法然上人は承安五年(一一七五)四十三歳の時、善導大師の『観経疏』「散善義」の文「一心専念弥陀名号……」いわゆる「開宗の御文」と通称される一文に出会ったことにより、余行を捨て、浄土門に帰入され、浄土一宗を開宗された。
それ以後の上人の日常については、その例証として、よく紹介される『勅修御伝』五巻に、
上人語りて宣わく、「我、聖教を見ざる日なし。木曾の冠者、花洛に乱入の時、ただ一日聖教を見ざりき」と。 | |
(聖典六・五四頁) |
と記されるがごとく、立教開宗以後であろうとも、つねに聖教披覧に心がけることを怠りなく、しかも同じく六巻で、
尋ね至る者有れば、浄土の法を述べ、念仏の行を勧めらる。化導日に従いて盛りに、念仏に帰する者、雲霞のごとし。 | |
(聖典六・五九頁) |
と記述されるごとく、開宗後も決して気負うことなく、教えを求めて尋ねくる者に対しては、浄土の法門を説き、ごく自然のうちに本願称名の念仏を勧めておられたことが窺い知れる。それを裏付けるものとしては、上人ご自身の選述書『選択集』十六章に、
希(まれ)に津(しん)を問う者には、示すに西方の通津を以てし、たまたま行を尋ぬる者には、誨(おし)えるに念仏の別行を以てす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠(すくな)し。 | |
(聖典三・一九〇頁) |
と記されていることと、全く符号している。ただ、法然上人の弘教は一見、たんたんとした、通常考えられる自然体で本願称名の念仏義を教示されていたように推考されはするが、『勅修御伝』一四巻に法然上人ご自身の人間的ご性格を窺知する、恰好な記述がある。それは、
法印宣いけるは、「法然房は、智慧深遠なれども、聊(いささ)か偏執(へんしゅう)の失有り」と。 | |
(聖典六・一五四頁) |
法印すなわち、顕真が法然上人と直接会し、いかがして生死を離れることができるか、いかがして往生を遂ぐことができるのかを問うた後、法然上人の印象を「聊か偏執の失有り」と述べ、物ごとや、自説に対して頑固なまで一徹であるようだ、と評している。
さらに『勅修御伝』三三巻の、建永二年(一二〇七)配流が決定され、遠流直前の緊迫した状況の中での法然上人の言は、
我、仮令(たとい)、死刑に行なわるとも、この事言わずばあるべからず。 | |
(聖典六・五四四頁) |
と申された、と記述されているが、こと本願称名念仏の弘通のためならば、かりに死刑に処せられても、絶対に止めない、とする頑(かたくな)なまで信仰をつらぬかれる強靭な信念の持ち主であることを、後の天台座主となる顕真は見抜いていたのかも知れない。
したがって、宗祖法然上人の念仏弘通は、辻説法の如き対他的に目立った方法はとっていない。しかし、その静かで穏やかな弘通は、内面的には極めて強固な信念のもと、極めて強い説得力が伴っていたと考えられる。
それに伴って、称名念仏に帰した人々を上記『勅修御伝』六巻に「化導日に従いて盛りに、念仏に帰する者、雲霞のごとし」と記述があるが、決して誇張した記載ではない。
日蓮はその撰述書『立正安国論』において、
此邪教広く八荒に弘まり、周(あまね)く十方に遍ず。 | |
(原漢文。浄全八・八三九頁下) |
と記し、法然上人によって弘通された、本願称名の念仏義が八方に広がり、国中に遍満していることを慨嘆している。つまり世に「燎原の火のごとく」、と称せられるように、専修念仏弘通の激しさを、改めて知らされるのである。
法然上人の門下、そして門流
一向専修に帰して後の、法然上人の門下門人を正確に把握することは大変むずかしい。しかし、法然上人在世中、元久元年(一二〇四)上人七十二歳の時に生じた法難、すなわち叡山三塔の衆徒が会して、座主真性に専修念仏停止を訴えた、いわゆる、元久の法難が発生した折、これを避けるため、法然上人が自ら起草し、座主真性に呈した『七箇条起請文』あるいは『七箇条制誡』と称される書によって事態の収束に導びいたことは名高い歴史事象である。
この『七箇条起請文』の原本は、京都嵯峨二尊院に所蔵されており、『勅修御伝』にも三一巻に収録されている。その他『昭法全』(七八七頁)に記すものでも、『高田本西方指南抄』・『弘願本』・『九巻伝』・『古徳伝』・『漢語灯録』にも収載されている。(『七箇条起請文』の内容については、平成二十一年度『布教羅針盤』参照)
その末尾に、七カ条の一々について門弟等に厳守を誓わせ署名させている。
したがって、元久元年時に法然上人の身近にいた門下や、その数を知る好資料ということにもなる。
『勅修御伝』(聖典本)を見ると八八名、『昭法全』収載の原本を見ると一九〇名。その年二祖聖光上人は元久元年七月に宗祖の膝下を辞去(慶安版『聖光上人伝』)して、この法難に遭遇していない。二祖聖光上人のごとく、居合せない門下もいるが、これを見て推考するならば、法然上人の晩年、七十二歳の頃、法然上人の勧化を蒙った、専修念仏の徒が既に二〇〇人前後は存在したことになろう。
前述のごとく「尋ね至る者有れば、浄土の法を述べ……」と『選択集』一六章末の「希に津を問う者には……」等の記述を見ると、吉水の庵室を訪れる門弟の出入も、ごく通常、との印象を持ってしまいがちであるが、建久九年(一一九八)に記された『没後遺誡文』に、
西より来り、東へ去る。法門を尋ね問い、朝来りて暮て往く、出離を叩き求める人、甚だ多し。(原漢文) | |
(望月信亭『法然上人全集』四二九頁) |
と述べられている。建久九年は『選択集』を選述された年であるが、専修念仏帰入から約二十五年、年令は六十代の半ばを過ぎ、法然上人の化益に蒙りたいとする人々の来訪と、述作活動等と、極めて多忙な生活を送られていたことが推考できる。
『七箇条起請文』に列記される署名人物中に、法然上人滅後、一流一派を形成する門下も含まれるが、愚勧住信の撰になる『私聚百因縁集』に、
黒谷源空上人法然、自 | |
(鈴木学術財団刊『大日本仏教全書』九二・一八五頁) |
と記して、後、法然上人門下五流すなわち、
幸西 一念義
聖光 鎮西義
隆寛 多念義
証空 西山義
長西 諸行本願義
が明示されている。また凝然の『浄土法門源流章』には、
源空大徳門人 | |
(浄全一五・五九一頁上) |
と記して、凝然は法然上人門下に七流があるとしていることが知れる。
また静見の『法水分流記』には、
信空 白川門徒 隆寛 多念義 又号長楽寺義 弁長 鎮西義 人号筑紫義 幸西 一念義 親鸞 大谷門徒 号一向宗 湛空 嵯峨門徒 証空 西山義 又号小坂義 源智 紫野門徒 長西 九品寺義 又号諸行本願義 | |
(野村恒道、福田行慈編『法然教団系譜選』所収) |
以上九流を挙げ、法然上人の門下には九流が存していた、としているのである。
数多い法然上人門下には、さまざまな人が都鄙遠近より、また、さまざまな縁由によって、集い来っていたであろう。法然上人に教えを承け、それぞれ感動の中に専修念仏に精進していったと考えられるが、その人により、その人の主観により、釈義はまたさまざまになる。後になって門下を見ると、また、さまざま見られる中で、愚勧住信は五流、凝然は七流、静見は九流あり、と解したのである。そして消長合従しながら、法然上人の法灯専修念仏義が、時処を超えて伝え弘められていくのである。