比叡山下山後の法然の足取り
「生死を超えた」と言ってよい立教開宗の後、法然の足跡をかいつまんで見てみると、比叡山を下りた法然は西山の広谷に赴き、遊蓮房と出会い、彼の死後、東山の吉水に居を移した。この地は流罪の時を除いて生涯を過ごしている。寿永二年(一一八三)木曽義仲が京都に乱入した日以外は、称名念仏と聖教の読破に明け暮れ、念仏の声に誘われて訪ねてくる者があれば念仏の法門を述べ、念仏の行を薦めるといった静かな生活を送っていたものと思われる。そのことが結果的には足固めの時期になったと思われる。教義の体系化には時間が必要であったからにほかならない。
念仏と聖教の読破に明け暮れる生活も、比叡山を下山してから十年の歳月が流れ、法然の「専修念仏」の教えが広まり、後に第六十一代の天台座主となった顕真が発起人となって南都六宗の碩学を集めて法然の主張を聴取し、意見交換を図った、世に言う「大原談義」あるいは「大原問答」が行われた。ついで東大寺での「三部経」の講説となっていった。
世に「専修念仏」の教えが広まると、反論も一層激しくなっていった。果たせるかな南都六宗の勢力は無視できないところまで成長していたのであった。その結果、起こったのは相次ぐ法難であった。
宗祖の法難の対処の仕方はどうであったろうか。はじめに起こったのは「元久の法難」である。元久元年(一二〇四)十月、比叡山三塔の大衆が大講堂に集会し、専修念仏停止を座主真性に訴えるという事態が起こった。天台の僧である法然が天台に背く行為を行ったことに座主の裁きを要求したのであった。法然はこの危機を避けるために同年十一月七日、在京の門弟たちを集めて自粛を訴える「七箇条制誡」をまとめ、法然以下門弟百九十余名が順次署名し、天台座主に送った。法然は「あまねく予が門人念仏の上人につぐ」として呼びかけたもので、以下に記すと次の通りである(『勅伝』三十一巻/聖典六・四九〇─四九一)。
一、 | いまだ十分に仏教の教えも知らないのに、真言や天台などの諸宗派の教えを非難したり、弥陀仏以外の仏・菩薩をそしったりしてはならない。 |
一、 | 無知の身でありながら、智慧ある人に対し、または念仏の行以外の修行をしている人と、好んで争論を起こしてはならない。 |
一、 | 念仏以外の修行や学問をしている人に対して、片寄った考えでもって、本業を捨てて専修念仏をむりじいに薦めることをしてはならない。 |
一、 | 念仏門には戒行はないと言って、淫酒食肉をすすめ、真面目に守っている者は雑行の人と決めつけて、弥陀の本願を信じている者は罪を犯しても恐れることはない、などと説いてはならない。 |
一、 | いまだ是非をわきまえない愚か者が、仏教の教説によらず、また師説に背いて、ほしいままに私見を述べ、みだりに争論をしかけて、智者に笑われ愚人を迷わすことをしてはならない。 |
一、 | 愚かな者であるのをかえりみず、説教を好み、その上仏教を知らず、さまざまなまちがった教えを説いて、人々を惑わしてはならない。 |
一、 | 仏教でない邪法を説いて、これこそ正法であるとし、偽って師の説であると称することをしてはならない。 |
「以上、一人が説いたとしても、それはすべて法然一身の悪となるのであり、弥陀の教えを汚し、師匠の名を傷つけることになる。一切止めるべきである」と注意し、「この制裁に背く者は、私の門人ではない。それは隣の仲間である。私の草庵に来てはならない」と厳しく門弟たちを戒めた。厳しく対処した法然の姿勢に人間性を窺い知ることができる。
この弾圧も収まった翌元久二年(一二〇五)十月、興福寺の衆徒が念仏禁断の奏上を後鳥羽院に九箇条の過失を書き添えて奉った。その過失とは、次の通りである。
一、 | 新宗を立てるの失 |
二、 | 新像を図するの失 |
三、 | 釈尊を軽んずるの失 |
四、 | 万善を妨げるの失 |
五、 | 霊神に背くの失 |
六、 | 浄土に暗きの失 |
七、 | 念仏を誤るの失 |
八、 | 釈衆を損ずるの失 |
九、 | 国土を乱るの失 |
このなかで、「一、新宗を立てるの失」とは、新宗を立てるには師資相承と勅許が必要であるので、浄土宗の立教開宗は認められないことを意味し、「二、新像を図するの失」とは、弥陀の光明が念仏者だけを照らす「摂取不捨の曼陀羅」を宣教に用いることは誤りであるというものである。最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念を捨て、念仏の真意を誤ること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示した釈尊を等閑視するものであることを言う。そして、この奏上は法相宗の解脱上人の書いたものであるが、南都六宗に天台・真言をあわせた八宗、言い換えれば当時の既成教団すべての要請であることを示すもので、朝廷も無視することはできなかった。
たまたま法然の門弟二人が京都鹿ケ谷で別時念仏を行っていた時に、若い官女二人が法会に参加していたが、法会に感激し、黒髪を落として出家してしまうという事件が起こった。松虫、鈴虫の二人の官女は後鳥羽上皇の寵愛を受けていただけに、上皇の逆鱗に触れ、住蓮、安楽の二人は密通したとの科で死罪、念仏停止となり、法然にも累が及び四国に流されることになった。配流後帰洛が許されたのは建暦元年(一二一一)十一月で、翌年の正月から病床につき、門弟の願いによって「一枚起請文」を記して示寂した。時に建暦二年正月二十五日であった。