◎ 第2章◎ 念仏生活とのかかわり
二、ただひとつの、ひとすじの道


浄土宗布教師会東北地区支部 花田 俊岳


(讃題)
謹み敬って拝読し奉る、宗祖法然上人のご法語に曰く、
    「我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さんがためなり」と。
南無阿弥陀仏

すでに皆さまよくご存知のように、浄土宗では来る法然上人八百年大遠忌に向けて様々な取り組みがなされています。お念仏に縁ある者としてこうした機会にめぐりあったことに思いをいたし、それぞれの立場で宗祖法然上人に対する報恩の誠を捧げたいものです。
 とはいえ、「なぜ八百年もの昔の法然上人の教えを、今この私が仰がねばならないのか」「この科学の時代、二十一世紀にはもはや法然上人の教えは時代遅れではないのか」という思いを抱かれる方もあるでしょう。しかしむしろ、今この時代であるからこそ、法然上人の説かれたお念仏の教え、浄土宗・お念仏が必要なのです。
 冒頭に讃題といたしましたご法語、

    「我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむがためなり」
(聖典六・六五頁)

このお言葉はまさに、いまこそお念仏の教えが必要なことを、私たちにお示し下さっているのです。
 「私があえて浄土宗をたてたのは、凡夫が報土に生まれることが出来るということを明らかにするためです」
 「凡夫」という言葉は、お念仏に縁のある皆さまにはよくご存じのことでしょう。
 善導大師はこれをさらに詳しく「罪悪生死の凡夫」とお示しになりました。仏教的にいえば、自ら好んで、あるいはそれとは知らずに様々な罪を積み重ねて日々を送り、その結果として苦しみの世界に果てしなく生き死にを繰り返す者、それが「凡夫」です。言葉を換えていえば、そうした己の有り様にも気付くことなく、生きることの真の意味もわからないままに、時の流れに身を任せている者、それを好しとする者といってもいいでしょう。そういうと、「凡夫」などまるで他人事のように思えるかもしれません。
 確かに私たちは「凡夫」の身そのままで、日々を暮らし、何の不自由も不都合も感じてはいないでしょう。実はそれは私たちが軸足を、刻一刻と変化し続け、幸福も不幸も定まりのない「浮世」に置いているからです。目の前を夢のように過ぎる「浮世」は、ときにまことに甘く、そして心地よいものです。そこに軸足を置いていると、現実の自分の姿も、生きることの真実もなかなか見えてはまいりません。しかし、私たちの軸足は、否応もなく、そして突然に「浮世」から取り払われます。例えば、大切な人を亡くしたとき、人に裏切られたとき、様々な人生の節目で、私たちは「浮世」がいかにはかないものであるか、そしてそれに気づかずに日々を過ごしてきたこと、自らが「凡夫」であったことにようやく思い至るのです。
 俳人・種田山頭火に、
  どうしようもないわたしが歩いている
という句があります。ご承知のように山頭火という人は、文学史には大きな足跡を残しましたが、社会人として、あるいは家庭人としてはまったくの失格者でありました。しかし彼はそのことに気付き、それを深く恥じ、こうした句を残したのです。
私たちはいかに立派に「社会人」として名を上げようとも、「凡夫」である自分、「どうしようもないわたし」に気付かずにいます。
 日々人々の施しの中に命をつなぎ、自身を深く見つめ続けた山頭火の生き方は、私たちよりも、より誠実に生きようとしただけなのかもしれません。ほこりにまみれ、泥に汚れた山頭火の姿は、身を飾ることに躍起となっている私たちよりもはるかに美しく、真実の生き方に近い人にも見えるのです。「どうしようもないわたし」に気付かされた時、私たちはただただそのことを悲しみ、恥じ、立ち尽くすよりほかないのです。法然上人ですら、お念仏の教えを見出される以前には、

  かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん

と深く歎いておられたのです。
 しかも私たちは、たとえ「どうしようもないわたし」であることに気付いたとしても、そのままで歩いていくしかないのです。人間を診る最高の医師であるお釈迦さまの診断によれば、私たちは一人残らず「凡夫」です。それは人間として生まれた以上、逃れられないことです。この身を改めて、「非・凡夫」となって新しい人生を送ることは出来ません。命が一つしかない以上、私たちは「どうしようもないわたし」のままで生きるよりありません。ということは、いずれこの世での命を終えた後には、また新たな「凡夫」として歩いていくほかないのでしょうか。
 法然上人以前の仏教であれば、答えは「その通り」です。「凡夫」として生まれ、生き、そして次もまた「凡夫」として生まれるという永遠の繰り返しの中に浮き沈みするよりないとされていたのです。
 しかし法然上人は「そうではない」とおっしゃいました。正確にいえば、お釈迦さまも阿弥陀さまも、善導大師も「そうではない」とおっしゃったのですが、そのことは長らく見失われていたのです。それを法然上人が、改めて明らかにされ、浄土宗という新しい宗派を立てて、世に示されたのです。永遠に苦しみの世界に浮き沈みするほかないとされていた「凡夫」が、「報土に生まれることが出来る」として、その道を私たちにお教え下さったのです。
 「報土」とは、ここでは「西方極楽浄土」のことです。極楽は阿弥陀さまが、人間の理解と尺度を超えるほどの長い間ご修行をされて、それに報いる形で立てられた世界です。
 ですから本来であれば、そこに生まれるためには相応の「代価」が必要となります。私たちも何かを手に入れようとすれば、それにふさわしい努力が必要となります。それが商品であれば代金が必要です。百円の価値がある品には百円が、千円の品には千円の代金がなくてはなりません。報土である極楽浄土に生まれることを、それに等しいものや行いで代えようとすれば、それは不可能なことです。ごくごくまれに聖()人(せいじん)と呼ばれる人が、厳しい修行や学問の結果として(それを代価として)極楽浄土に生まれることが許されたとしても、「凡夫」にとっては「報土」=「極楽浄土」は、仰ぎ見るだけ、あこがれるだけの高嶺の(高値の)花でした。極楽に生まれれば、苦しみの世界に浮き沈みすることから逃れられることが分かっていても、決して手の届かないものだったのです。
 しかし法然上人は、「凡夫であっても、阿弥陀さまの本願を信じ、南無阿弥陀仏とお念仏すれば、かならず報土=西方極楽浄土に生まれることが出来る」と、浄土宗をお開きになったのです。
 後に法然上人、そしてその後継者にも厳しい弾圧が幾度となく加えられます。その裏には、法然上人の説かれた教えを受け入れがたいものとする、仏教界の動きがありました。
 「凡夫が報土に生まれる」ということもまた、それまでの仏教の(誤った)常識からすれば、受け入れがたい、そして許しがたいことでした。しかし法然上人はまさにそれを旗印にして浄土宗を開かれたのです。そしてその旗に救いを求め、お念仏するほかには、「凡夫」には道はないのです。八百年前も、そして今も。いいえ、生きる意味がより分かりにくく、見えにくくなっている「今」だからこそ、法然上人の旗の下にしか「凡夫」の行く道はないのです。それこそが、それだけが「ただひとつの道」なのです。

 法然上人が掲げられた「凡夫が報土へ」という浄土宗の旗の下には、たくさんの方が集い、お念仏をとなえて極楽浄土へと往生されました。その中でも、特に変わり種といえる方が、「教阿弥陀仏」さま(以降「教阿さま」と略します)という方です。この名は法然上人からいただいたもので、それ以前には「天野四郎」という名前でした。天野四郎は法然上人のお伝記には「強盗の張本」と記されています。「人をころし財をかすむる」強盗殺人をして世渡りとしていた、しかもその親分というのですから、現代の私たちの目からすればとんでもない悪人です。彼はまた別名「耳四郎」とも言われていました。「どこそこにお宝がある」「だれそれは最近ずいぶん貯めこんでいるらしい」、そうした話をどこからか聞きつける、その耳のよさからきたものとされます。その耳四郎こと天野四郎が、年を取って後、法然上人のお弟子となって、「教阿弥陀仏」となったのです。この弟子入りに至るお話はここでは記しませんが、かつては都を荒らしまわった耳四郎も、老いて越し方行く末に思いをいたした時、「どうしようもないわたしが歩いている」と心の底から震えたのではないでしょうか。
 法然上人のお弟子となってからは、常に上人のおそばにつかえて教えを聞き、お念仏しておられました。しかしやがて、京都を離れ、遠く相模国(今の神奈川県)へと移り住むことになりました。教阿さまは法然上人とのお別れに際し、  「難しい教えをいただいても理解できませんので、これさえ守れば必ず往生出来るという一言をいただければ、一生の形見といたします」
と願い出られました。そこで上人は、
 「往生したいという思いもないのに、外見をかざる心でお念仏しては往生は出来ない。かざる心なく、まことの心でお念仏すれば、必ず往生出来る」
と教え示されました。教阿さまはこの教えを胸に、老いの身を励まして相模国へと向かわれました。思うに教阿さまは、今は法然上人のお弟子とはいえ、かつては強盗の張本・耳四郎であったことは、隠せはしても、消えない事実です。あるいはまた、その前身を知る人が「あれは今は殊勝な姿で念仏しているが、もとは人殺しの耳四郎だ。あんな者が、いかに念仏したとして往生など叶うものか」と直接に、間接に言ったかもしれません。そう言われれば言われるほど、教阿さまは「なにくそ」と、声も枯れよとばかりにお念仏したのではないでしょうか。それを法然上人は戒められたのでしょう。
 ともあれ相模国にあっても、教阿さまは京都の法然上人のおそばにあった頃と同様、お念仏に励まれました。老いの日々をお念仏の中に送るうちにも、あるいはむしろお念仏に打ち込めば打ち込むほど、かつて都にいた頃の己の行いを思い、悩み苦しむこともあったでしょう。しかし、いかに苦しもうと、また深く反省しようと、さらにはどれだけお念仏しようと、教阿さまの「天野四郎」としての過去は消えるものではありません。一人の「凡夫」として生まれた天野四郎の、生きてきた過去、犯した罪の事実は消えません。それら全てを背負って「凡夫」は歩いていかねばならないのです。それは実に寂しい、苦しい、悲しい、そして長い道のりかもしれません。しかしそこには、その道しか歩けなかった天野四郎が、教阿さまが、そして私たちがいます。わたしたちの人生もまた、「ただひとつの道」なのです。この世の誰ひとり、一人で二本の道を歩むことも、途中で別の道に乗り換えることもできません。  ですが、私たちお念仏にご縁をいただいたものが歩くその道は、法然上人の教えを信じ、阿弥陀さまのご本願を信じて、極楽往生を願ってお念仏をとなえたそのときから、そのままでまっすぐに阿弥陀さまのもとへ、極楽浄土へと向かう道に重なるのです。凡夫が凡夫の身のままで歩くこの道が、「ただひとつの、ひとすじの道」となるのです。
 たとえうつむいて歩こうとも、涙と共に歩む道であろうとも、お念仏の中に歩く道は、何より尊い道なのです。そしてその道を歩む一人ひとりの人生は、何にも代えがたいものとなるのです。そしてその道を歩むことこそが、生きることの真の意義であります。
 法然上人の教えを固く守りお念仏をとなえた教阿さまの生きた道は、他から見れば大悪党の末路に過ぎないかもしれません。しかし臨終のときを前に教阿さまは、こう言い残されました。

 「わが往生は決定なり。これすなわちふかく上人のをしえを信ずるゆえなり」
 「わたしの往生は間違いない。これはただ、深く法然上人の教えを信じるがゆえである」
お念仏の信者として、この遺言はまさに理想の姿です。教阿さまはまさに「凡夫が報土へ生まれる」という法然上人の教えの実践者であり、実現者です。そしてそれを可能としたのは、「深く上人の教えを信じた」こと、その教えのままにお念仏をとなえたこと、ただそれだけでありました。
 私たちが生きるうちには、嬉しいことも楽しいこともありますが、悲しみ苦しみもあとからあとから襲ってきます。その人間の生きる有り様は、八百年前も、千年後も変わりません。そしてそのような人生を歩まざるを得ない私たち凡夫は、
 「凡夫が報土へ生まれる」
という浄土宗の旗印のもと、お念仏をとなえるよりほかないのです。お念仏をとなえれば、いかなる人生を歩もうとも、私たちの歩くその道は、凡夫の歩く道そのままで極楽への「ただひとつの、ひとすじの道」となり、私たちの一歩一歩はそのまま、阿弥陀さまの御許へと向かっていくのです。
 どうぞ皆さま、法然上人の尊いお示しを仰ぎ、日々を共々にお念仏の中に歩んでまいりましょう。

同称十念