第2章◎ 念仏生活とのかかわり
  一、死生を超えて

 
 
浄土宗布教師会関東地区支部 岩波 昭賢

(讃題)

 『勅修御伝』二十五巻を拝読するに、

  「一々の光明遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず(中略) 今、極楽を求めむ人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に照らされんと思食(おぼめめ)すべし。これに就けても、念仏大切に候。能く能く申させ給うべし」と。 (十念)
  (聖典六・三七八)

 念仏の元祖法然上人は、父の遺言忘れ難く、一切衆生救済の道を求めて難行苦行され、遂に八万四千の法門の中核である他力本願念仏の門に到達された。仏教は他人事としてしか思っていなかった庶民にとって、正に青天の霹靂であったに違いない。つまり法然上人によって仏教が大衆の前に開放されたと言っても過言ではない。しかし当時の仏教界にとっては大問題であった。滅後に至って法難にあった例は日本仏教界には余り例がない。法然上人の教えがいかに正しいものであるかは論ずるまでもないが、法然上人は耐え抜いて末代の我等に浄土の法門を伝えられたのである。

 私は、昭和二年の生まれだから八十三歳になる。まさかこんなに生きられようとは夢にも思っていなかった。私どもの生まれ育ったのは、戦争に明け暮れた時代であり、〝ほしがりません、勝つまでは〟〝月月火水木金金〟と、土曜日曜のなかった時代であった。若い人達にその頃の話をすると「またあの話しかえ」と言って相手にしてくれない。いや結構なことである。戦争のことなどとっくに忘れてほしいのである。忘れ去って本当に再びあの悲惨な思いは繰り返さないでほしいと願うのであるが、最近の時勢はおかしな方向に向かっているように思えてならない。

 法然上人が、ご入寂二日前に愛弟子源智上人に残された「一枚起請文」は名文であるのみならず、我々に残された遺言であると受けとりたい。源智上人が母に伴われて法然上人の室へ来られたのは十三歳の時と伝えられる。

 法然上人は、弟子として預かることを何度もお断りになられたのだが、結果的に入室をお認めになる。十三歳の源智上人とご自身が歩んでこられた少年期と重なった時、その頃のむごい体験をこの少年に味わわせてはならぬとお思いになったからに違いない。
常随源智上人は、平家の流れをくむ一人であり、やがて成長して後の将来を考えると法然上人は、この弟子に〝ただ一向に念仏すべし〟とご自身の最後のお言葉を残されたと思いたいのである。

『勅修御伝』二十一巻他力念仏の段で、

  念仏の数について自力、他力の念仏について自力他力に及び三心を起こしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に唱うれども、しかしながら願力を仰ぎ他力を憑みたる心にて唱えいたれば、掛けても触れても、自力の念仏とは言うべからず。
  (聖典六・二九三)

と結んでおられる。

 お念仏の申し方にはいろいろな形がある。同行が一処にこもり別時念仏を修する方法、一人で道場一室にこもって申す方法、仕事をしながらとなえる念仏、人さまざまであるが、習慣とはこわいもので、私ごとで恐縮だが、私は車を運転中にお念仏を申すことが習慣になっている。一時間で約三千遍、自坊(長野県上伊那郡辰野町)から長野市の善光寺まで約二時間なので、五千遍から六千遍のお念仏が出来る。さらに、これも習慣だろうか、床に入ってから二千遍、朝千遍、おつとめ時千遍。こうしてみると一日けっこうお念仏を口にしていることに気付かされる。要は習慣である。自力、他力と、強いて区別することはないと思う。自然に、いつでもどこでもお念仏が口に出ることの習慣を身につけることが大切ではないだろうか。

 私ごとのみ書いて恐縮だが、私の父は四十九歳で遷化した。私は六歳で、十一人もの兄姉弟妹の六番目で小さくなって父の臨終を見守っていた。母が父の口元に耳を寄せるとすぐ頷いて、押入れから一本の軸を取り出し父の枕元に掛けた。その軸は父自筆の三尊来迎図であった。来迎図に向かって内仏が安置されていた。内仏の御手から父の手に一本のひもが渡された。法類の和尚さんがお念仏をとなえると、私達もその声につられるようにお念仏をとなえていた。部屋いっぱいのお念仏と見事な臨終行儀であった。私達は説教法話でよく三種行儀を口にするが、臨終行儀の段ではよく引用させていただいている。私の子供の頃までは、よくお檀家さんから要望があって、父がいそいそとお衣片手に出て行った様子が眼に浮かぶのであるが、最近は、ほとんどが病院で亡くなることが多く、家の者が知らぬ中に亡くなるケースも目立ち、考えものである。五重相伝では三種行儀を説かれるので、浄土宗もしっかり受けとめていく必要があると思う。

 人の嫌がる軍隊へ志願してくる馬鹿もあると知りながら、昭和十八年六月、私は歓呼の声に送られて故郷を後にし、飛行予科練習生として神奈川県の藤沢海軍航空隊に入隊した。土曜、日曜、祭日のない猛練習の日夜が続いた。やがて実習部隊といって実戦に参加することになる。初めに派遣された部隊は、四国の松山海軍航空隊であった。この頃になるとアメリカの航空機がすでに日本本土を空襲するようになっていた。

 入隊して数日後、アメリカの戦闘機が数十機飛来してものすごい空中戦があり、何人かの飛行兵が戦死した。しかし当時の日本海軍の航空機の性能も素晴らしいものであり、源田実大佐の率いる三四三航空隊は戦闘機紫電を擁し果敢にグラマンやP三八と交戦した。やがて、まだ先端の長崎は大村航空隊に移動するのであるが、ここであの八月十五日を迎えることとなった。

 今日は、天皇陛下の玉音放送があるから全員飛行場へ集合という命令であった。私達兵隊は、「いよいよ来るべき時が来た」と覚悟を新たにした。天皇自らが先頭にたって日本を守ろうという放送に違いない。まさか、日本が戦争に敗れポツダム宣言を受けて敗戦国になろうとは夢にも思っていなかっただけに、全員があっけにとられた一瞬でもあった。
私は前述したとおり、昔の中学生半ばで自ら志願して戦争に参加したのだから、死ぬのは当然のことで、天皇のため、国のために命を捧げることは最高の美徳であり、使命でもあると信じていたので、天皇や指導者の考えがどうしても胸におちなかったのである。しかし、志願していよいよ海軍の軍人として名誉ある一歩を踏み出す日、信州は辰野駅のホームで軍用列車に乗ろうとした時、ほんのわずかな時を計って、北澤校長が、つかつかと寄ってきて、私の肩に手を置き、小さな声であったが力強く「死んではいかん、死んではいかん」と言われた言葉が耳をかすめた。

 玉音放送を聞いた時、正直言って少年の心は「生きて帰れる、生きて家に帰れる」という喜びに満ちていた。終戦処理に一週間ほどを費やし、長崎を後にした。関門トンネルを無事通過し、広島駅構内を徐行する列車の窓から見る風景はすさまじいものであった。原爆で横倒しになった機関車の窓から機関士の腕であろうか、そのままの状態で置きざりにされた姿を見て、少年の心に戦争のむごさを痛感した一幕でもあった。

 「お寺の昭(あき)坊(ぼう)が帰ってきた」。町と言っても田舎町のこと、すぐ情報は伝わっていた。

 母は本堂正面の大戸をいっぱいに開けて私を迎えてくれた。本尊前の燭台にローソクがともされ、私は外陣の正面に座らせられた。母はまず大声でお十念をとなえた。そして本尊阿弥陀如来に向かって「本尊さま、ありがとうございました。一番危険な場所にいた息子をお守りくださり、しかも真先に帰してくださいました。ほんとうにありがとうございました。南無阿弥陀仏」と結んだ。しかし寺の中は、戦火を避けて疎開してきた東京中野桃園小学校の児童達で充満し、落ち着く部屋はなかった。

 やがて十二月、東京へ帰る子供達の顔は、まことに晴れやかであった。戦争はこんな罪のない可憐な子供達をも巻き添えにしたのであった。私、兄二人、姉一人、計四人が戦争に参加した訳であったが、運よく四人とも生きて帰れたことは正に仏天の加護であろうか。

 法然上人滅後八百年を二年後に控えて、浄土宗は八百年ブームに湧いている。大変結構なことであり、法然上人の教えを人々にお伝えする絶好の機会でもある。しかし宗内はさまざまな問題で騒々しい。例の七億事件も決着がついたようだが、正直言って田舎住まいの我々末端には胸に落ちないことばかりである。

 今、法然上人がおられたら何とおっしゃるだろうか。我々末孫の姿をごらんになられ、きっとお悲しみになられるのではなかろうか。法然上人の時代も濁乱末世の時代であり、それが元で浄土教が生まれたものと思いたい。

 法然上人が流罪になるという大変悲しい事件に臨み、なおこれを朝恩と受け止められた法然上人の度量、しばらく念仏を止めましょうと進言する弟子に

  我れ、たとい死刑に行わるとも、この事言わずばあるべからず。
  (『勅伝』二十三巻/聖典六・五四四)

と、弟子達を戒められた信念。私達は何と素晴らしい師を得たものかという喜びが、体中から湧き上がってくるのを禁じ得ない。

 今、法然上人がおられたら……と書いたが、ほんとうにもしおられたら〝お念仏の力で世界に平和を〟、今私達坊さんがしなくてはならない一つが平和運動であろう。私はそういう意味から〝九条を守る会〟の呼び掛け人の一人として名を出している。それはひとえに法然上人の御心を体しての故であり、浄土宗の坊さんとして今いちばん大切な役割の一つと思うからである。法然上人によって日本仏教が開眼されたように、平成の世に念仏信仰が生活に生かされてこそ真の浄土宗の信仰と言えよう。

南無阿弥陀仏