今夏お盆参りに一族でおいでになった折、庭の蓮の池を見ていた恵子さんが「おっさま、お母さんとおじいちゃんは極楽の蓮の上で今頃どんな話をしているのかなァ」といい、続けて「子供会の時に蓮の歌を教えてくれたっけ」と懐かしそうにつぶやきました。拙寺の庭池には、かつて篤信者の方が、十九歳で夭折されたお嬢様と先立たれた奥様の供養にと植えてくださった三株の蓮が池一面に広がり、七月下旬から次々に見事に咲いてくれます。以前から子供会のお話の時間に蓮を眺めながら極楽のことをお話したり、「蓮のうてなのご詠歌」を教えて一緒に唱えてもいますので、その頃のことを思い出してくれたのです。
さきだたば おくるるひとを まちやせん はなのうてなの なかばのこして
恵子さんは蓮の花の中に幸一さんの姿と、お母さんの姿を見ていたようです。八人のいとこ兄弟も一緒になってじっと蓮を見つめている様子に、ご家族はもとより私どもも静かな感動を覚えたことです。おばあちゃん志津子さんがポツリと「次はわたしだね」とおっしゃいますので、「法然上人は、『会者定離は常の習い、今始めたるにあらず、何ぞ深く歎かんや。宿縁むなしからずば同一蓮に座せん。浄土の再会甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。信謗ともに縁として、先に生まれて後を導かん。引接縁はこれ浄土の楽しみなり』と仰せです。その時にはたぶん二人して阿弥陀さまと一緒に迎えに来てくれますでしょう。そのときまで曾孫の恵理子ちゃんを、お二人の分までかわいがって上げましょうよ」と申し上げました。
お帰りの際本堂から、皆さんお揃いでのお念仏の声が聞こえておりました。
平家一門の出身であることが発覚することを恐れず、法然上人のみ教えを多くの人々に伝え継ぎ、その人々が邪義に惑わされず正しい教えによって称名念仏の道をしっかりと歩んでほしいと願った源智上人の心は、加茂の功徳院で暦仁元年(一二三八)五十六歳のご生涯を終えられてから七七二年の時を越えて、東北の地でもしっかりと受け継がれております。私たちも法然上人の御念仏のみ教えを、次の世代に確かに伝えてまいりたいものです。