1 開宗への歴程
宗祖法然上人は「ただひとつの道」、万機普益にして時機相応の教えと称される本願称名凡入報土の念仏に到達。そして浄土一宗を新たに開宗された。いわゆる、承安五年(一一七五)の浄土宗の立教開宗である。
法然上人が求道の遍歴をし、その帰結として本願称名念仏義に到達し開宗に至った因を敢えて求めるならば、幼少期における体験を除外して論ずることは出来ないであろう。
それは非業の最期を遂げた父との死別。それによって到来した母との生別。これ等を主柱とした「四苦八苦」の受苦によることは言をまたない。幼少期の法然上人にとって、この苦悩からの解放、しかも自他共に救われる教えに出合うこと、これが絶対的求道の目的であったのではなかろうか。
法然上人の開宗以前の求道と、その内なる心を『勅修御伝』六巻は、
上人、聖道諸宗の教門に明らかなりしかば、法相・三論の碩徳、面々にその義解を感じ、天台・華厳の名匠、一々に彼の宏才を誉む。しかれども、なお出離の道に煩いて、身心安からず。順次解脱の要路を知らんために、一切経を披き見給うこと五遍なり。
一代の
教跡につきて、
倩思惟し給うに、彼れも難く、これも難し。
(聖典六・五六頁)
と記している。自らが学んできた天台はもちろん、法相宗、三論宗、華厳宗等を学んでも、自らが求めていた教えに遭遇することができなかった。さらに、
恵心の『往生要集』、専ら善導和尚の釈義をもって指南とせり。これにつきて披き見給うに、彼の釈には乱相の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に生ずべき旨を判じて、凡夫の出離を、容易く勧められたり。(中略)遂に「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念念に捨てざる、是を正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に」の文に至りて、末世の凡夫弥陀の名号を称せば、彼の仏の願に乗じて、確かに往生を得べかりけり、という
理を思い定め給いぬ。これによりて、承安五年の春、生年四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向に念仏に帰し給いにけり。
(聖典六・五六頁)
と記し、承安五年(一一七五)の春、上人四十三歳の時、「捨聖帰浄」「一向専修帰入」「宗祖の回心」と通称されるような記述が見られる。さらに同じ六巻に重ねて、
我等ごときは、すでに戒定恵の三学の器に非ず。この三学の外に、我が心に相応する法門有りや。我が身に堪えたる修行や有ると、万の智者に求め、
諸の学者に訪いしに、教うるに人もなく、
示す輩もなし。しかる間、嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて、
手自ら開き見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、是を正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に」という文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、専らこの理を憑みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。
(聖典六・六二頁)
と記して、叡山に登嶺出家以来、北嶺はもちろんのこと、南都まで諸宗諸学者の門をたたいて求道の遍歴を重ねたこと、恵心僧都源信の『往生要集』の示唆により、善導大師の著作『観経疏』「散善義」の一文「一心専念弥陀名号……」のいわゆる「開宗の御文」と称せられる、善導大師の説示に出合ったこと、このことによって、本願称名凡入報土の念仏、すなわち、専修念仏に帰入したことが記されている。
この『勅修御伝』所説の、法然上人が余行を捨てて一向専修の念仏に帰入された、という記述は、諸伝必ずしも一致しているわけではないが、承安五年、上人四十三歳専修念仏帰入説をとる資料も多見することができる。(望月信亨師、論文「法然上人立教開宗の文證について」『浄土教之研究』所収)