◎ 第2章◎ 念仏生活とのかかわり
一、「ただひとつの道」─布教材料~比喩・因縁を中心に─
浄土宗布教師会北海道第一地区支部 麻上 昌幸
(讃題)
謹み敬って拝読し奉る宗祖法然上人の御法語に曰く、
「弥陀如来法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、
(中略)ただ称名念仏の一行をもって、その本願とするなり」と。
(導入)
以前、あるテレビコマーシャルにこのようなものがありました。
お爺ちゃんが、家の茶の間のちゃぶ台のところで、新聞を広げて座っています。すると奥の台所から、お婆ちゃんがお盆に二つお揃いの湯飲みをのせてやって来ます。その湯飲みの一つをお爺ちゃんの方へ、そしてもう一つをその横に置いて、また台所へ戻るんです。そうしましたら、新聞を読んでいるお爺ちゃんの手がすーっとのびて、自分の湯飲みとお婆ちゃんの湯飲みとを入れ替え、素知らぬ顔でまた新聞を読み出します。
すると、お婆ちゃんが台所からやって来て、ちゃぶ台のところに座りますが、座ったとたん、お婆ちゃんがほんとうに嬉しそうな顔で手をたたいて喜ぶんです。
「ワーっ、茶柱が立ってる、立ってる」
お爺ちゃんは相変わらず、素知らぬ顔で新聞を読んでいる、というコマーシャル。そしてその後に、画面に文字と声で「あなたの喜ぶ顔がみたい―ダスキン」と入るのです。
そのコマーシャルを見た時に、なんとも微笑ましい、心なごむものを感じました。そして、あるお説教の本にこんな歌があったのを思い出しました。
老夫婦 こたつはさんで 差し向かい 若い時には どうのこうのと
長年連れ添ってきたご夫婦、子どもたちもそれぞれに独り立ちをし、自分自身も仕事、勤めを終えることができた。若い時にはどうのこうのとあった私たちではあるけれども、今こうしてみると、夫婦二人、差し向かいになって過ごせるということは、なんとも幸せなこと、有り難いことだな、とそんな様子や気持ちが思い浮かべられます。
家庭、ご夫婦でも親子でも、先生と生徒でも、師匠と弟子でも、本当に向かい合った時、差し向かいとさせていただいた時に、大きな力、導き、お育て、成長発展となってゆくのです。
私たちが、この私が、阿弥陀さまと本当に差し向かいとなり、近しく親しくお導きをいただきますのが、南無阿弥陀仏のお念仏。お念仏のひとすじ道であります。
(法説) そのお念仏のひとすじ道を私たちにお示し下さいましたのが、宗祖法然上人です。最初に拝読させていただきました法然さまのお言葉をもう一度頂戴致しますと、
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弥陀如来法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために(中略)ただ称名念仏の一行をもって、その本願とするなり。
(聖典六・二二二頁)
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私たちを導いてやまない、救ってやまない、必ず私たちを守り、支え、導き、やがてはお浄土へと救い取って下さる阿弥陀さま。そのご本尊阿弥陀さまは、ただ申せ、ただ我が名をとなえよ、それだけでよいと、あまたの修行の道の中からたった一つ、お念仏の一行のみを私たちにご用意下さった、与えて下さったのであります。
では、阿弥陀さまがお念仏申すだけでよいとされたのは、何ゆえでありましょうか。
阿弥陀さまは、ご修行当時のお名前を法蔵菩薩と申されました。遠い遠い宿世の昔、法蔵菩薩は、百人は百人とも、千人は千人とも、万人を一人も漏らすことなく、幸せの世界、悦び、悦ばせ合いの世界、導き、導かれ合いの世界、嘘いつわりや汚れのない真実の世界、救いの世界に導きたいと、強い強い願いを発されました。
法然さまのお言葉の「平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために」、生きとし生けるものすべてを、分け隔てなく、一人も漏れ落とすことなく導き救おうという大慈悲の情け心がとめどもなく溢(あふ)れ出て来て、考えに考えに考え抜いた結果、誠に広く大きな強い願いを、阿弥陀さまはご修行時代、法蔵菩薩の時、発して下さったのです。
その法蔵菩薩の広大、根本、本源の願いを「本願」と申します。
この本願には、二つの大切なことがあります。
一つには、この世ではない西の方、西方に極楽のお浄土を構えて、そこへあまねく導き入れるということ。
人間は生老病死に代表される四苦八苦からは決して免れることはできませんし、煩悩の心をお互いが抱え持っていますから、人に悩まされたり、振り回されたり、または自分が人を苦しめたり。
人間世界を仏の世界にしようとか、自分の心を仏にしようなどということは、たいへんに難しく、人間が出来ることではありません。
だから法蔵菩薩は、お経に「二百一十億」と説かれているように、そのすべての世界の条件、環境の中から悪いところは全部捨て去って、善いところを全部拾い上げ、劣ったものは捨て、勝れたものを拾い上げていかれました。
そしてついに、よろずの国々を超えた最善、最勝、最高のものを選び取って一つにまとめ上げて西方に構えて下さった。それが西方極楽のお浄土。この西方極楽浄土に人々を救い取ることを本願、願いとされたのです。
二つには、その西方極楽浄土に一人も漏らすことなく、等しくすべてを、ということであるならば、どんな人でも出来る、実行可能な修行の道でなければなりません。
もし智恵をきわめなければ救われないというのであれば、智恵なき人は漏れ落ちてしまう。もし厳しい戒律を守ったり、心を浄らかに静めていかなければ救われないというのであれば、意志の弱い人、厳しい戒の道を実践出来ない人は救われないことになる。
智恵のあるなしを問わず、才覚のあるなしを問わず、名誉地位のあるなしを問わず、心が散り乱れるならば散り乱れるままに、そのままの姿、そのままの心で誰でも出来る修行の道でなければ、万人の救いとはなっていかない。
ですから、これまた二百一十億というすべての修行の中から、南無阿弥陀仏のお念仏の一行を選び取って下さった。このお念仏ならば、老少男女どんな人でもできる、そしていつでも、どこでもできる。だから、このお念仏の一行を本願として下さったのです。
私たちは、自分の力で、自力で、難しい修行を一歩一歩あゆみ通すことや善根功徳を一つ一つ積み上げ続けることは出来ません。自身の心や体の能力もさることながら、日々世間の営みに忙しく振り回され、立ち回って、そのいとまもないのが私たちの姿です。
その私たちの姿を見通され、見極められ、そんな私に成り代わって、この私のために先取りで、「兆載永劫」という長く長く、誠にながーい年月、難行苦行の苦しみを代わりに受けて下さり、私の代わりに一切の修行をして下さった。
その法蔵菩薩が代受苦、代修の修行を成就完成、仏と成られた。その方を阿弥陀如来と申し上げるのです。そして私に代わって勤め上げて下さった功徳善根の一切を南無阿弥陀仏の六字の中に漏らすところなく納め込んで下さった。
だから、わずか六字ではあるけれども、この中には諸善万行の功徳一切が納め尽くされ、具わり具わっているということ。そして至らぬ私ではあるけれども、その私がこの六字を口にとなえることによって、その功徳一切を我がものとさせていただき、必ずただ今、今のこの時から、お浄土まで導かれ救われていくのです。
ですから、南無阿弥陀仏のお念仏は、いつでも、どこでも、だれもが出来る最もやさしい修行でありながら、この上ない最も勝れた殊勝なる行ということです。
この故に、阿弥陀さまは「あまねく一切を摂せんがために」等しくすべてを救い取らんがために、「ただ称名念仏の一行をもちてその本願とするなり」、ただただ誰でも出来る最も修し易き行でありながら、この上ない最善、最勝、最高の行であるお念仏を、私たちに願われたのであります。
(譬喩 その一) でも、みなさん、私たち一般の常識や考えでいきますと、誰でもが出来るようなやさしいもの、簡単なものは、あまり価値のない、劣ったもののように思われますし、その反対に誰にでも出来るわけではないようなものこそ、価値のあるもの、勝れたものと、そう思いがちです。しかし、どんなにすばらしく思えるものでも、我が身に引きあてて、実際に実行出来てないならば、我がものとなっていかないならば、それは絵に描いた餅。本当に私の力、私の救いとはなってはいきません。
どんな立派な修行の道でも、出来なければ意味がないのです。
お念仏は、南無阿弥陀仏の一声、六字の中に善根功徳一切を納め込まれた、最も容易にして最も殊勝なる行であります。そして、功徳の一切合切をたった一つにまとめ上げよう、言い表そうとしたならば、もはや、南無阿弥陀仏というお名前にするよりなかったのです。
名前にして、名を呼ぶしかないというようなことは、ほかにもあります。
日本三景、日本の中で三本指に入るといわれる景勝地は、京都府の天橋立と宮城県の松島、そして広島県宮島の厳島です。そのどれをとってみても、その美しさ、すばらしさは、どんな言葉、どんな文章で表現しようとしましても、言い表せないと申します。
しかし、たった一句で、その景色のすばらしさを表したと言われる一句がございます。あの松尾芭蕉さんが、松島の景色景観のすばらしさを、
松島や ああ松島や 松島や
と。その名前を三度繰り返したに過ぎませんが、もう名前を呼ぶしかなかったといわれる。そしてここに芭蕉翁のするどさがあるといわれます。
すべてを表現しよう、言い尽くそうとしても、し尽くせない。もうただその名前を呼ぶしかなかった。あるいは声として連ねるしか、何度も繰り返すしかなかったのです。
まさにお念仏もその通り。その仏の御名の中に、南無阿弥陀仏のお名前の中に、導き、救いの働きの一切が込められ、籠もり籠もっているのです。
だから誰でもが出来る容易な行でありながら、最も殊勝なる行ということです。
そして、このお念仏、六字の名号は、「名体不離」と申します。それは、これを文字に表せばそのままが阿弥陀さま、お名前とお身体が離れ離れにならない、だから名体不離と申すのです。そして声に表せばそのままが阿弥陀さまです。これは私が尊いのでも、私の声が尊いのでもありません。六字の名号、南無阿弥陀仏が尊いのです。
南無阿弥陀仏のお念仏を、私が声に出した時には、御名を呼んだ時には、仏の姿形は見えないけれども、仏さまが我が身に付き添って下さる。これを「名体不離の徳」と頂戴します。
眼にふれて 見え給わねど 身に添いて
守りたまえる 慈悲の尊さ
私に添って下さって、お念仏申すかぎりは、私一人の日暮らしではありません。姿形は見えないけれども、仏さまと一緒に喜びも悲しみも味わわさせていただく。お念仏を申す時は、嬉しい時も、悲しい時も、仏さまとの共暮らしであります。
この仏さまとの共暮らしの実感、悦び、信仰を教えて下さるお話があります。昔のあるお坊さんのご自身の告白が、その方のお説教の中で述べられていました。
「この私のとなえるお念仏は、そのまま阿弥陀さま、法然さまのお念仏なのです。それは何故かといいますと、私はどなたにでも申し上げるのですが、私は坊さんでありながら、手を合わせるのが大嫌い、お念仏をとなえるのが大嫌い…でした。
私の手は、仏さまを拝むような尊い手ではなくて、畜生や餓鬼の真似をするような手なのです。それは私の心が畜生のような、餓鬼のような心だから。そしてお念仏をとなえるのが大嫌い。私の口は、他人様の悪口が大好きな口、おいしいものが食べたいという口です。とても尊いお念仏など出る口ではないんです。でもこれは、私一人ではなかろうと思います。たいていの人は似たり寄ったりではないかと思います。
そんな私が、今どうして手を合わせるか。どうしてお念仏をとなえるのかといいますと、私の母はお念仏が大好きで、母は私を坊さんにしよう、坊さんにしようと一所懸命でした。でも、私は、どうにかして坊さんにならずにおこう、なりたくない、なりたくないと、もがきまわっていたのです。そうするうちに私の母は、私が坊さんになるかどうか、なったかどうかを知らずに、亡くなってしまいました。
そのことが、私の大きな悔やみとなり、私はお坊さんにさせていただき、不思議にもあれだけ嫌だったのに、ただ今は喜んで手を合わせ、喜んでお念仏をとなえさせていただいております。
これはもちろん、尊い大勢の方々の教えや導きによるのですが、私には、母の生前の願いを今やっと私の心が受け入れることができたのであり、母の願いが私の命の中に生きているのだと思わせていただいております。
だから、私が手を合わせているのは、私が手を合わせているのではなくて、母の心が私に手を合わさせているのであって、母が手を合わせているのと同じなのです。
私のとなえるお念仏は、私がとなえているのではなくて、母が私の心を揺り動かしてとなえさせているのであって、私の母がとなえているのと同じことなのです。
はじめの頃は、『私が今、お坊さんになっているこの姿を、母が見てくれたらなあ』と残念に思うこともありましたが、今は、この合掌は母の姿、私の申すお念仏は母の声だと思うようになってからは、母は私の中に生きている、一緒に暮らしていると思いますと、私は合掌が懐かしく、お念仏の声が慕わしくなったのです。そして非常に力をいただくのです。非常に感激することさえあるのです。
しかし、私の母とて、最初からお念仏が好きではなかったはずです。やはりお祖父さん、お祖母さんのお念仏が、母の心に宿ったのであり、そのお祖父さん方もまた、ご先祖さまのお念仏が心に宿ったのです。
つまりは、阿弥陀さま、お釈迦さま、一切の仏さまの、救わずにはおかない、救ってやまないという御心が、法然さまの御心に通い来たって下さった。そして仏さま方、法然さまのご労苦と願いの結晶、かたまりが南無阿弥陀仏のお念仏となって、ご先祖さまの心に、母の心に、そして私自身の心に宿って下さったのです。
ですから、お念仏を申すと、一人じゃない、母と一緒、法然さまと一緒、阿弥陀さまと一緒。誠に慕わしく感じられ、我が身に添っていて下さっていることを心強く頂戴させていただいているのです」
このように、ご自身のお説教の中に、自らの告白をもって、仏さまとの共暮らしということを教えて下さっています。
(譬喩 その二)
お念仏によって、仏さま、あるいは父や母との共暮らしが実現していくのですが、そのためにはお念仏を口に申すこと、声に出してとなえることであります。
阿弥陀さまは、私たち一人ひとりに、導くぞ、救わずにおかないぞ、そのためには我が名を呼びなさい、お念仏を申せ、ただ申せと、私たちに本願、願いを掛けて下さっている。
しかし、私たちは、悲しいかな、煩悩の霧雲に深く閉ざされて、阿弥陀さまの願いにも気付いてまいりませんでした。気付かぬどころか、仏も法も僧もあるものかと、遠い昔から迷いに迷いを重ね、苦しみや暗闇におもむくような種まきしかしてまいりませんでした。
私たちは、この度こそは、阿弥陀さまの本願、願いをしっかりといただいて、そのみ教えのままに素直に南無阿弥陀仏と御名を呼ばせていただくのであります。
私たち、自分自身に掛けられた願いに気づくこと。そして名を呼ぶということは、お念仏の信仰の上だけではなく、この世の中においても大事なこと、大切なことであります。
NHKの「手話ニュース」という番組がありますが、その中で長らく手話通訳をされておられた丸山浩路さんという方がおられます。その丸山浩路さんのご本の中に紹介されていたお話です。
小学校六年生の太郎君という子のお話。
太郎君は、明るく元気な六年生。そのお父さん、お母さんはお二方とも言語と聴覚に障害を持っておられた。耳に聞くことも、お話をすることも出来ません。でも、そのことで、太郎君がご両親に反抗したり、愚痴や不平不満を言うことなどまずもなかった。
でもただ一度だけ。
ある日の放課後、教室で学芸会の練習をしていた時のこと、ある子が、台詞がうまく言えなくて教室の片隅でベソをかきだした。さらにからかった子がいて、ますます泣き出してしまった。見かねた太郎君と、そのからかった子が大ゲンカになった。太郎君は、自分より背丈の大きな子を相手に組んずほぐれつ、床をゴロゴロ転げまわった。ようやく相手を組み伏せ、馬乗りになった太郎君が、思わずこぶしを振り上げた瞬間、下敷きになった相手がこう叫んで来たといいます。 「やあい、おまえんちの父ちゃん、母ちゃん、耳が聞こえないだろう、しゃべれないだろう。この前の運動会の時、サルみたいに手で踊って話してやんの。お前、一度も名前呼ばれたことないだろう。犬や猫だって名前呼ばれんのによ。お前、一度も呼ばれたことないだろう。これからもずっと呼ばれないぞ」
太郎君は、思わず息をのんだ。こぶしを振り上げたまま、体が動かなくなってしまいました。思いもかけぬ言葉だった。「なまえ、なまえ…」と力なくつぶやき、半ば放心状態で、突然立ち上がり、校門めがけて駆け出した。
今まで感じたことのない寂しさ、言いようのない切なさに襲われ、涙がこみ上げてきた。泣きたい、叫びたい。ボロボロと涙をこぼしながら、無我夢中で家に帰った。
乱暴に玄関を開けると、お父さんの靴はあったが、お母さんは出掛けているようだった。部屋へあがり、入り口のところでドン、ドン、ドンと足を踏み鳴らした。その振動で太郎君が帰って来たことに気が付き、お父さんが振り返った。
すると、目を真っ赤に泣き腫らし、悔しそうに睨みつけている太郎君がいた。次の瞬間、お父さんの胸に飛び込み、泣き叫びながら手話を始めた。
「お父さーん、ぼくの名前を呼んで。親なら子供の名前呼ぶの当たり前なんだぞ。この前、運動会があったよね。走ってる時、みんな転んだろ。転んだ時、みんな、お父さん、お母さんに名前呼ばれて応援されたんだぞ。
ぼくだって転んだんだ。転んだんだよー。でも、ぼくの名前は聞こえてこなかった。お父さん、名前呼んでよ。一度でいいから、ぼくの名前呼んで。呼んでくれないんなら、ぼくなんか、生まれてこなければよかったんだー」
お父さんは、力いっぱい、息子を抱きしめました。そして、静かに太郎君の体を引き離すと、力強い息遣いで、こう諭したのです。
「私は耳が聞こえないことを、恥ずかしいと思っていない。呼ばれないから寂しいか。母さんも以前そうだった。でも、君が生まれた時、私たちは本当に幸せに思った。五体満足で声を出して泣くことを知った時、本当にうれしかった。
君は体をふるわせて泣いていた。大きな口をあけて元気に泣いた。何度も何度もよく泣いた。しかし、その声は私たちには聞こえなかった。母さんは一度でいいから、君の泣き声が聞きたいと、君の唇に何度も何度も耳を押し当てていた。この子の声が聞きたーい。この子の声を聞かせてー。何度願ったことか。
しかし、母さんは、悲しそうな顔をして、首を左右にふるだけだった。私には聞こえなかったが、おそらく母さんは声をあげて泣いていたと思う。
でも今はちがう。私も母さんも、精一杯人間として、最高の生き方をしていこうと約束している。君もそうしてほしい。この両親から生まれた子どもとして、そうしてくれ。これは父さん、母さん、二人の願いです」
この日を境に、ご両親の願いを受けとめたその時を境に、太郎君はますます明るく元気な小学生になったと、その本には綴られておりました。
このお話の中には、自分に掛けられた願いに気づくこと、その願いに応えて生きていくことの大切さ、そして名を呼ぶこと、呼び合うことの有り難さが尊く記されています。
太郎君のご両親のような方々、お念仏が声として肉の耳には聞こえなくとも、もちろん漏らして下さらない、導いて下さるのが阿弥陀さまのご本願。私たちの心の声まで、しっかりと受け取って下さって、必ずこの身に付き添ってくださり、この世はもちろん、後の世まで、二世をかけて支え、導き、救って下さるのです。
(因縁)
私たちは、お念仏申しながら、二つの世をかけて、この世も大丈夫、後の世も大丈夫という、その信仰をしっかりと頂戴させていただくのです。
北海道のあるお寺の奥様のお話ですが、その奥様は幼稚園の園長先生をなさっておられたお方。ですから毎日をたいへん忙しく送っておられました。
ある年(昭和五十九年)の四月のこと。「えんちょうせんせーい」と園児が勢いよく飛び込んで来た。その瞬間、左胸を突き刺すような激痛におそわれたのです。
新年度の忙しさもあって、病院へ足を運ばれたのは五月になってからのこと。検査の数日後、お医者さんから電話があった。言いよどんでいる気配を感じ、ご自分の方から「乳ガンだったんですね」と尋ねると、「悪性のもので、手術が必要です」 と、言わば告知をされたのです。それが、四十三歳の時。
大学病院に入院してみると、同じような病をかかえる方々が大勢いらっしゃる。そこでは、地位や名誉や職業といった世間の価値観よりも、話題は自然と「生き死に」ということに。人間とは、私とは、という裸の人間というものを深く考えさせられたといいます。今さらながらに、自分の生き方を深く反省し、問い直し、考え直すようになられた。
その手術後、経過はたいへん良好。しかし、人間喉元過ぎれば熱さ忘れるで、いつとはなしに自分の生き方を考え直す気持ちも薄らいでいったといいます。
体調もよく、三年の月日が過ぎたころ、今度は肺に悪性の腫瘍、そして手術。そればかりか、さらに翌年には転移がひどく、もう手術が不可能。三度目の、そして最後の告知を受けられたのです。
一度、お家に帰られて、押し入れが空になるほどの家の整理、家族の懐かしい写真や思い出の品々の整理、さらには、ご自分のお葬式の写真や、ご主人や子どもたちがその時に着る着物の支度まで調えられた。
なんでもない なんでもない なんでもない
なんでもないことが こんなにうれしい
このお方はたくさんの詩を遺されたのですが、その一つです。
ご実家の年老いたお父さん、お母さんに、それとなくお別れをして、三人並んでの写真もお撮りになった。
しかし、この時、そのお母さんも重いご病気であった。結局、その年(昭和六十二年)の十二月二十三日に年老いたお父さんが、そして年が明けた一月二十八日にお母さんが先立っていかれたのです。ご両親を亡くされてからというもの、なお一層まわりの方々が心配をして下さる。
でも、この方がおっしゃる。まわりの人たち、世間から見たならば、私がガンになり、両親が相次いで亡くなったということは、なんと不幸続きだろうと思われる。でも、両親との別離の悲しみはもちろんありますが、私自身、近々その時がやって来ます。
だから、両親が先に往って下さったということは、我が往く先にポッと電気が、暗い夜道の先にわが家の明かりがポーッと見えた時のようです。両親は、私のために先に往って下さって、ここだぞ、ここだよと、往く先を示し、待っていて下さる。そう思われて、両親の死はむしろ感謝の死です、と。
そしてさらにおっしゃる。お寺に嫁いで来た私ですが、今やっと、阿弥陀さまのお浄土が、温かく、懐かしく、明るく豊かに感じ取ることができました。このことを、子どもたちにもしっかり伝えたいと思います、と。
やがて、この方は四十六歳というお歳でお念仏信仰のなかに、阿弥陀さまの西方極楽浄土に救い取られて往かれたのです。
(合釈)
坂三里 辛さが楽し 里帰り 峠のかなた 母の待つ家
何の目的もなしに、荷物をかかえて坂道を登っていかなきゃならないとなったら、これは苦痛以外のなにものでもない。しかし、この坂を越したところに、峠のむこうに私を待っていてくださるお母さんがいる。こうなったらどうでしょう。
坂道は辛いかもしれない、荷物は重いかもしれないけれども、喜びの心で、勇みの心で越していくことができます。
我が往く先は阿弥陀さまの西方極楽のお浄土と、しっかり心に定め、そして阿弥陀さまの「我が名を申せ、となえよ」という本願に打ち任せて、お念仏を決して忘れず、申しつつ、この世、後の世かけて導かれ、高められ、深められ、守られ、やがては必ずお浄土へと救い取っていただくのであります。
私たちの信仰は、ただひとつの道、お念仏のひとすじ道であります。