2 法難 

 法然上人の生涯、そして門下の動向を繙くと、必ず法難という語が目に入ってくる。我が国だけでなく、中国仏教史においても、「三武一宗(さんぶいっそう)の法難」などが歴史事象として今日に伝えられている。

 法難という用語については、『浄土宗大辞典』の「法難」の項目で「仏教教団が、他から受けた迫害のこと。破仏・排仏・廃仏・棄釈などの語に対して、被害者たる仏教の側から法難という」と記述し、中村元氏の『仏教語大辞典』に「この語はおそらくは日本中世以降の用語」との解説が見られる。

 法然上人在世中に受けた大きな弾圧は、法然上人七十二歳の元久元年(一二〇四)と、七十五歳の建永二年(一二〇七)の二回で、それぞれ元久の法難、建永の法難と称し、滅後十五年後の嘉禄三年(一二二七)の嘉禄の法難とを合わせて、「法然の三大法難」と通称している。(東京堂出版『法然辞典』参照)

 先述したように『勅修御伝』三十一巻に、

元久元年の冬の頃、山門大講堂の庭に三塔会合して、専修念仏を停止すべき由、座主大僧正(真性)に訴え申しけり。   (聖典六・四八五─四八六)

との記述が見られるが、叡山の東塔・西塔・横川、三塔の衆徒が東塔大講堂前の庭上に会合して、時の天台座主である大僧正真性に対して、法然上人の説く本願称名念仏義を即刻停止させよ、と強訴した。いわゆる、元久の法難であるが、これに対して法然上人は、同年十一月七日、『七箇条制誡』(七箇条起請文)を認(したた)め、門弟に署名させた上で比叡山に送り、適切に沈静化に導びいていったようである。

 原本とされる嵯峨二尊院所蔵『七箇条制誡』を見ると、その題号に、

  普告号予門人念佛上人等

すなわち、「普く予が門人と号する念佛の上人に告ぐ」と読むことができる(大正大学浄土学研究室刊『絵で見る法然上人伝』四八頁参照)。この記述が事実だとすれば、法然上人は門人だけでなく、門人と自称している徒を含めて、告げていることが考えられる。

 その内容大意は、七箇条の項目にわたって、禁止すべきをあげたものである。

(1)一句の文をもうかがわずして、真言・止観を破し、余の仏菩薩を誹謗すること。
(2)無智の身で有智の人に対し、別行の輩に遇って、好んで諍論すること。
(3)別解別行の人に対して、愚痴偏執の心でこれを嫌い嗤(わら)うこと。
(4)念仏門に戒行なしと号して、淫酒食肉を積極的に勧め、律儀を守る人を雑行人と名づけ、本願を憑(たの)むものは造悪を恐れてはならない、などと説くこと。
(5)いまだ是非もわからずして、聖教を離れ、師説にそむき、勝手に私義を主張、諍論し智者に笑われ、愚人を迷乱すること。
(6)痴鈍の身で唱導を好み、正法を知らず、邪法を説いて、無知の道俗を教化すること。
(7)仏教でない邪法を正法とし、偽って師説と号すること。

 以上七ケ条について、法然上人は門人および、門人と自称している人々を含めて、違背せぬよう誓約と署名を厳しく求めたのである。つまり、七ケ条にわたる記述に該当する輩もいて、それをもって旧仏教側から専修念仏に弾圧の正当化主張を避けようとされたのではなかろうか。

 藤原長兼の日記、『三長記』、元久三年(一二〇六)二月十三日の条に、

  沙門行空、忽に一念往生の義を立て、故に、十戒毀化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗ず。
  (法伝全九七一。原漢文)

との記述が見られ、法然上人の門下であった法本房行空は、世に伝える寂光浄土義なる一念往生の義を立て、弥陀の本願を憑みさえすれば、持さねばならない十戒の行業を棄破することも一向に構わぬと称し、さらに余の仏を謗ったりしていたことが記されている。

 同じく、その記述の後に、

  行空は、不当なるに依って、源空上人、一弟を放ち了(おわる)。

と記す文が認められる。源空上人、すなわち法然上人は、道理にはずれた念仏の義を説き続ける行空に対し、毅然たる態度で、はっきりと破門されたことが記されている。このような法然上人の専修念仏弘法に対するひたむきな姿勢と対照的に、自らが立てた専修念仏義に違背する義、これに対しては極めて厳しく対応されていたことは『七箇条制誡』において、

  惣じて此の如くの無法は、慎んで犯すべからず。此の上、猶、制法に背く輩は、是れ予が門人に非ず、魔の眷属なり。更に草庵に来るべからず。
  (昭法全七八九。原漢文)

と記し、自分の門人でもない、魔の眷属だといい切り、自分の草庵に出入りしてはならない、と強い調子で違背者に対する姿勢を表現されている。

 何事によらず、穏やかな性格でおられた法然上人ではあるが、こと、法の問題に関しては、極めて厳しい意志を持しておられたことが知れるのである。
このような厳しさを示めす例としては、『勅修御伝』十一巻、『選択集』撰述の巻で、

  安楽房(外記入道(げきのにゅうどう)師秀(もろひで)が子)を執筆として、『選択集』を選せられけるに、第三の章書写の時、「予(われ)若し筆作の器に足らずば、かくのごとくの会座に参ぜざらまし」と申しけるを聞き給いて、この僧、憍慢の心ふかくして、悪道に堕しなむとて、これを退けられにけり。
  (聖典六・一二二-一二三)

 と記す文を見ることができるが、前述のごとく法然上人は、法に対して極めて厳しい姿勢をとる人であったと共に、教えを実践する人に対しても、同様に厳しく臨んだ人であったことが知れる。

 このような姿勢を貫く法然上人を、大原問答の契機をつくった法印永弁は『勅修御伝』十四巻において、

  法然房は、智慧深遠なれども、聊(いささ)か偏執の失有り。
  (聖典六・一五四)

と評したことが伝えられているが、何ごとによらず、ひたむきな性格でおられたことを傍証する、興味深い言と解さなければならないであろう。

 このような法然上人の内なる性格は、専修念仏を開立し、実践し、弘通された宗祖とし、誠に尊い、の一言に尽きる。そのことも、晩年における専修念仏に対する迫害、すなわち法難に関る一因となっているのではなかろうか。