二祖聖光上人と嗣法 

 恵谷隆戒師は、その著『概説浄土宗史』において、

  二祖(聖光)は(中略)六箇年間常在給仕して宗義の蘊(うん)奥(のう)を究め、『選択集』の相伝を受けて宗要を禀(ほん)承(しょう)された。二祖が宗祖より宗義の正統を継承されたことは、(中略)宗祖の有力な門弟達の等しく是認する所であり、また二祖の著述に現れた思想より見るも、すでに疑を挿む余地のないことである。
  (『概説浄土宗史』六九─七〇頁)
 

と記して、数多の門弟の中、聖光上人が宗祖法然上人から宗義の正統を継いだ門人であることを、改めて述べている。

 法然上人の門弟も、一考すると種々の異なりが見られる。大島泰信師はその著『浄土宗史』で門弟を次のように分類している。

①常随給仕の弟子
宗祖の菴室に同居し、或は近傍に住居して、宗祖の起居寝食等日常の用務を弁じ、内に在りて宗祖の伝教弘通を助成したる者。

②受法問道の弟子
時々菴室を訪ひて法話を聴聞し、或は終始宗祖に随従すれども他宗の寺院或は別処に住して日夕其菴に在ざる者。

③客弟子
宗祖の信徳を敬慕し、法義を承問するとあるも、依然本宗本寺を離れざる者。

④直弟子
其宗祖の門下に在りて出家し、或は他宗より来るも全く宗徒となれる。

  (浄全二〇・四八六頁上─下)

以上のように記し、宗祖の門弟を四つに類型化される、とした上で、

  ①常随給仕の弟子として
   法蓮房信空・真観房感西・勢観房源智
  ④直弟子として
聖光房弁長・善慧房証空・隆寛律師・聖覚法印・正信房湛空・俊乗房重源・覚明房長西・成覚房幸西・法本房行空・善信房親鸞・西仙房信寂・朝日山信寂・金光房・空阿弥陀仏・乗願房宗源・浄蓮房源延

等の門弟の名を当てている。

 法然上人が開立された、本願称名念仏の義を、自らの宗として受法していった門下は、大島師が記す、常随給仕と直弟子であることはいうまでもない。

 法然上人が開立された、本願称名念仏の義を、自らの宗として受法していった門下は、大島師が記す、常随給仕と直弟子であることはいうまでもない。

 この中で聖光上人が宗祖法然上人の開立された、所謂、本願称名の念仏義を正しく継承された門下であったことは言を俟たない。

(1) 『勅修御伝』四六巻に、
長く上人(宗祖)に師事して、暫くも座下を去らず、久しく一宗を習学して、具さに庭訓を受けられけり。翌年建久九年(2)の春、上人『選択集』を聖光房に授けらる。「これ、月輪殿の仰せによりて撰べる所なり。未だ披露に及ばずと雖も、汝は法器なり、伝持に堪えたり。早く此の書を写して、末代に広むべし」 (聖典六・七一四頁)
と記するがごとく、九条兼実の要請によって念仏の要文を集め、自ら開立された念仏義の根拠を示され、唯一無二、時機相応の教えとして、十六章に纏め『選択本願念仏集』一巻を述作されたのである。宗祖の生涯を伝える第一の資料『勅修御伝』、そして宗祖の教学を知る『選択集』、この二つの書こそ、我が浄土宗にとっては、その基本となる根本典籍なのである。

 その『選択集』を書写せしめ、附属したことが記されているが、宗祖門下において、宗祖からこのような対応をされた門弟の数はごく限られている。

 また『勅修御伝』四五巻に、法然上人が大谷禅房において、ご往生が近づかれたとき、常随給子の弟子である勢観房源智が上人に対して、

  勢観房、「念仏の安心、年来(としごろ)御教誡に与(あずか)ると雖も、猶御自筆に肝要の御所存、一筆遊ばされて、賜わりて、後の御形見に供え侍らん」と申されたりければ、御筆を染められける状に云く、
  (聖典六・六八八頁)

と滅後のために、浄土宗念仏義の肝要を書き残しておいて欲しい旨を懇請したことが記されている。上人往生の二日前のことであった。この要請によって書き残された一書が「一枚消息」(一枚起請文)で、正に同述する「末代の亀鏡」そのものである。そして、その原本と伝えられる一書が、金戒光明寺に伝えられることは周知のことである。

 他方、元亨版『黒谷上人語燈録』所収「諸人伝説の詞」に二祖弁阿聖光上人が故上人(法然上人)から伝えられた詞として 以下の法語が記されている。

  又上人のの給はく 念仏往生と申す事は もろこしわか朝の もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念仏にもあらす 又学問をして念仏の心をさとりとほして申す念仏にもあらす たた極楽に往生せんかために南無阿弥陀仏と申て うたかひなく往生するそとおもひとりて申すほかに 別の事なし たたし三心そ四修そなんと申す事の候は みな南無阿弥陀仏は決定して往生するそとおもふうちにおさまれり たた南無阿弥陀仏と申せは、決定して往生する事なりと信しとるへき也 念仏を信せん人は たとひ一代の御のりをよくよく学しきはめたる人なりとも 文字一もしらぬ愚癡鈍根の不覚の身になして 尼入道の無知のともからにわか身を同しくして智者ふるまひせすして たた一向に南無阿弥陀仏と申てそかなはんすると。
  (龍谷大『黒谷上人語燈録』六六二頁上)

  この詞は、『昭法全』においては「善導寺御消息」(昭法全四三四頁)として収載されている法語である。この法語については、伊藤祐晃師が、その著『浄土宗史の研究』において勢観房源智、相承系との比較を論じているが、鈴木成元(玉山成元)師は、伊藤師の論文を手掛りとして、「一枚起請文について」の論文を雑誌『浄土学』に発表された。その論文において、

鎮西相承の一枚起請文というのは普通「善導寺御消息」といわれるものであって、一枚起請文とはいわれていないが、字句の差こそあれ文意は全く同じもの。
(雑誌『浄土学』二六・一〇二頁)

と論述している。そして、これと同系列にある鎌倉末の書写本「仮名法語」と、応永三十三年書写の「安土浄厳院所蔵隆堯書写本」を紹介し、この「浄厳院隆堯書写本」には「善導寺御消息」と法語名が付されていたとも記している。

  近時、大本山善導寺月刊機関紙『聖光』において、阿川文正台下は「隆堯本」に
  安貞二年十一月七日
    沙門弁阿     在判
    伝授口決入阿   在判

と記されていることをもとに

  弁阿は二祖聖光であり、入阿は聖光の弟子教蓮社入阿入西のことで、善導寺開山聖光と二代良忠の間を務める看主の役に職している重要人物である。(中略)隆恵本は聖光房より門弟の入阿に伝授口決として与えたもの。
  (大本山善導寺『聖光』平成十七年三月号)

 と論述している。

 これより推考できることは、この「善導寺御消息」と通称される法語は、法然上人によって開立された浄土宗の安心・起行の真訣を伝述した法語で、源智相承の「一枚起請文」と全く同意の法語。そして、二祖聖光上人もその法語、所謂「一枚起請文」を『選択集』と併せて相伝され、浄土一宗の真訣を授けられていたことが知れる。