「悟り」の仏教語としてその絶対性を表すために「阿多羅三藐三菩提」「無上正等覚」「解脱」などの表記が挙げられるが、いずれも「この上ない完全な悟り」という意味である。「悟り」は宗教の三要素である教義・儀礼・教団の一つである。三要素の中の教義は「悟り」が体系化されてなったもので、宗教の顔となり得るものである。
しかし、我々はともすれば宗教の三要素を西欧的な論理構造のなかで問題の解決を図ろうとしているのではないか、ということである。すなわち、西欧的な論理構造はものを対立的に捉える。しかし、東洋的な、とくに仏教の論理構造は、例えれば「煩悩即菩提」「生死即涅槃」のようにものを対立的に、水平的に捉えずに垂直的に捉える「即」の論理をもっている。「煩悩即菩提」とは、我々は煩悩に満ち満ちているからこそ菩提(悟りの智慧)を求める、ということである。よく子供と大人とを比較しているケースがあるが、子供が大人になっていくという意味で、垂直的な思考は大切である。いうならば煩悩は菩提を求める縁(えにし)になるというべきであろう。「生死即涅槃」も同様に考えられる。コンピュータ思考から離れて東洋的な思考でものを考えてみたい。
言葉を換えて表現すれば、東洋的思考論理は、西洋の思考論理と異なってものごとを水平的に処理するのではなく、垂直的に思考するものと見たい。この両者の考え方の一方に固執すれば、対立を生むだけで問題の解決にはつながってこない。両思考を統合的に捉え、両思考が相補関係に立ってこそ、現代の合理思考に対応し得る健全な思考力を構成するものになると見たい。両思考を相対立して捉えるのではなく、両者を統合的に捉えることが本稿を執筆する上での出発点となる。
仏教を受容したときの状況を考えてみると、まず日本仏教の成立についてであるが、いうまでもなく仏教はインドに発し、中国や朝鮮を経由して日本に伝えられた。そこには仏祖である釈尊の教えが連綿として伝わっている、いわゆる「教義仏教」である。しかし、仏教が日本に定着するには、仏教が在地の民俗宗教と接触するなかで、その民俗宗教に吸収されていく、いわゆる「仏教の民俗化」と、仏教が民俗宗教を意味づけて取り込むという、いわゆる「民俗の仏教化」の両作用の結果の習合産物が「見えない宗教」となって日本人の無意識下に沈潜し、目に「見える宗教」である教義仏教の底辺に横たわるという構造を無視することはできない。日本人の死生観を問う場合、如上の教義仏教か、それとも教義仏教の底辺に横たわっているいわゆる生活仏教ないし民俗仏教に焦点を合わせるかによって異なってくるといえる。
第二に大事なことは、仏教界を襲った新しい問題である。急成長した医学・医療がもたらした不妊治療、ES細胞、臓器移植、ターミナルケアなどの新しい課題「いのちとは」の問題である。自己の信仰に合わせて状況倫理的に考えるべき問題であろう。大事なことは、繰り返すと、我々はともすれば西欧的な論理構造のなかで問題の解決を図ろうとしているのではないか、ということである。
第三に、悟りに至るには悟る以前に問題がある。悟りへの当事者の心構えである。いわゆる僧侶としての資質、やる気の問題である。言葉を換えていえば人間性の問題である。
宗祖法然の伝記から浄土宗を開かれたプロセスを見てみることにしたい。叡空の許での宗祖法然の修行は、「湿・寒・貧」の悪条件が人間法然をめぐる環境であったが、「論」すなわち都の喧噪を離れて自由に論じ、学び、行ずることができる叡山は、真剣な求道の雰囲気がみなぎっていたと見るべきである。
浄土宗の宗祖法然の悟り以前の顔
師叡空と法然との間には『勅修御伝』第四巻、第六巻には、次のような二つのエピソードを伝えている。
〈第一のエピソード〉
あるときのこと、天台大師の真意を談じ合って、円頓戒の戒の本体である戒体とはなにか、という議論になった。師の叡空は心法、すなわち心が戒体であるとしたが、師の説に対して法然は色法、すなわち生まれつきのままの身体こそ戒体であると主張して譲らなかった。双方とも自説を主張して議論するばかりで時間はたつばかりであった。
このために、ついに叡空は腹をたてて法然に木枕を投げつけた。法然もまた憤然として席を立ち自室に戻ってしまった。叡空はその後しばらく考えていたが、法然の部屋をたずねて、「あなたの申されたことは、よく考えてみると、天台大師の真意で円頓戒の極意である」といった。師である叡空がわざわざ法然の部屋にまで行って自説を訂正したことは、仏法を論ずるのに私心を持たない、奥ゆかしい態度であった。このことがあった後の叡空は法然を模範とするようになり、師匠転じて弟子になったという。(第四巻)
〈第二のエピソード〉
あるとき、法然は「極楽往生を願う行には、念仏より勝れた行はない」と述べたのに対し、師の叡空は「仏のお姿を心に思い浮かべ考える観仏の方が念仏より勝れている」と答えた。法然は重ねて「声を出して念仏をとなえることは本願の行であるから、最も勝れている」と主張した。それでも叡空は「先師の良忍上人も同じく観仏が勝れているといっていた」という。法然が「良忍上人は先に生まれた(先輩)というだけのことではないか」と述べた。
ここに至って、叡空はまたしても立腹してしまった。しかし、法然は「善導大師は『観経疏』の中で、心をこらした観念の念仏と平素の念仏を説いたが、仏の本願からいってひたすら阿弥陀仏のみ名をとなえる称名を勧めた。このことからしても、念仏が最も勝れた行であることは明らかである。経典や釈文をよくよく御覧下さいますように」といわれた。
この二つのエピソードは、当時における別所聖の、真剣でしかも自由に論じ合う雰囲気のあったことをよく伝えている文言である。栄利栄達を願い、競い合っている場では想像もできない。
第一のエピソードで「仏法に私なし」とはいえ、師の前で自説を披()瀝(ひれき)して譲らなかった態度のなかに、人間法然の姿を垣間見ることができる。人生のなかで善き人との出会いが、人生の中味までも変えてしまうほどの重要な意味を持っている場合がある。法然が黒谷で出会った師叡空の重みが、法然の専修念仏の主張につながっていくといえる。「仏法に私なし」として、弟子の法然の理にかなった言を認めて、法然を師として自ら師弟の礼をとった叡空の熊度に学ぶべきものがある。
第二のエピソードは、師の叡空が法然を師として自ら師弟の礼をとったというエピソードの後の話であるが、文章をよくよく見てみても、法然のとった態度に傲慢とも受け取れる言辞がある。
この挿話は、叡空が観仏の方が勝れているとする旧来の見方に固執して、融通念仏宗の開祖で師にあたる良忍上人もまた観仏が勝れているとしている見解を引き合いに出したところ、法然は叡空の師にあたる良忍上人は、ただ先に生まれたというだけに過ぎない、と答えているのであるから、この言い方はまさに非礼といってもよいであろう。
叡空は一説には藤原伊通の子といわれているから、親ゆずりの磊()落(らいらく)な性格であったと思われる。先に述べたように、法然に師弟の礼をとっているとはいえ、師であることには変わりない叡空が立腹するのも無理はない。柔和で円満な人物像で語られてきた法然の、この場面における倣慢不遜とも受け取れる性向を救済者としてばかりでなく、宗祖として神秘的な装いをとるまでに美化している諸伝記のなかで、強いて残している理由は何であろうか。
法然の人間像についてはしばしば語られてきた。成立年次の最も古いといわれる『源空上人私日記』にはじまって、伝記として最も整備体系付けられた四十八巻を数える『勅修御伝』に至るまでの一連の法然伝は、必然的にさまざまな神秘的装いが付加されているにもかかわらず、専修念仏の救済者として法然上人の人間像を描いている。
仏教者であるならば信仰を主体的に受け止め、俗事に対して超然たる態度で接すべきである。他へのはからいは選択本願の念仏信仰に徹すれば無用なものとなり、念仏一筋の道は世間を超絶する。師叡空が師匠であるとはいえ、称名念仏の一道に、人によらずに法(真理)に従った法然の厳しさは、還愚の念仏、白木の念仏、すけささぬ念仏の一道に通じていくのである。
このことは、師に対して意地を貫き通したというのではない。はからいを捨てるとは、意志の問題ではなく、すでに人間法然はその場にはいないものと見放さなくてはならないであろう。それゆえにこそ、師叡空は法然の理にかなっていることを認めて法然を師の座に着かせたのであった。
後のことになるが、建永二年の法難で、法然に四国配流の宣旨が下ったとき、七十五歳の法然の身を案じた弟子たちの前で「我、仮令(たとい)、死刑に行なわるとも、この事(専修念仏の教え)言わずばあるべからず」(『勅伝』三三=聖典六・五四四頁)と敢然と言い放った法然の心の中に、弟子たちの涙する声が聞こえぬ筈はない。そのときの法然は、あまねく十方の世界を照らして衆生を摂取して捨てたまわぬ阿弥陀如来そのものの化身であったというよりほかに言葉は見当たらない。
このように見てくると、法然が師に背き自説に固執する非道の挙に出たものでなく、法を求める求道心と師の法を見つめる偉大な学識とを見逃すわけにはいかない。それは叡空と法然とが師弟の関係を超えて学問に生き、真理を求めようとする偉大な人師であったということになろう。そのような意味からして、法然は黒谷に隠棲することによってはじめてよい師に巡り会ったというべきである。黒谷での法然はまさに求道の生活そのものであった。
法然が黒谷に引き籠ってから後は、名声と栄達を求める心を全く捨て去り、ただ生き死にに明けくれる迷いの世界から離れる道を切実に求めたのであった。どのようにしたら迷いの世界から離れる道があるのかを究めたいと願って一切経を繰り返し読み、天台宗ばかりでなく、他宗の注釈書に至るまでくまなく読破しない書籍はなかった。生まれ持った天性の知恵と理解力で、それぞれの教義の深奥を究めることができたのであった。
しかし、知識は深まっていったものの、法然の黒谷での隠遁の求道生活が目指したものは、現に苦悩し、救済を求める衆生に、誰でもが救われる道をさし示すことにあり、目指す真の仏の教えを探りかねていたのであった。
この迷いの世界から脱出するために、保元元年(一一五六)、法然二十四歳のときに叡空にしばらくの間暇を請い、黒谷を出て嵯峨の釈迦堂に七日間の参籠をした。
参籠とは、堂宇に閉じ籠って神仏に祈願をこめる風習をいうが、これまで多くの祖師たちが参籠によって、信仰をなお堅固にしていた。この風習は単に「こもる」、あるいは「お籠り」といい、修行僧だけでなく民間にも広まり、今日でもさまざまな形で残されている。ただ江戸期を境にして庶民が神社仏閣に参籠するのは、今日でもそうだが、現世利益を得ようとするニーズが強くなっている。祈願と祈祷とはよく混同して理解されているが、本来、祈願は心に願を起こして神仏の照覧・加護をひたすら願う行為であり、その方向性は衆生から仏に向けられるが、祈祷は修法によって凡仏一如となり、願の成就が計られる点で、その方向性は両面的であるという点で区別することができる。
参籠に引き続き、法然は南都六宗の碩学たちを訪ねた。しかし、諸宗の学匠を歴訪して得られたものは、諸伝が法然の学識の深さに感嘆したと伝えているように、法然の諸宗の理解が正しかったことを証明しただけであった。法然の胸中は期待を裏切られた空しさだけであったことが容易に想像できる。
重い足を引きずって帰って来た法然は、報恩蔵とよばれる経蔵に入り、今まで見たすべての経典をひもとき、諸師の注訳書にも目を通した。そのとき次の一句が目に止まった。すなわち「心を込めてひたすら南無阿弥陀仏のみ名をとなえ、外にいるときも、家にいるときも、座っているときも、寝ているときも、いずれのときでも時間の長短に関係なく、常に念仏をとなえていくのを正定の業という。仏の本願力に乗じて往生することができるからである」という、唐の善導大師の『観経疏』のなかの一句であった。ときに承安五年(一一七五)春三月、法然四十三歳であった。
ついに宗祖法然は「悟り」を開くに至った。しかし、その前段階としてあったものは「よき師」との出会いであったことを忘れてはならない。「悟り」と「邂逅」とは切っても切れない鎖で結ばれているものである。
立教開宗の年次についての論争
従来、浄土宗では浄土開宗の年時をこれまで述べてきた承安五年(一一七五)、四十三歳説をとっている。ところが椎尾弁匡はその著「日本浄土教の中核」(昭和二十五年、大東出版社刊『椎尾弁匡著作選集』第五巻所収)で承安五年叡山からの下山は、高倉天皇への授戒のためであり、その後も台学を講じ、授戒も法華懺法も行っていることから、信仰は念仏往生、行持は天台僧と見て、浄土開宗は六十三歳~七十二歳説を主張した。確かに法然が四十三歳以後も病気祈祷の授戒を九条兼実に行ったことは専修念仏の純粋さと矛盾するといえる。しかも、教学を体系づけた『選択本願念仏集』の撰述が建久九年(一一九八)で、その翌々年の正治二年九月三十日に兼実の妻の病気に授戒しているという事実が、開宗年時についての論争を生んだのであった。
浄土宗に所属する学僧である椎尾弁匡、田村円澄も、また、重松明久や井上光貞の歴史学者もいずれも承安五年説を否定している。開宗年時の問題を措いても、法然が病気祈祷の授戒を拒まなかった、その理由について、田村円澄はその著『法然上人伝の研究』(昭和三十一年、法蔵館)で、南都北嶺からの迫害に対して、『選択本願念仏集』の本心を明かすことなく終始偽装したのだと述べている。また、福井康順は学術雑誌『印度学仏教学研究』(二二号)に発表した「選択集新考・補議」において、法然の専修の純一さは疑問であると見て、その理由を元久元年(一二〇四)冬、叡山の大衆が専修念仏の停止を座主に訴えたときによくあらわれている。すなわち、法然はその年の十一月七日に「七箇条起請文」を草して門弟を誡め、別に「送山門起請文」を記して、天台座主真性に送っている。なかでも「送山門起請文」の冒頭に自ら「叡山黒谷沙門源空」と記し、本文に「旧執なお存す、本心何ぞ忘れん」といっていること、『勅伝』に記されているように、法然は慈覚大師相伝の九条の袈裟を懸け、頭北面西して入寂していること、『唯信抄』の著者であり雜行雜修の人として知られる聖覚をして、法然が法門を信受する者であると告げていることなどから、法然の行状は「内専修外天台」の二重性があると指摘している。
専修思想の論理上の展開という視点に立った場合、専修の思想そのものが天台の祈?仏教的伝統の枠組みのなかで、経典論疏の新解釈に基づく開宗という、宗教学的に分派ないし教派として出発したことから、共通の発生母胎に立つ以上、法然の専修の思想的矛盾が導き出されてくるのは、けだし当然といえば当然であろうと思われる。
旧仏教側の批判・反発にあって、鎌倉新仏教の祖師達の先頭に立つ法然が前代における聖や持経者と呼ばれた先駆者たちの新しい宗教活動の前進的な継承と、祈?仏教からの断絶による専修念仏の純粋性を、いかに保持しえたかどうかは、きわめて大きな問題である。開宗年次の論争で法然に問われたのは、『玉葉』の文治五年(一一八九)から正治二年(一二〇〇)に至るまでの間に九条兼実に対する授戒、およびその妻や長女に当たる宜秋門院任子に対する授戒が行われていることの記述について、専修念仏の純粋性の解釈を巡ってであった。
しかし、専修念仏の思想は救済者、宗教改革者、伝道者として法然を見直す場合、すなわち信仰のレベルに立ってみる場合には、法然に思想的矛盾は見られないといわなければなるまい。例えば、正行と雑行との区別について、「十二問答」や「十二箇条の問答」などがいい例であるが、「十二箇条の問答」の答えを見てみると、
譬えば人の道を行くに主人一人につきて多くの眷属の行くがごとし。往生の業の中に念仏は主人なり、余の善は眷属なり。しかりといいて余善を嫌うまではあるべからず。 (聖典四・四四六頁) |
悟りと現況との間―これからの法話の在り方
現代をどう捉えるかは人によって異なるが、仏法は人間成就の法ともいわれるように、深く自己凝視に始まり、次第に人間凝視へと移って行く。しかし、現代は人間性そのものの喪失が叫ばれている。と同時に人間を取り巻く環境、例えば高齢少子化・自死・いじめの問題等と問題が山積する。極端にいえば、自分さえよければ他人はどうなっても構わないという風潮のなかでその日暮らしを余儀なくされている状況下にある。
このような状況下にある現代人に八〇〇年前の法然の悟りの内容―念仏のありがたさ―をそのまま説いても理解はおぼつかないであろう。なぜ法然が念仏のありがたさを強調したのか、まともに問題に接近するよりも周りからせめ立てたほうがいいと思える。寺院と檀信徒とを結ぶ信頼関係を再構築するためには、八〇〇年前と変わらないのはその時代時代を生きねばならない人間を措いて他には考えられないであろう。
手元に届いた法話二原稿を見てみることにする。東北支部の花田俊岳師が「凡夫」が何ゆえに報土に生まれることが出来るのか、に焦点を合わせて論じ、そのためには念仏をとなえるほかに道はないという結論に導いて行く論法を取っているのは、これまで論じて来た趣旨からみて的を得ているといえる。
同様に、北海道支部の麻上昌幸師の法話も法然の悟りである「念仏」の教えをいろいろな例を挙げて論じ、さまざまな角度から考察する。念仏をとなえていると仏さまが、仏の姿は見えなくとも我が身に寄り添うようにして下さるのと同様に、嬉しい時も悲しい時も決して一人ではなく、母も法然さまも一緒であると、「名体不離の徳」として尊崇する念仏のご利益を挙げている。
このほかに考えられる法話の内容は、水平的と目される西洋的思考と垂直的と目される東洋的思考とがバランスを保つためには、現況が宗祖法然の時代とは異にしているので、状況倫理的にものを考えねばならない。冒頭に述べたように、繰り返すが西欧的な論理構造はものを対立的に捉えるが、東洋的なとくに仏教の論理構造は、ものを対立的に、水平的に捉えずに垂直的に捉える。両思考を戦わせても問題は一向に解決はしない。かえって対立を助長するだけである。
かつては「善因善果」「悪因悪果」の思考に引きずられて、この世に怨恨を残して死んでいった「浮かばれない死者」をなんらかの方法で極楽に送り、「成仏した死者」に変える努力をしてきた。しかし、これでよかったのかを考えてみる時期に来ているといえる。確かに従来はあまりにも葬式、いわゆる「死」にこだわり続けた。現代は「生」の問題にも手を伸ばすべきである。このことは前にも述べたように、東洋的な、特に仏教の論理構造と西洋的思考とがバランスを保たねば問題は解決しない。要は外部的な要件よりも、いのちの本質に照らして主体的な決断に帰着する問題であると思う。個々の状況に応じて判断し易いような条件を整え、状況倫理にたって選択の幅を広げる方向で問題の解決を計っていくべきであろうと思う。ここにいう状況倫理とは、AとBとの対立ではなく、中間のCを認めることではない。人間の側に立っての条件設定でものをいっているのではなく、仏側からの、いうならば意味付けの体系としての教義に照らした条件設定がなされるべきであると考える。人間側からの条件設定は大事ではあっても解決そのものにはつながらないことを再度確認したいと思う。
このためには宗祖法然が達した「悟り」の内容を十分に知らなければならない。法話の前に己を律し、宗祖の悟りに見参することが何よりも必要である。
水子の霊が祟っているからといって、その怨念を静めるために、たとえば水子地蔵尊を建立するのでは、単なる精神的解消作用に終わってしまい、解決には程遠い。しかし、水子の霊を供養する心と自ら懺悔する心は失ってはならないと思う。宗教は日常生活の悩みの「解決」に終わるだけでなく、生き死にの「解決」であって欲しい。中絶がたとえ若気の至りでの行為であっても、静かに我が行為を反省して、水子の霊を真に供養することによってこそ、それを契機に信仰に目覚めて戴きたいと願わざるを得ない。要は状況倫理的に考えれば、これこそみ仏の心に叶う行為といえよう。
混迷の続く現代にあって何から手をつけたらいいの分からない人は、寺院と檀信徒との信頼関係を、今一度絆を強く揺るぎのない強固なものにするために、宗祖法然上人が到達した「悟り」の内容を知る年間として連続法話を行うのもいいと思う。