『布教羅針盤』が、平成十八年度から『勅修御伝』を取り上げての発刊をはじめて、はや五年の月日が過ぎ、今回の「勅修御伝編」最終刊のテーマは「灯しびを継ぐ」となっています。
「灯しび」と聞いた時、私たちは何を感じ、何を思うでしょうか。その様相から「いずれ消えゆくもの」あるいは「永遠に継承されるもの」等々を連想されると思います。仏教では「寄る辺」としての「法(教え)」を「灯」になぞらえ、後者の意味が託されていることはご承知のとおりです。
では、仏教、そして浄土宗において、灯しびはどのように継承されてきたのでしょうか。両者とも開祖・宗祖の志を継いだ弟子達が教団を確立し、彼らの並々ならない努力によって永い歳月、教えが継承されるという、いわば「組織(教団)の継承」と「法の継承」がなされてきたのです。
法然上人が生きたのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけておこった仏教変革の動き、つまり鎌倉仏教が興起した時代。四十三歳の時、善導大師が著した『観経疏』の「一心専念弥陀名号」の文を見て感銘をうけた上人は浄土宗を開宗され、浄土思想の普及により誰もが救われる道として「専修念仏」の教えを確立しましたが、天台宗や南都仏教などから批判を受けます。念仏の思想はさることながら、既成仏教側が一番非難したのは「浄土宗には相承血脈(師資相承)がないではないか」ということでした。
これに対し法然上人は、『選択集』第一章において、道綽の『安楽集』と『唐高僧伝』『僧高僧伝』を典拠に、
今言う所の浄土宗に師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。(中略)今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。已上『安楽集』に出ず。二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感法師・少康法師なり。已上唐宋両伝に出ず。 | |
(聖典三・一〇三―一〇四頁) |
と、浄土宗の相承血脈に二流あることを明らかに示して反論している事実が読み取れます。どれだけ「法の継承」が重要視され、教団維持の中心であったかがうかがえます。(『選択集』には、二つの相承のうちどちらを取るとも記されてはおりませんが、『逆修説法』五七日条などを拝読すると、後者の説の曇鸞以下を浄土五祖とされていることが知られます)
では、仏教ではどうだったのでしょうか。釈尊入滅後の法灯は大迦葉に継承されましたが、教団(僧伽)については第二結集時に保守的な上座部と進歩的な大衆部に分裂しました。
しかしながら、弟子の阿難が釈尊入滅後の教団は何を指針とすべきかとの質問に対し、釈尊は次の句を用いています。
自らを灯明(島)とし、自らを依り所として、他を頼りとせず、法を灯明(島)とし、法を依り所として、他を依り所としないでいなさい。 | |
(『大般涅槃経』) |
この句は釈尊がクシナガラの地で入滅する際、弟子の阿難に対して遺した、有名な「自帰依、法帰依」(自灯明、法灯明)の教えです。
「灯明」の原語である dīpa について少しだけ触れますと、「灯明」あるいは「洲」(島)と訳すべきかについては解釈が分かれますが、「灯明」は暗闇の中で頼りとなるもの、「洲」は洪水にあって頼りとなるものであり、dīpa が「灯明」、「洲」の双方いずれの意味であっても頼りとなるもの(依所)は「自己」であり「法」であることにはかわりません。
ここで、「自らを灯明(島)とし、自らを依り所とする」の解釈について、「自分を頼れ」あるいは「自分の好きなようにしなさい」と捉えられがちですが、『法句経』(第十二章)に次の句があります。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波書店)
先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。 | |
(第一五八) | |
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。 | |
(第一六五) |
これは、自分のことだけを考えよということではなく、私たち人間の煩悩によるゆがみを制御し、自己を正しく見つめて観察することにより現実世界とのつながりを正しく理解し、行動するための最も重要な方法であることを主張しています。「自己を知る」ということは、突き詰めてゆくと「他を知る」ことに繋がっていくからです。
冒頭でも述べましたように、五年にわたり『勅修御伝』を取り上げてきたわけですが、布教師の先生方にご執筆をいただいた原稿を、一つ一つあらためて再読させていただきますと、各稿とも、今の世相に強いメッセージを訴えかけているものと思いを新たにします。
最終刊のテーマである「灯しびを継ぐ」。宗祖の八百年大遠忌のご正当まであと数カ月に迫った今、このテーマの重みを胸に刻み直し、八百年という歴史のある教団とお念仏の教えを一人一人が、漏らすことなく、しっかりと継承していかなければなりません。なぜなら、組織を継承することが、法を継承することとは必ずしも言えないからです。「法」は言葉ではなく、教えを継承し、実践し、成就して証明していくことこそが本来のあり方と思うものです。
特に『勅修御伝』は浄土宗において大変重要な書物ですので、自身の教えの成就のためにも、原典を読むことも勿論大切ですが、この『布教羅針盤』をぜひとも十分に活用していただきたい、そう願っております。
ここで、『遊行経』に遺されている次の句をもって結びにかえさせていただきます。
必ず自己を依りどころとし、 法(戒律と教え)を依りどころとすべきであり、 その他のものを依りどころとしてはならない。
最後になりましたが、今回の発刊にあたりましてもご尽力いただきました布教委員会柴田哲彦副委員長、藤井正雄委員並びに浄土宗布教師会諸先生方のお力添えに深甚の謝意を申しあげますとともに、今後ともご助力いただきますよう重ねてお願い申しあげ、序とさせていただきます。
平成二十二年四月
浄土宗宗務総長 里見 法雄