2 捨聖帰浄と浄土宗の立教開宗

 法然上人による浄土宗の立教開宗は、『勅修御伝』の記述、承安五年の春、四十三歳の年に余行を捨てて一向専修の念仏に帰入された、とする説を根拠として成り立っている。  後に総本山知恩院八十二世に晋董された望月信亨師は、明治四十四年二月に記念報恩会より『法然上人正傳』を刊行された。その書に、

たちどころに余行をすてて、一向に念仏門にぞ入られける。承安五年七月安元と改元の春、四十三歳の時なりき。
『法然上人正傳』一一頁)


と記した。そして捨聖帰浄、すなわち一向専修帰入こそが浄土宗の立教開宗である、という考え方の基礎を固めた。専修念仏帰入の年次に関しては上述のごとく『勅修御伝』が承安五年(安元元年)、上人四十三歳である。この記述と一致する資料は、法然上人伝としては成立が早いとされている『源空聖人私日記』、そして『四巻伝』(『本朝祖師伝記絵詞』)・『琳阿本』(『法然上人伝絵詞』)・『十六門記』・『正源明義抄』等がある。
 この記述と異なる資料としては、承安四年、四十二歳を記す『十巻伝』(『法然上人伝』)・『知恩伝』があり、さらに『私聚百因縁集』の永満元年、三十三歳説がる。
 このように『勅修御伝』所説の、専修念仏帰入の年次は承安五年、四十三歳説であるが、望月師がこの説をなぜ採用したかを敢えて推考するならば、上記論文「法然上人立教開宗の文證について」において、三祖良忠の『選択伝弘決疑鈔』の文、


抑(そもそも)昔シ祖師上人時年四十三承安五年ニ始帰シテ二此文一唯タ修シタマへリ二  念仏ヲ一
(浄全七・二一七頁)


を挙げ(『浄土教之研究』六二二頁)、さらに「決答授手印疑問鈔巻上、粗之に同じ」(同六二二頁)と記している。ちなみに、望月師指摘の『決答鈔』の文は、
「一心専念弥陀名号」の釈に至って、廓然(かくねん)として善導の元意を覚り、予(わ)がごとくの下機の得度をば、昔、法蔵菩薩の兼ねて定め置きましましけるよと覚えて、不覚に落涙す。生年四十三の時、一向専修の行に入(い)って、初めて六萬遍を唱えるなりと故上人は仰せられしなり。
(聖典五・三〇六頁)


であって、三祖良忠撰の相伝書の中に、「故上人(法然上人)は仰せられしなり」と記して宗祖から二祖、そして三祖へと相伝された言葉となっている。相伝、口伝を嗣法の宗(むね)とし、尊重している浄土一宗門流にとって、これ以上重い言葉はない。法然上人のお言葉として、あまりにも有名な『勅修御伝』巻二十一の「口伝無くして浄土の法門を見るは、往生の得分を見失うなり」(聖典六・二七八頁)の意は時代を超えて宗門の中に習されている。往生浄土の益を得るためには「口伝が不可欠」とまで言い習わしている中で、望月信亨師は『勅修御伝』所説の承安五年、「聖道門を捨てて、専修念仏に帰入」の説を踏襲し、しかも専修念仏に帰した、そのことをもって開宗と結論づけられていったのではないかと思われる。
 それ以後、浄土宗門の中においては「承安五年、浄土宗立教開宗」がごく当然のこととなって、近時まで定着化されてきたのである。