三、ただひとつの道 ─三河の念仏上人─
浄土宗布教師会東海地区支部 神谷 真章
先日、新聞の《馬がやってくれなきゃ何もできない競技と気付けば、うまくなる》の見出しに目が止まりました。これは、北京五輪の馬場馬術団体への出場が確実となり、日本選手としては最高齢(六十六歳)で五輪に出場する見通しとなった、法
華津寛選手の言葉です。
法華津氏は、十二歳で馬術を始め、慶大に進学。一九六四年東京五輪の障害飛越で四十位。その後は、動体視力の低下から馬場馬術に転向したが、八四年ロス五輪は補欠。代表となった八八年ソウル五輪は馬が検疫に引っ掛かり、予備馬での出場を勧められたが「満足のいく演技ができない」と断った。五年前から、妻子を日本に残し単身赴任で、ドイツを拠点とし欧州を転戦し腕を磨いた。五輪に再度挑戦したいという望みが、ようやく叶った。栗毛のウィスパー(十一歳牝馬)を一昨年購入。神経質な愛馬を自分の手で入念に調教してきた。褒め、しかりながらの駆け引きで信頼関係を築き、人馬一体の演技を可能とした。
(中日新聞)
その“人馬一体の演技”とは、乗り手の技術で馬に演技させることではなく、「馬の信頼をいかに得られるかに気付くことによって上達する」といわれるとおり、馬をどれだけ信じ頼れるかであります。
乗り手(私たち凡夫)は、演技をする(往生を願う)には、馬を信じ(阿弥陀仏の誓いを信じ)、手綱を持つ(念仏となえる)。まさに、念仏のみ教えそのものではないかと、目に止まったわけです。
さて、法然上人は、末法と呼ばれる世に、今を生きることで精一杯の人々こそが救われる教えはないかと、求道する日々を送っていました。たくさんの智慧ある人に尋ね、多くの学僧に問うのですが、教えてくれる人も、示してくれる仲間もありませんでした。
万の智者に求め、諸の学者に訪いしに、教うるに人もなく、示す輩もなし。
(聖典六・六二頁)
絶望の思いのうちに、上人は黒谷の経蔵に入り経典に向かったのでした。
しかる間、嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて、手自ら開き見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に」の文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、専らこの理を馮みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。
(聖典六・六二頁)
法然上人は晩年、一日に口称念仏七万遍の行者となられるのでありました。
まさに、一向専修念仏―ただひとつの道―の実践行を法然上人はお示し、お伝え下されました。そのみ教えをそのままに、ここ三河の地に足跡を残された「念仏上人」と呼ばれたお方がおられました。昔の文章なので、わかりやすくするために、筆者である安西覚承師の原文に少し手を加えてご紹介します。
「念仏上人」中村周道師
中村周道師は慶応二年(一八六六)八月、吉良庄羽塚(西尾市羽塚町)に、農業を営む中村家の長男として生まれました。幼名は鶴松。姉が一人ありました。鶴松が生まれて間もなく、父は事業に手を出して失敗し、度重なる借金取りにいたたまれず家出をしてしまいます。そして鶴松が七歳のときに、その旅先で亡くなってしまいます。幼い二人の子を抱え、母親は大変な苦労をします。
明治九年(一八七六)、十一歳になった鶴松は、妙光寺の大空周音師に就いて得度。名前を周道と改めました。掃除、勤行、寺役、学業、読書の日常でしたが、段々と悩み多き青年と成っていきます。十五歳の暮れ、無断で寺を出、三ヶ根山観音堂へ二週間籠もりました。寺から十五キロほどのその場所は、今でこそドライブウェイもあり、車でたやすく行けますが、当時は山深き秘境でした。
明治十九年(一八八六)、十八歳の秋、加行を成満します。本坊の師籍勤めをしていましたが、二十一歳の春、義父が病死し、母は一人暮らしとなってしまいます。ちょうど庵寺が無住となり、師僧の勧めもあり、周道は初めて一庵の主となりました。そこに母親を迎え、親子水入らずの生活となりますが、思うように自分の時間がもてません。母親は機賃稼ぎに忙しく、寺の用事は一切しない。―出家の本分は何か、
自分はそれを掴むため、それを満たすために生きている。ただ一筋に、求めゆくべき道があるだろうか―と悩む周道でした。
明治二十一年(一八八八)、二十三歳の時、「学校に用事があるから、行ってきます」と母に告げて出かけたまま、周道は帰ってきません。以来六年半、現在の刈谷市小垣江に嫁いだ姉てつのもとへ便りが届くまで、行方知れずとなってしまうのです。
帰郷した周道の話からわかったのは、まず、良寛和尚の足跡を訪ねるために越後へ向かい、そこで二冬を送り、次には徳本行者の誕生地・紀州を訪れ、行者苦行の後を尋ねたということでした。
相当な荒行もされたようで、「山で寝ていると蚋(ぶよ)や蚊が食う。それは慣れると苦にならぬが、体中ぶつぶつが出来て困ったことがある。腹をこわして下痢をする。ものすごい下痢だ。だがな、山の樹が病気をみんな吸い取ってくれたぞな」と話したといいます。
その後、京都にお祖師方の遺蹟を訪ねます。日を変えて夜毎の参籠、深夜の廟前で低声念仏、昼間は次の場所へと托鉢行。宵のうちにしばらく仮眠しますが、寝場所を見つけるのは妙を得ていたといいます。一年間、洛中洛外をくまなく托鉢すると、西方の行者の脚は自然と西方に向かうようになったようです。
明治二十七年(一八九四)九月、鹿児島不断光院に随身入寺します。ようやく落ち着いたころ、六年半ぶりに姉へ手紙をしたためました。喜んだのは母親、ゑい女。「すぐに帰郷しなされ」と返信しますが、息子(周道)からの返事はつれないものでした。二年後の明治二十九年春には、ゑい女は重病となってしまいます。息子に便りを出すも、「私儀非常の大望御座候」と、「母が重病であろうとも大望成らずば断じて帰らず」との強い意志のため、彼を動かすことは出来ませんでした。
その年の五月、母ゑい女は亡くなります。さすがの周道も、母の死は相当なショックだったようで、いつまでも大望御座候では済まされない、の思いが強まります。
三十六年十月、周道から姉のもとへ、珍しく無心状が届きます。子供の頃から格好などに頓着しない弟が、「極々上々の綿入れを記念に」と頼んできたのです。それから間もなく来た手紙には、
「年来の本望成就。姉上様之御手数心配苦労一方ナラズ。実心遙拝シ御礼申上候」
と記されていました。いよいよ大望成就、安心決定の宣言であります。
世は日露戦争の頃の風雲急という時期で、帰郷も目前のことでしたが、少し時勢の成り行きを見る必要があったようです。
明治四十一年八月初旬の夜、周道は飄然と帰郷、小垣江の姉の家の世話になります。
しばらくして蒲郡の弟
弟子を訪ね、一時は空き寺へ入寺しますが、この地は縁が薄かったようです。義兄桂助から檀那寺である誓満寺に、東京方面で随身出来る寺の世話をお願いしてもらったところ、「それではいっそのこと、末庵の地蔵堂が空いているからそこに入ればよい」とのこと。
四十二年十月、小垣江の地蔵堂に移りました。はじめの三年は姉・てつ女が食事の世話をしました。普段は仏前の燈明以外、火を使うこともなく、お菜はあれば食べるし、なければ塩でもなめておくという有り様でした。
ある日、刈谷の町へ出掛けた帰り道のこと、下駄の歯が抜けてしまい、下駄屋に立ち寄り歯を入れ替えてもらいます。代金にと周道が置いていった、お布施らしい紙包みを下駄屋が開いてみると、ま新しい五円紙幣が入っています。当時の五円といえば、およそ米二俵の価値があったといいます。これはもらい過ぎと、下駄屋は土産物などを用意して地蔵堂を訪れました。周道は仏前でお念仏の最中でした。向き直ると、そこには下駄屋がいて、恭しく挨拶をして、先日の五円札を返そうとする。「それはお礼にあげたもの。多かったら、あなたに徳があるのじゃ。とっておきやれ」。くるりと仏前に向かうと、お念仏。まるで取りつくしまがありません。恐れ入った下駄屋に、忽然と敬信の念が湧いてくるのでした。
地蔵堂に住み始めて、早六年がたちました。ご縁を頂いたのですが、本坊に近く、周囲には人家も多く、一向専修の妨げとなりかねません。今や離れる時が来ました。
大正四年七月、犬ヶ坪の薬師堂に移りました。薬師堂は清水平次郎家の持庵で、徳住上人の遺蹟、荒井山の末庵になっております。
「薬師堂での師(周道)は、はじめからお念仏ばかり申しておられました。
叟体/rb>に木欄衣、麻の七条をかけて一心に称名する師の姿は、後から見ると、行者という感じがよく出ていました。食事は、最初は自炊で、黒焦げの飯を見た私の母(さき女)がご供養することになり、毎朝母が運んでいました。それで師は掃除とお念仏ばかりで過ごせたのです。相当の年配のようでしたが(入庵時五十歳)屋根に上がって松葉を掃いたりしていましたよ」(清水家六男善瑞師)
「最初のうちは、風呂は清水家に入りに来られ、そんなとき、世間話をすることもありました。しかし段々と、単なる挨拶だけになり、和やかな目つきだけで万事済ますようになり、はては風呂にも見えなくなってしまいました。月に三回は清水の仏間に来て、命日回向をされていたのですが、お堂で回向しておれば同じことだからと、来られなくなってしまったのです。役僧出勤など一切お断りで、門外不出、不断念仏の様子でした。こんな状態がずっと続いたのですが、とりわけ厳粛な時期が二、三年あったように思います」(同師)
さき女が食事を運んでも、一言のやりとりもない日が二、三日続きました。ある日、そっと覗(のぞ)いてみると、仏さまと真向かいの師の横顔は明るく輝き、どうやら仏さまとお話でもしている様子、とたんにさき女の身中をぶるっと走ったものがあり、思わず「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と合掌礼拝してしまいました。こんなことが、その後も二、三度ありましたが、師は黙々、ただ黙々です。
周道上人三昧発得の後はひたすら無言で、用談はすべて筆談になりました。その頃より、誰言うとなく、念仏上人と呼ばれるようになりました。
「いつの間にか、念仏上人と皆がいうようになった。非常な体験があったようで、始終無言、声を出すのは誦経、念仏、説教だけになってしまった。書き物の署名は『周道』でしたが、そのうち皆がいうように『念仏』と書かれるようになりました」(同師)
大正十年五月、はじめて西三河北部、西加茂地方(豊田市方面)を一週間、巡行されました。これは、犬ヶ坪薬師堂に詣でた、薬師寺(豊田市越戸)の融静尼、松喜庵(豊田市広川町)の称実尼姉妹の強い懇請によるところです。それからは、毎年一月から三月頃までに巡られるようになりました。
日毎に同行が増えていきます。岡崎市、碧海郡、東加茂郡などに拡がっていきました。
篤信者の一人に棚尾(碧南市)の醸造家石川氏があります。かねて深く上人に傾倒し、度々上人を招請し、一族、同行を寄せて別時念仏会を営んでいました。
昭和二年秋十月、上人は石川家で発熱、同家別荘で臥床されるようになりました。風邪がこじれて急性肺炎の模様。かなりの重態ですが、医師が診察することを許されません。病気の趣はすぐに信者達に知れわたりました。松喜庵の称実尼、称寂尼師弟二人は見舞いに駆け付けて、そのまま看護を続けましたが、二、三日してもよくなりません。
看病してくれている庵主さんを気遣う周道は、
「もう帰庵されよー」
庵主さんも、必死です。
「お直りになるまで、帰りません」
「しからば貴庵へ行く」
かなりの重態でしたが、止むをえません。仰せの通り、人力車で四十キロの道を松喜庵にお移ししました。四人の尼僧さんが付ききりの看護です。医師の往診はどうしても許されない。口称不断であります。遠近の信者が、入れ替わり立ち替わり、見舞いに来ては同唱するうち、次第に快方に向かい、約ひと月で全快されました。
病臥のため諸方に不義理したので、穴埋め方々大忙しです。松喜庵を根城に西三河の一市五郡をかけ巡ります。益々信者との交流は深まる一方でした。
昭和六年七月、棚尾、石川家にて「こげいな者も、木の葉の散る頃には、大概片がつきます」。しみじみ語った上人です。前の年の秋には、リウマチが高じて、起居不自由になりました。病気は一進一退でしたが、もうわかっておられたのです。
十一月に入り、秋も深まってきました。いよいよ重態の様子。病が重ければ、口称の声は益々高まります。日毎に集まる信徒の顔は沈痛そのものです。どうしても医療をお許しになりません。
二十三日朝、庵主の勧める粥を五さじほど召し上がり、称名はいよいよ烈しく、付き添いが到底ついていけない速さになりました。よくお話もなさるので、ご臨終の時をお知らせ下さいと申し上げると、
「そんなことをいっている暇はない。そんなこという間に念仏申せ。始終臨終だ。どうか念仏申してくれよ。うっかりしていては仏にはなれん。とにかく凡夫が仏になるのだから、一通りでは駄目だ。この世は夢の世だが、申す念仏だけは決して夢ではない。こげいな者は、死んでも、お前たちを済度する。どこまでも、済度せんではおかん。念仏さえ申せば、必ず一緒にいるぞよ。念仏申さんと、そばに寄りつくことができんぞよ。みんな仲良くしてな、真面目に勤めて、念仏申して極楽へおいで」
「今に息を引き取るで、みんなそばにおって念仏申せ。時計は何時だな」
「十時です」
「十二時のところがよく見えるように、時計を置いてくれ」
早速時計をよく見えるように据えました。十一時に両便をおすましになる。
「今日はきちんと起こしておくれ」
上体を起こしてあげると、合掌、大声で烈しくお念仏。お顔は歓喜に満ちてにこにこと、高声念仏しばらく、布団を折って背中にかってあげると、
「これでよい。みんな休みなさい」
最後のお言葉でした。安らかなお念仏が続いて、にこにこと眠るが如く、大往生を遂げられました。正に十二時でありました。
(念仏上人伝 安西覚承著)
念仏上人の一生は、法然上人の―ただひとつの道―を、その言葉通りにそのままに、純粋に、一向専修本願口称念仏で通されたのでありました。それは、遠き昔のことではなく、ついこの間の出来事です。いや、今現在のことであります。それが故に、今に念仏上人の教えを実践されている人々が、実在している事実であります。その尊き事実を励みに、念仏相続怠りなきよう、精進願うものであります。