三、浄土の再会のために
 
 
浄土宗布教師会中四国地区支部 髙橋 宏文

宗祖法然上人御詠
  露の身は 此処彼処にて消えぬとも 心は同じ花の台ぞ

 平成十九年に異色のベストセラーになった『ホームレス中学生』という小説は、著者で主人公の田村少年が、失職した父親から一方的に「家族の解散」を宣言され、夏休みの間、近所の公園にある滑り台の下でホームレス生活をした経験を綴った物語ですが、そのなかで空腹になって野草やダンボールまで口に入れた彼が、とうとう耐えかねて思わずコンビニエンス・ストアでパンを盗もうという考えが起こったという場面があります。そのとき、不意に脳裏に浮かんだのが亡くなったお母さんの顔でした。

もしお母さんが見ていて、そんなことをしようとしていることを知ったら、どんな顔をするだろうか。それを考えると、とても盗む気にはなれなかった。
(中略)

あの日、もしパンを盗んでいたら、僕の人生がどうなっていたかを考えると、ぞっとする。
お母さんが止めてくれた。
お母さんが守ってくれた。
お母さんが見ていてくれた。 (田村裕著『ホームレス中学生』<ワニブックス>)

また一方で平成二十年の六月、東京の秋葉原で通り魔事件が起こりました。この事件の容疑者は事前に携帯電話を通じてインターネットのサイトに犯行を予告していたのだそうですが、なぜそんなことをしたのかと警察で取り調べを受けたときに「誰かに止めてほしかった」と語ったということです。彼の心には見守ってくれている人の声が届かなかったのでしょうか。

 浄土宗が平成十七年に実施したアンケートの結果が『宗報』に報告されていました。それによりますと、「故人の霊はあなたにとってどのような存在ですか」という問いに対して、全国で実に八五%の檀信徒の方が「見守ってくれている存在である」と回答しています(平成二十年十月号)。また平成十八年末のNHK紅白歌合戦で秋川雅史さんが歌った「千の風になって」の歌が翌年に大ブームを巻き起こしたのも記憶に新しいところです。死後の自分は決して墓所で眠っている存在ではなく、雪や鳥の鳴き声に姿を変えていつでもあなたを見守っているという考え方が人々に受け入れられたのでしょう。幽冥境を異にしていても、その間には常に故人の「見守り」という絆があるという思いが日本人には強くあることがうかがわれます。

 こういう考え方が自然な形で今の日本人の感性にあるのは、私は法然上人のおかげだと思っております。現代はスピリチュアルな癒しブームと言われ、安易に前世や死後の生まれ変わりを語る人が、特に若者を中心に増えておりますが、中世までは罪を犯せば因果応報で地獄をはじめとする悪趣に落ちるという観念が深く根付いておりました。だからこそ誰もが後生を恐れ、救いを求めたのです。厳しい仏道修行には耐えられなくても、念仏をとなえさえすれば誰もが阿弥陀さまに救われ極楽に往生できる、という教えはそれほどまでに革新的であったわけです。

 しかし八百年の歳月を経た現代では、死後の救いが逆にあまりにも安直なものになってしまったのではないでしょうか。誰でも、何の信仰もなくても無条件に死後は「安らぎのあの世」を享受でき、また簡単に次も人間としての生を得ることができるという考え方には違和感を覚えてしまいます。いま私たちは、改めて極楽に往生させていただくことのありがたさと、法然上人の説かれたお念仏の大切さをお伝えしていかねばならないと切に思います。

 いよいよ平成二十三年の法然上人八百年大遠忌が目前に迫ってまいりました。これに先立ち、去る平成十九年には門弟住蓮・安楽に起因する建永の法難により元祖さまが讃岐に流罪になってから八百年ということで、そのご苦労を偲ぶさまざまな行事が行われましたが、冒頭に掲げたお歌は、法然上人を師と仰ぐ九条兼実公が、京の地から去られる上人さまへ、

  振り捨てて行くは別れの橋なれど踏み渡すべきことをしぞ思ふ

という歌を送られたことへの法然上人からの返歌であります。有名なお歌ですから今さら解説も不要に思われますが、朝露にも譬えられるようなはかなき生身であるならば、お互いに京の地、流刑の地で今生の命を終えるかもしれませんが、往生浄土を願う心をもってお念仏をとなえていれば、いつか必ず浄土の蓮の台上でお会いできましょうよ、という意味と私は戴いております。

 法然上人は兼実公よりも十八歳年上で、京を離れた建永二年は御歳七十五歳でした。男性の平均寿命が八十歳近くになっている現代と違って人生五十年と言われた当時にあっては大変なご高齢でありましたから、兼実公にとって土佐への配流はあまりにも心配で、それ故にご自分の所領であった讃岐に変更するように申し出て、幸いその願いは入れられたものの、さすがに流罪そのものにはお許しは出ませんでした。上人のお歳を思うと、今日別れてしまっては二度とお目にかかることはあるまいと、その名残惜しさは尋常ではなかったと思われます。結果的には法然上人はその年の十月には大赦があって、十二月に摂津の勝尾寺に入られ五年後には入洛されますが、皮肉なことに若い兼実公のほうが上人お旅立ちの二カ月後に亡くなられてしまいますので、このときが本当に今生の別れになってしまいました。

 『勅修御伝』には記載がありませんが、より古いお伝記である『黒谷源空上人伝』(十六門記)には、同じく元祖さまが京を離れられる際に示されたお言葉で、

  宿縁空(むなし)からずば同一蓮に坐せん、浄土の再会甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲み、春の夜の夢のごとし。
  (法伝全八〇四)

とあります。花の台のお歌とほぼ同意と思いますが、この後には、

  信謗ともに縁として、先に生れて後を導(みちびか)ん。引摂縁はこれ浄土の楽(たのしみ)なり。
  (法伝全八〇四)

と続きます。仲のよかった者たちが極楽でただ出会うばかりではなく、今生においては敵同士の間柄であった人々をも極楽から同じ台上に導いてあげましょうぞ、と誠に懐の深いお言葉であります。

 お浄土に往生を遂げられた人が極楽でどのような生活をしていると思っておられるか、私は法事のときに檀信徒の皆さんに尋ねてみることがあります。すると多くの方が首をひねっておられますが、あるときなどは壮年の男性から「酒池肉林!」と声がかかり、一同大爆笑いたしました。私たちが俗っぽいイメージで考えると誠にその通りで、毎日温泉にでも入っておいしいものばかり食べて、それでもお金や健康の心配もなく、好きなことばかりして遊んで暮らせるところ、という姿を思い描いてしまうのではないでしょうか。私も行ったことがあるわけではありませんから、お経に書かれていることをお伝えすることしかできませんが、極楽では遊んで暮らすのではなく、悟りを開いた仏さまになるべく、清らかな仏道生活をなさっているのです。もちろん「無有衆苦 但受諸楽」と苦しみのない世界ですから難行苦行というわけではないでしょう。極楽に往生された方はこのように大乗の仏・菩薩さまとなられるわけですから、衆生済度がその願いであります。極楽に往生した後に衆生を救うこと、具体的には同じ極楽に導くことこそが願いなのであります。

 当山の檀徒であるHさんは、熱心なお念仏信者でした。私の母が始めた当山の吉水講にも設立当初から参加され、毎月の念仏会にもほとんど欠かさず出席してくださいました。境内にある墓地に毎日のようにお参りされ、時間が合えば本堂に上がられて私の朝のお勤めと一緒になってお念仏をおとなえしておられました。ある朝私が本堂でお勤めしておりますと、いつものようにHさんが入ってこられたのが雰囲気でわかりました。ちょうど念仏一会のときでしたが、背中に聞こえてくるお念仏の声がいつもと違って格段に大きいのです。私もつられて早朝からの高声念仏となりました。勤行を終わって振り向くと、そこには満面に笑みを浮かべたHさんの姿がありました。私がおはようございますと声を掛ける前に、開口一番、

  「お尚さん、今朝は本当に嬉しいんです。こんなに嬉しい思いでお念仏させていただいたことは今までもなかったです」

と一気に話し始めました。深刻な相談事ではなく嬉しい話というのですから、私も身構えることなく楽な心持ちでHさんのお話をうかがいますと、

 「お尚さん、今朝夢にお義母さんが出てこられたんですよ。それがね、にっこりと笑って本当に嬉しそうだったんですよ。それで今朝は真っ先にお墓参りにきたんです。そうしたら本堂から木魚の音が聞こえるから、上がらせてもらって一緒におとなえさせていただきました」と言われます。

 数年前に亡くなられたお姑さんが夢に出てきたことがなぜそんなに嬉しいのか、私にはよく理解できませんでした。詳しく訳をうかがってみますと次のような次第だそうです。
Hさんは嫁いでこられてから三十年以上、家業の食料品店を手伝いながらずっとお姑さんに仕えてこられました。厳しいお姑さんだったらしくH家のしきたりやら何やらこまごましたことまで随分注意されたそうです。Hさんも大正生まれの女性ですから、表向きは従順に働きましたが内心は不平や不満が渦巻き、怒りが爆発するのを懸命に抑えていたのが若い頃のほろ苦い思い出だそうです。やがてH家の生活も長くなりいつしか自分の方がお姑さんより家庭での立場が強くなると、次第にそうした恨み心も忘れておりました。ですが、亡くなる数年前から寝たきりになったお姑さんを甲斐々々しくお世話しながらも、ふと若い頃の恨みが思い起こされ、ときに「早く死んでしまえばいいのに」という気持ちさえ浮かんできたのだそうです。自分にそんな考えが浮かぶこと自体が恐ろしく感じられ、必死で打ち消そうとするのですが思えば思うほどしっかりと心に焼き付いてしまいました。傍目にはお姑さんを本当に優しく介護され、行年百歳の大往生を遂げられたあとのご葬儀やご法事なども先頭に立って世話しておられたHさんに、心の中ではそんな葛藤があったことなど、私も初めて知りました。

 「それがね、お尚さん、周りからはよく世話したねえと褒められましたが、極楽に往生されたお義母さんには、私の心の中なんかすっかりお見通しでしょ。私もいずれお浄土に生まれさせていただきたいとは、もちろん思うんですが、極楽でお義母さんにお目にかかるのが怖くて、恥ずかしくて・・・。合わす顔がないとはこのことですよね、本当に気が重かったんですよ。そこに今朝の夢ですよ。お義母さんが私に向かって本当に優しそうに微笑んでくれたんです。ああ、許してもらえたんだ、極楽で待っててくださるんだと思うと嬉しくて嬉しくて。本当に涙が出てきました」

 Hさんが急に亡くなられたのはそれから数カ月後のことでした。もともと血圧は高かったようなのですが、前夜の夕食後、少し気分が優れないからと早めに床に就かれ、翌朝起きてこられないのを不審に思ったお嫁さんが自室に様子を見に行ったら布団の中で息を引き取っていたとのことです。吐瀉物が喉に詰まったのが原因だそうですが、枕経にうかがったときの私には苦しんだ様子は感じられず、笑みさえ浮かべているように見え、本当に安らかなお顔をしておられたのが印象的でした。きっと安心して極楽の蓮台上でお義母さんと再会できたことでしょう。

 先にもお話しましたように極楽は苦のない世界です。怨憎会苦は八苦の一つですから、そんな娑婆世界の煩悩に由来する苦などはありえないはずなのです。きっとお姑さんがHさんに「大丈夫ですよ。何の心配もいりませんから安心して極楽に往生させていただきなさい」とお導きくださったのだと思うのであります。

 『勅修御伝』には元祖さまのご生涯とともに、上人をとりまくさまざまな方々の生き様・往生の様子も伝えられております。津戸三郎為守が、元祖さまが往生された建暦二年の秋に自ら腹を切り五臓六腑を取り出して川に捨てたにもかかわらずなかなか臨終とならず、翌年の正月十五日にやっと往生を遂げることができたという話とか、関東の御家人甘粕太郎忠綱が法然上人のお袈裟を鎧の下に掛けて戦場に赴き、太刀折れて瀕死の重症を受けたときに合掌して高声念仏のうちに往生を遂げた話とか、まさに往生の武勇伝とも言うべき逸話が記されております。

 そのなかでも私がとくに深い感慨を抱きますのは、熊谷次郎直実のお話でございます。故あって出家する以前は比類なき剛の武士であったがために、戦の場とは言え数多くの殺生を繰り返してまいりましたから、後生は地獄に落ちるに違いないと怖れておりました。万一救われることがあるにしても手足の一本や二本を切り落とす必要はあるだろうと覚悟していたところ、法然上人が「罪の軽重を言わず、ただ念仏だにも申せば往生するなり。別の様なし」と仰せられたのを聞いて、あまりの嬉しさにさめざめと泣いたと伝えられているほど、一本気で激しい性格の持ち主であります。その直実が念仏行者となった後に望んだのは「上品上生の往生」でありました。上品上生でなければ、それより下の八品での往生は望まないとさえ誓ったわけであります。

 何故か。直実が言うには、もちろん極楽に往生できたのであれば下品下生であっても限りなく幸せなのだけれども、天台の解釈では上品上生で往生した者だけがこの世に来生できるとあるために、自分ひとりだけが極楽で安楽の境地を楽しむのではなく、自分と同じように多くの罪を作ったために悩み苦しむ多くの者たちを救いたいのだ、との思いからでした。まさしく善導大師が「発願文」に説かれるところの「彼の国に到り已って六神通を得て十方界に入って苦の衆生を救摂せん」の決意、あるいは「還来穢国度人天」の思いそのものの尊い願であります。

 その後直実は、「不背西方」を実践した話など数多くのエピソードを残しながら建永二年(一二〇七)九月四日、二度目の予告をしていたその日、高声念仏のうちに往生の素懐を遂げましたが、『勅修御伝』にも「真に上品上生の往生、疑いなし」と記されております。このように考えてみますと、今も法然上人とともに上人のお弟子さま方もまた、私たち念仏行者を見守り、お導きくださっているに違いないと思われ、ありがたさに頭が下がる思いがいたします。

 先日、岡山就実大学の土井通弘先生に滋賀県信楽の玉桂寺阿弥陀如来像に関するお話をうかがいました。皆さまもよくご存知のように胎内に四万六千人もの名前を記した結縁交名帳が納められていた阿弥陀さまであります。源智上人の直筆による願文には「もしこの中の一人、先に浄土に往生せば、忽ちに還り来たりて残衆を引き入れ、もしまた愚痴の身、先に極楽に往生せば、速やかに生死の家に入りて残生を導化せん」とあります。つまりこの交名帳に名前を記された方々が皆お念仏によって極楽の縁に結び付けられていることを示しておられるわけでございます。この交名帳に記されているお名前には、上は天皇や鎌倉の将軍から下は東北の無名の農民に至るまで、日本中のあらゆる階層の者がおります。しかも平家の血筋をもつ源智上人にとって、源氏は仇の間柄であるにもかかわらず、源頼朝の名と平清盛の名とを両方見ることもできるのです。現世の地位や怨恨などをまったく超越して、極楽で一蓮托生、それこそが俱会一処の真髄でありましょう。

 それ以前にも仏像の胎内に何かを納めることはありましたが、仏舎利とか宝玉といったものが主であり、土井先生によりますとそれは、聖性空間である仏像胎内へ納めることによって仏像自体に入魂する意味があったのだそうです。しかしこの玉桂寺の阿弥陀如来像では、阿弥陀像の胎内がそのまま極楽の空間として捉えられ、すでに往生された方といまだ娑婆世界に住している者たちとの出会いの場として、まさしく同一蓮台上にあることを意味しているということです。仏像胎内の捉え方の転換が行われた最初期のものであるとのことで、誠にありがたい世界と言わざるを得ません。先に往生された方は、娑婆とお浄土と境を異にしていても、心はつながっており常に自分を見守ってくださっています。そして、いずれ再会できるという安心感こそがお念仏の現世利益であります。

 私にもすでに往生の素懐を遂げた父母、そしてまた親身にご指導をいただいた諸先生方など極楽でお目にかかりたい方がたくさんおります。きっとお待ちくださっていると思いますが、今このときにお念仏を不断におとなえすることこそが、法然上人をはじめとする先に往生された方々の見守りに応えることでありますし、今もなお近しい間柄であることを実感することでもあります。たとえ八百年の時間差があっても、極楽で法然上人がお待ちくださっております。お目にかかれたときに「よくお念仏したね」と褒めていただけるように生涯をかけてお念仏に励みたいものです。

合掌 南無阿弥陀仏