承安五年(一一七五)、法然上人四十三歳における専修念仏帰入、すなわち浄土宗開宗の後、『勅修御伝』等の記すところの経緯を見ても、文治二年、大原において諸宗学匠と浄土の法門について談義し、建久元年には東大寺において「浄土三部経」を講説し、建久九年には九条兼実の請いにより『選択本願念仏集』を撰述するにいたった。
藤本了泰師の『浄土宗大年表』には、『吾妻鏡』を引用し、『選択集』撰述の翌年、すなわち正治元年(一一九九)に、鎌倉幕府が鎌倉における念仏弘通を禁断、同二年(一二〇〇)同じく幕府が念仏を禁断して僧衣を褫(は)ぎ焼いた、との記録を記している。(『浄土宗大年表』二四頁参照)
この記述の他、『選択集』撰述以前には、専修念仏を表立って禁断し迫害を加えた記録は見られない。
さらに元久元年(一二〇四)には、比叡山の東塔(とうとう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔に所属する衆徒が会して、専修念仏の停止(ちょうじ)を天台座主に訴えたという。
この間の事情に関して『勅修御伝』三十一巻では、
上人の勧化(かんげ)、一朝に満ち、四海に及ぶ。然るに、門弟の中に専修に名を借り本願に事を寄せて、放逸の業を為す者多かりけり。これによりて、南都北嶺の衆徒、念仏の興行を咎(とが)め、上人の化導を障碍(しょうげ)せむとす。土御門院の御宇、門徒の誤りを師範に仰せて、蜂起する由聞こえしかども、何となく止みにし程に、元久元年の冬の頃、山門大講堂の庭に三塔会合(えごう)して、専修念仏を停止すべき由、座主大僧正(真性)に訴え申しけり。 | |
(聖典六・四八五─四八六) |
と記し、この一件を説明している。これを浄土宗の歴史においては「元久の法難」と称している。
この記述に示される法難の背景は、「上人の勧化、一朝に満ち、四海に及ぶ」と伝えるように、この法難が勃発した頃の法然上人は浄土開宗から約三十年の歳月が経過して、本願称名の念仏義の深化、そして人々に対する弘教と勧化は、正に最高の域に到達していた、といっても過言ではなかろう。
石井教道師は『昭和新修 法然上人全集』の序において、
開宗を宣言されたと見てから以後は、ひたすら化他門のみで、自行門は開宗時を限度として足踏みされてゐるに過ぎないと見る傾向がある。(中略)元祖五十一歳の時、「われ聖教を見ざる日なし、木曾の冠者花洛に乱入のとき、ただ一日聖教を見ざりき」と伝え(中略)自行化他の行事と共に研究をも怠らず励まれた事と思はれたる。元祖の思想が、開宗時を期して固定化してしまったと考へるのは寧ろ誤りでないかと思はれるのであり、この立場から元祖教学を眺めて見るに(中略)第一は浅劣念仏期(中略)、第二は本願念仏期、(中略)第三には選択念仏期…(後略) | |
(昭法全四─七) |
と記し、承安五年の回心、すなわち、浄土宗立教開宗の後も開宗以前、叡山における修学時代と、まったく変わることなく聖教を被覧し研鑽を積まれていたことが推考できる。その結果として、法然上人の思想の高まりを考え、
第一期 浅劣期(要集浄土教時代)
第二期 本願念仏期(善導念仏時代)
第三期 選択念仏期(元祖独自の開顕にかかる念仏)
法然上人の生涯において、善導の釈義、『観経疏』「散善義」の文、すなわち、
一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。 | |
(聖典二・二九四) |
周知のごとく、この文との出合いによって、専修の念仏に帰入されたのである。すなわち弥陀の本願力を唯一の依り所として、本願称名の専修念仏に帰入されたわけであるが、その回心によって得た確信は生涯にわたって不変であったことはいうまでもない。しかし回心後、さらなる自行、そして化他に励まれた帰結として『選択集』の撰述があった、ともいえよう。
『選択集』三章に法然上人は、何が故に一切の諸行を選捨して、念仏の一行だけを選取して往生のための本願とされたのか、と設問し、その答を記述されている。
聖意(しょうい)測り難し、輙(たやす)く解すること能はず。然りといえども、今試みに二義を以てこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。 | |
(聖典三・一一八) |
聖意測り難し、と法然上人は人界に居す身にとって、尊い仏の聖意など、とても推し測ることはできないが、と断りながら、一つには、諸行は劣行であるに対して、念仏は勝行であると、また、諸行が難行であるに対して念仏は易行であると主張されていることがわかる。
そして、何が故に、念仏が勝易の行として他の諸行に対して勝れているかという理由を、
名号はこれ万徳の帰する所なり。然ればすなわち弥陀一仏の所有る四智・三心・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在(しょうざい)せり。故に名号の功徳最も勝とす。余行は然らず。各(おのおの)一隅(いちぐう)を守る。ここを以て劣とす。譬へば世間の屋舎のごとし。その屋舎の名字の中には棟梁(とうりょう)椽柱(てんちゅう)等の一切の家具(けぐ)を摂すれども、棟梁等の一一の名字の中には一切を摂すること能はず。然ればすなわち仏の名号の功徳は余の一切の功徳に勝れたり。 | |
(聖典三・一一八) |
と記して、弥陀一仏の一切の内証の功徳と、また、一切の外用の功徳とが摂在しており、弥陀の名号は、いわゆる万徳所帰であるが故に、他の諸行に対して、唯一の勝行であるとの見解を強調された。
以上をもって、石井教道師は、従来伝統的に浄土の諸師が念仏の優位性を「易」をもって説いたのに対し、法然上人は「勝」の義を立てられた、それが選択本願念仏義なることを主張している。(『昭法全』八頁参照)
『選択集』を述作される以前、法然上人および専修念仏の徒に対する特段の迫害はなかったと考えられる。
法然上人および専修念仏の徒らに対する迫害すなわち法難を被る背景の一つは、選択本願念仏の原理化、そして法然上人の存在そのものが大きくなり、やがて社会現象化を辿ることに要因が見出されると思われる。