二、死生を超えて
 
 
浄土宗布教師会近畿地区支部 堀 芳照

(讃題)

  慎み敬って拝読し奉る、元祖大師法然上人ご法語に曰く、   「跡を一廟にしむれば、遺法遍からず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし」と。 (十念)

 どうぞお楽にしてください。私は、京都は伏見から参りました、堀芳照と申します。どうかよろしくお願いいたします。

 日本漢字能力検定協会が、漢字の奥深い意義を伝授する活動の一環として、毎年年末にその年の世相を表す漢字一文字を公募していますが、平成二十年は、全国十一万一,二〇八人の応募の中から「変」という字が選ばれました。変化の「変」であります。政治や金融情勢、食の安全性に対する意識や温暖化による気候異変など、今年は変化の多い一年でした。来年は希望のある、明るい未来へ変わっていきたいという願いが込められているようでもあります。

 この世の中のものは、みんな移り変わっていきます。しかし、変わらないものもあります。ご本尊、み仏さまの前には、お燈明があがっています。その炎は下から上に、逆に、水は上から下に流れていく。天地自然一切の道理、決まりごとは、政治が変わっても、社会が変わっても、人間が変わっても、変わるものではありません。そのことにお気づきくださいましたお釈迦さまのみ教えも、時代が変わっても人間が変わっても変わるものではありません。そのお釈迦さまのみ教えを、お念仏の元祖、浄土宗の宗祖、法然上人のお言葉をそのままに、お伝えをさせていただくのがこの席であります。

はじめに拝読をさせていただきましたご文は、法然上人のお伝記『勅修御伝』三十七巻「上人往生」に記された一節であります。

 法然上人は七十五歳の時に、建永の法難と申しますが、お弟子の住蓮・安楽さんが起こされた事件により、四国へのご流罪がございました。しかし、それはすぐに許され、四年間は大阪箕面の勝尾寺にお留まりなされて、京都にお帰りになりましたのは、建暦元年の十一月二十日。明けて正月二日より「不食の所」と、お伝記にはありますが、食べ物が喉を通らなくなられた。その法然上人に、正月三日、法蓮房信空上人というお方が、この方は、法然上人が比叡の黒谷にいらっしゃった時よりお側におられたお弟子であります。お師匠さまのご様子を見ておりますと、もうあまり、そのお命も長いようには思えず、今のうちに後々のことを尋ねておかないといけない。そうご心配なさって、「古来の先徳みなその遺跡あり。しかるにいま精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いづくをもてか、御遺跡とすべきやと」とお尋ねなさいます。

 古来の先徳、伝教大師最澄さまには比叡山、弘法大師空海さまには高野山という立派なご遺跡があります。しかし、お師匠さまには、まだ、一つのお寺もございません。お亡くなりになった後、吉水の禅坊、大谷の禅坊、加茂の禅坊、白川の禅坊、他にも色々ございますが、一体どちらをご遺跡としたらよろしいでしょうかとお尋ねになったのです。

その時、お答えになられたお返事が、はじめに拝読をさせていただきました「あとを一廟にしむれば遺法あまねからず。予が遺跡は諸州に遍満すべし」のお言葉であります。

信空さん、あなたのご心配もよくよく分かりますが、私の亡き後、ここが私の遺跡であると、もし遺跡を一カ所に定めてしまうと、私の勧めているお念仏の教えが、そこに止まり、広く伝わりにくくなる。私が生涯をかけて勧めてきたことはお念仏を広く弘めることであります。お念仏の声するところは、どこであっても、私の遺跡であります。「念仏を修せんところは、みなこれ予が遺跡なるべし」と仰せられました。

 私の一生は、お念仏の教えを弘めることで、お寺などの遺跡を遺すことではありません。お念仏を人さまの心に立てることが、私の一生涯の仕事であります。だから、お念仏の声がするところは、お念仏を申す人がいるところは、町の中であっても、山の中であっても、海辺であっても、どこであっても、みんな私の遺跡でありますと、お答えになられたのです。私の遺跡は建物を遺すことではない、お念仏の教えを後の世に遺すことであると仰せられたのであります。

 法然上人四国へのご流罪のお話、先ほど少し申し上げましたが、お念仏が弘まってまいりますと、南都北嶺、奈良の仏教や比叡山からの弾圧も激しくなってまいります。

建永元年十二月九日、後鳥羽院上皇が熊野へ参詣の留守中、法然上人のお弟子、住蓮・安楽さんが、院に仕える松虫・鈴虫という名前の二人の女官を院の許可なく出家させたということで、帰京した上皇さんの逆鱗に触れ、翌年二月九日、住蓮・安楽さんには死罪、弟子の不始末は師匠の責任ということで、二月十七日、法然上人には四国へ流罪の勅旨が下ります。その時、お弟子たちは、「お師匠さまがこのような罪を受けられるのはお念仏があまりにも弘まり過ぎたからです。しばらく、お念仏の教化を止めていただければ流罪も許されるのではないでしょうか」と進言いたします。

 しかし、法然上人は「流刑さらに恨みとすべからず。(中略)頗る朝恩ともいうべし」(『勅伝』三十三巻/聖典六・五四三─五四四)と仰せられたのであります。私はもうすぐ八十に近い歳を迎えようとしています。このまま都に住んでいても、もう余命は幾ばくもないと思います。都で皆さんと一緒に住んでいても、この世の別れはもうすぐ来ると思います。ここで皆さんと別れても、またすぐにきっとお浄土で再会させていただけます。これまでの私は、ほとんど都にいて、ここを離れたことがなかった。今、四国へ行くことになり、四国の方々にお念仏を弘めることができます。この度の流罪は朝恩なり、朝廷のご恩である、と仰せられたのであります。知らないところへ行き、お念仏を弘めることができるのは有り難いことであると仰せられました。

 また、西阿というお弟子が、法然上人が四国へ出発なさいます時、法然上人の前に立ちふさがり、「もうお念仏のことはしばらく休んでください、私たちがどれだけお師匠さまのことを心配しているのかわかりませんか」と申し上げた時、法然上人は、「我たとい死刑に行わるとも、この事言わずばあるべからず」と、たとえこの身が死刑になっても、お念仏を止めることはきません、お念仏を勧めにまいりますと、四国へ旅立たれたのであります。

 そして、その旅行く先々で、お念仏をおとなえすれば阿弥陀さまのお救いに与り、必ず極楽のお浄土へ生まれさせていただくことができる、それがみ仏さまの願いであるからと、身命を擲(なげう)って、お念仏のみ教えをお説きくださいました。

 法然上人は、建物を建立するのではなく、人々の心の中にお念仏のみ教えを建立してくださったのであります。

 私の一生涯の仕事はお念仏を弘めること、お念仏の声するところが、私の遺跡ですよと、信空上人に言い残されて、建暦二年正月二十三日には、勢観房源智上人に「ただ往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には、別の子細候わず」と、「一枚起請文」をお書き残しくださり、そして、その二日後、建暦二年正月二十五日にご往生なされたのであります。

 ただ往生極楽のためにお念仏を申す。

 この「往生」という言葉ですが、仏教用語が世間一般では間違って使われることがよくあります。「今月の支払い往生するなぁ」「不景気で往生するわ」など。また、「雪で列車が立ち往生」といった具合に、困った時や難儀した時に使っていますが、本当の意味はそうではありません。「往生」とは、お経の中に「捨此往彼蓮華化生」とありますように、此を捨て、彼に往き、蓮華の中に化生する、ということです。此とは此岸、私たちが日々暮らしている、悩み苦しみ、悲しんだり争ったりしているこの世界。これを娑婆世界と言います。彼とは彼岸、悩み苦しみのない理想の世界、み仏さまの世界。この娑婆世界を厭い捨てて、み仏さまの世界へ往きて、蓮の花の台に化生させていただく。「捨此往彼蓮華化生」の中から「往く」という字と「生まれる」という字、この二文字がとられて「往生」という言葉ができました。だから往生とは、困ったり難儀したといった意味ではないのです。

 「往生」とは「往き生まれる」ということです。お念仏の信者さんは、この世の生命が途絶えたらそれで終わりではない。必ず阿弥陀さまに迎え摂られて、阿弥陀さまのまします極楽のお浄土へ往き生まれさせていただく。阿弥陀さまのみもとに生まれさせていただくのであります。また、この「往生」を下から上へ読み上がりますと、「生きて往く」と読むこともできます。お念仏の信者さんは、この世の中を喜んで生き抜いて生き抜いて、最期の時には必ず極楽のお浄土へ往く。つまり、この世も後の世も大切です。この世も後の世も幸せにさせていただくのであります。その幸せとは、お金があるとかないとか、そんなことではありません。人から見てはどうであれ、自分自身がもうこれで十分です、幸せですという心を持たせていただくのであります。

  「坂三里 つらさが楽し 里帰り 若葉のあなた 桃の咲く家」(田中木叉)

というお歌がございます。これを、

  「坂三里 つらさが楽し 里帰り 峠のあなた 母の待つ家」

と詠い変えたら、坂道三里の登り方がよく分かるのではないかと。何の目的もなく登り坂を三里歩けと言われたらつらいことです。しかし、坂道を三里登った向こうには、私を産み育ててくださった、やさしいお母さんが待っていてくださる坂道なら、この体はつらいけれども、会いたいという喜びの心で歩いていくことができるのではないかと。苦しみを苦しみとして受けながらも、苦しみが苦しみでなくなる、それが有り難いお念仏の信仰であります。

 私事ですが、ここ数年、つらく悲しい別れが多ございました。平成十六年二月に実父が、同じ年の七月に実母が亡くなり。年が明け、平成十七年の四月に師匠の岩井信道先生が、八月には、若先生と呼び、お話のご指導を受けていた羽田惠三先生が、また、平成十八年の八月には兄のように慕った白川元昭先生が遷化なさいました。この世の別れは、本当につらく悲しいことです。しかし、この世の別れが最後ではない。もう一度お出会いさせていただける世界がある。お念仏は阿弥陀さまが極楽での再会をお約束くださった有り難いみ教えであります。

 私は昭和六十年より岩井先生のカバン持ちをしながら、お話の勉強をさせていただいておりました。確か平成二年であったと思いますが、その岩井先生より「今、羽田さんとこの老僧が病気で困っておられるから、お手伝いに行ってもらえませんか」と頼まれ、数年間、月参りなどのお手伝いをさせていただいておりました。その時に、羽田先生もご養子であったので、養子の心得とか愚痴とか話しながら、お話の勉強をさせていただいたのであります。平成四年、私がはじめて輪島の法蔵寺さんへ五重のお話に行くことになり、不安で不安で仕方がなかった時、「私の前で話してみなさい」と、拙い話を十席聞いてくださり、ご指導くださったことは今も忘れることができません。

 その羽田先生が、平成十六年七月、膵臓ガンの宣告を受けられます。余命半年。一体どんな思いでいらっしゃったのか。私たちの前では、まともに字も書けないような臓器にガンが、ここをやられたら人生卒業ですと、しかし、卒業というのは中途退学ではない。人として成すべきことを成し終えて、はじめて卒業と言えるのですよと、穏やかに接してくださいました。そして、

 「日ごろ説く教えはすべて今日の日の、我が身のためと思い知らるる」
と。日頃、人さまの前で、お念仏のお話をさせていただいていた。それは誰のためでもないこの私に、道を間違わないように言い聞かせていた話であった。すべては今日の我が身のためであったと話しておられました。

 平成十七年七月十九日、病室へお見舞いに伺い、「何か私にできることがあれば」と申し上げますと、「お念仏をとなえてください」とおっしゃいました。先生からすれば、まだまだ私はお念仏が足らんからなぁと思いながら、「はい、精進いたします」と答えますと、「いや、私のためにとなえてください」とおっしゃり、「これからは、岩井先生や私に代わってお話頑張ってくださいね」と、お言葉をくださいました。私は何も答えることができずに、また寄せていただきますと、病室を出たのであります。その時はお盆がすんだら伺おう、また会えると思っていましたが、それが、この世での最後の別れ、最後の言葉となってしまいました。本当にこの世の別れは、つらく悲しいものであります。

  「生きてよし 死してまたよし 極楽の弥陀のみ許に 生まるうれしさ」

 羽田先生は、命ある限りお念仏を喜び、やがて眼を閉じたならお説教で導いてくださった先生方、お父さんやお母さん、お友達や先立っていかれた方々に必ず会わせていただくことができると信じたなら何も心配はない、生きてよし、死してまたよしと、お念仏のみ教えに出会わせいただいたことを喜び、一日一日をみ仏さまと共に生き抜かれたのであります。

 法然上人のお歌に、

  「生けらば念仏の候積もり、死なば浄土に参りなん。とてもかくても、この身には 思い煩うことぞ無きと思いぬれば、死生ともに煩い無し」とございます。

 命があろうとも、命終わろうとも、この世も後の世も、お念仏の声するところ、いつもみ仏さまは添いまして、お守りくださいます。お念仏さえ申せば何も心配することはないとお示しくださいました。

 諸行無常と申しますが、世の中のものは移り変わっていく。形あるものは壊れていく。

 しかし、法然上人のお示しくださった、私たちの心の中にお遺しくださったお念仏のみ教えは、お念仏申す人がいる限り、いついつまでも心の中に不変の遺跡となるのであります。「念仏の声するところ、予が遺跡なり」であります。お念仏申す人がいるところに法然上人はいてくださるのであります。

 お遺しくださったお言葉を、この私のためと有り難くいただき、日々の暮らしの中にお念を共々に精進させていただきたいと思います。

同称十念