3 浄土宗の立教開宗について

聖如房のこと
 このようにして、承安五年、法然上人四十三歳の時に浄土宗は開宗された、とする説は特に宗門内において通説となっていた。
しかし、近時その説に対して一時疑義、または異論が出されるようになった時期があった。その異説と反論を伊藤唯眞師はその著書『浄土宗の成立と展開』の中において整理し、以下のごとく記している。

宗門定説の浄土宗開宗の年次は承安五年四十三歳説であるが、これに対し異論が出た。椎尾弁匡氏は『日本浄土教の中核』(昭和二十五年六月)において六十五~七十二歳説を述べ、重松明久氏は「浄土宗確立過程における法然と兼実との関係」(『名古屋大学文学部研究論集』II、昭和二十七年三月)で建久九年六十六歳以後説を説いた。田村円澄氏も承安五年不当説(『法然上人伝の研究』)を採り、井上光貞氏は『日本浄土教成立史の研究』(昭和三十年九月)で承安五年以後建久元年以前説を主張された。承安五年の浄土宗開宗は共通して認められていない。かかるとき福井康順氏が「法然伝についての二三の問題」(『印度学仏教学研究』五―二、昭和三十二年三月)で元久元年以後であろうと論じられた。これがきっかけとなって論争が展開した。反論として香月乗光氏「法然の浄土開宗の年次に関する問題」(『印度学仏教学研究』六―二、昭和三十三年三月)、同「法然上人の浄土開宗の年時に関する諸説とその批判」(『仏教文化研究』六・七、同氏編『浄土宗開創期の研究』)、千賀真順氏「法然上人は内専修外天台に非ず」(『印度学仏教学研究』七―一、昭和三十三年十二月)、坪井俊映氏「承安五年浄土開宗説の形成」(『仏大研究紀要』三五、昭和三十三年十月)などが出た。
(『浄土宗の成立と展開』六頁、註2)



 以上の諸論文は、『勅修御伝』所説の承安五年四十三歳、捨聖して専修念仏に帰入をもって開宗とするか、『選択集』が撰述され、一向専修の教義が組織体系化される六十六歳説、また、社会的に教義あるいは教団的存在が認められる時期、すなわち元久の法難、興福寺の徒による念仏停止の訴、そして建永の法難を被る七十四歳説、等の説に集約されているといってよいであろう。
 法然上人は本願称名の念仏義をもととして、別宗すなわち浄土一宗を開宗されたわけであるが、一方、法然上人以前の諸宗開宗の条件について阿川文正師は、元久二年(一二〇五)笠置の貞慶によって執筆され奏上された『興福寺奏状』をもとに、その要件を次のように推論されている。

(一)伝灯の大祖
       (イ)外国高僧の来授
     (ロ)我国高僧の往授
(二)師資相承
(三)教の優位を示す判釈(開宗宣言書)
(四)勅許
(「法然上人浄土教成立過程の一考察」『大正大学研究紀要』六一・一六九頁)



 この諸条件を満たして、はじめて開宗と認められるのであって、諸宗の新宗に対する意向が、どのようなものであったか知ることができる、としている。
 さて、元来「宗」とはいかなる意味を持つ語なのであろうか。諸橋轍次氏『大漢和辞典』(三巻・九五四頁)には、諸義をあげる中、宗を「むね」とし、魏、張()揖(ちょうゆう)が字義を釈した書『広雅』を引用し「宗、本也」とし、また『一切経音義』を引用して「宗、主也」との解釈をみることができる。  十二世紀、戒度によって撰述された『霊芝観経義疏正観記』巻上には、


     宗乃有三義 、一者独尊義、天無 二日、国無二王一故。二者統摂義、如網之綱、如 裘之領故。三者帰趣義、星必拱 北、水必朝東故。
(浄全五・四四四頁)

と記している。
 一には独尊の義、天に二日なく、国に二王がない。二には統摂の義、魚・鳥等を捕える具、もうの目をしめくくる、もとづな、またきゅう(皮衣)の首の部分をしめている襟、三には帰趣の義、 星は必ず北を めぐり、水は必ず東にそそぐ、と例をあげ、いわゆる 独尊・帰趣・統摂、の「宗」の三義が示されている。三祖良忠は『伝通記』第四で宗三義を示した上で、宗を「独尊の義に当る也」(浄全二・一五三頁)と記し、自らの道をもっとも尊いと確心すること、と解している。
  一連の異説の中、福井康順師は「法然上人の生涯と思想」において『送山門起請文』をとりあげ、


送山門起請文もまた著しいものであろう。これは元久元年(一二〇四)の十一月に送ったものであるが、法然はその冒頭にまず「叡山黒谷沙門源空」と掲げている。(中略)これより以前、法然は、すでに承安五年(一一七五)、余行を棄てて専修念仏に帰入している。
(『福井康順著作集』六・五頁)


と論述して、開宗後三十年も経過して、まだ叡山黒谷沙門源空と署名していること自体が矛盾である、という主旨からの異論も出た。

 しかし、法然上人を嚆()矢(こうし)とした鎌倉仏教の祖師の署名に注目してみると、日蓮宗開祖の日蓮の場合、建長五年(一二五三)四月二十八日、清澄山山頂において立教した、としている(立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗読本』一〇〇頁)。しかし、その七年後、すなわち文応元年(一二六〇)に撰述した『立正安国論』では「天台沙門日蓮」と署名していることが知られる(1)。 鎌倉仏教の各宗開祖一人ひとりについて検証してみなければならないが、往時の通念として、叡山そして天台宗に帰属し修学した沙門出家者は、原則として天台出身の沙門であった。
 法然上人が叡山黒谷沙門と記していることも、叡山黒谷出身の沙門であり、さらに付け加えるに、上人の記した『没後起請文』に、


     信空  多年給仕 弟子 因 センガ 懇志 聊有 遺属° 謂黒谷 本坊
(昭法全・七八六頁)


とあるが、黒谷の本坊を信空に譲与する、すなわち、法然上人が叡山の黒谷を所有していなければ記述することのできない文章である。したがって捨聖帰浄の後、つまり聖道門である天台を棄て、専修念仏に帰入した後に、叡山黒谷沙門源空、と記しても当時の事情を鑑みれば、何等差し支えのない署名であることが推考される。

 さらにいうならば、法然上人自身の文の中に興味深い言葉がある。それは、元久元年(一二〇四)に記された『七箇条起請文』に示される文である。

     年来之間、雖レ修二念仏()ヲ 、随 シテ 聖教 ニ一、敢 不レ逆 人心 ニ一 、無 レ驚 クコト 二世 、因 リテ レ茲 レニ 、于 レ今 三十箇年、無為 ニシテ 二日月 ヲ一
(昭法全・七八九頁)

「年来の間、念仏を修すといえども、聖教に随順して、敢えて人心に逆らわず、世の聴を驚かすことなし、茲(こ)れに因りて、今において三十箇年、無為にして日月を渉る」と法然上人自らが述懐しているように、専修念仏に帰入してから、すでに三十年の歳月が過ぎ去った、との認識をご自身が持っていたことは事実ではなかろうか。
 しかし、捨てたはずの聖道門ではあるが、専修念仏に帰入するまで聖教を披覧し、求道のために修学に励んだ比叡山に対する思いも、また格別であったであろうことも、想像に難くない。
したがって、一向専修帰入後の資料の中には後世「弊履のごとく聖道諸宗を捨てる」と表現されたようなこととは少し異なった記述が存するのも当然であろう。