これからの布教の在り方
現代に宗祖が語るものとして、称名念仏を薦めるに当たって躊躇してはならないことである。宗祖の「身体も、いのちも、財産を捨てても浄土の法門を説くべし」(「聖覚法師に示されける御詞」=『十六門記』第十門)を体すべきであると思う。宗祖流罪の勅命が下ったときに門弟の信空が法然に「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に教化なされては」と言上したのに対し「かねて田舎に行って農夫や素朴な人々に念仏の法門を伝えたいと思っていた、その年来の望みを遂げるいい機会である」と門弟を制したが、再び西阿が師を思うあまり、世間の思惑を考えて教えを説くことを止められてはと申し出たところ、「我、たとい死刑に行わるとも、この事言わずばあるべからず」(『勅伝』三三巻/聖典六・五四四)と、世俗に迎合しない厳しい信仰態度を一貫して述べたのであった。
世俗に迎合しない厳しい信仰態度はそのほかに門弟たちへの遺言として「孝養の為に、精舎建立の営みを為す事なかれ。志あらば、各々群集せず、念仏して恩を報ずべし。若し群集あれば、闘諍の因縁なり」(『勅伝』三十九巻/聖典六・六〇一)と述べたのであった。念仏はいつ、どこでも、どのような形態でも、寺も墓もなくとも、となえられるものであるから、という。当時の仏教界、いや現在の浄土宗を含めての既成教団への批判であり、自戒の詞として受け取りたいと思う。
『布教羅針盤』が平成十八年度に始まり、二十年度で法然の立教開宗まで述べ、今回は立教開宗から入滅までを追ってきた。そして、法然の生涯は慈悲深い母の愛に育まれながら、非業の死を遂げた父の遺言を忠実に守って到達した、万人が皆救われる念仏の教えの帰結は、現在の皆が営む葬儀式、なかでも遺言とも言うべき「一枚起請文」に言い尽くされていると述べたが、次の法然のご法語に止目したいと思う。
生けらば念仏の功積もり、死なば浄土ヘ参りなん。とてもかくても、この身には思い煩うことぞなきと思いぬれば、死生ともに煩いなし。 | |
(『勅伝』二十一巻/聖典六・二八三) |
この短いご法語のなかに、淡々と法然の心境が語られているが、ことばの端ばしに何の気負いも感じられない。まさに生き死にの迷いの世界を超えた、とらわれのない心境がそのままに表現されている。まさに自然のままの、自然法爾の世界である。念仏三味の境地と言ってもよいであろう。法然が目指したものは、仏教そのものの究極的な目的である「生死を超える」、言い換えれば、生き死にの迷いの世界との決別であったと言っていいであろう。
次に第二章「念仏生活とのかかわり」の法話編の原稿を見てみることにしたい。関東地区支部の岩波昭賢師の法話は、「光明遍照(中略)念仏大切に候。能く能く申させ給うべし」のご法語を掲げて、『勅伝』から引いて、法然の遺言と言ってもいい「一枚起請文」の記述と終始変わらぬ心根を見、師の到達した「念仏」の弘通の大切さを戦時中の体験を交えながら語っている。
近畿地区支部の堀芳照師の法話は、「跡を一廟に占むれば遺法遍からず。予が遺跡は諸州に遍満すべし」のご法語を掲げて、その意味するところに始まり、「往生」、「浄土」、それを可能にする「念仏」の意味を、『勅伝』の記述に従い、住蓮・安楽の門弟二人が京都鹿ケ谷で別時念仏を行っていた時の事件、宗祖の流罪の記述を示して、法語を交えながら浄土門の教えを平易に纏めて話を進めている。
中四国地区支部の髙橋宏文師の法話は「念仏」を主題にしたもので、宗祖法然の文字通り外護者であった九条兼実が宗祖の流罪に当たって流刑地での死を思い遣り送った歌に対する返歌に始まり、壇家のなかでも念仏信者のHさんの話や、『勅伝』に出てくる門弟の津戸三郎為守、熊谷次郎直実の話や滋賀県の玉桂寺の阿弥陀如来像の胎内に納められた結縁交名帳の話から「往生」の意味に触れている。
法話の内容は、標題が示すように宗祖法然が専修念仏の教えに至ったプロセスを『勅伝』の記述にしたがって述べるのもいい。立教開宗の事績を述べるもいい。念仏を申す生活態度のなかから語るもいい。要するに念仏をとなえることによって何がどう変わるのかを述べるのもいい。八百年前の教えであろうと絶えず現代の状況と結び付けて聴衆が理解できるように話を進めるべきであることを述べて閣筆する。