◎第3章◎ 社会的現代的背景とのかかわり
「別離、そして出会い」と布教教化


布教委員会委員 藤井正雄


「四苦八苦」は仏教の教えの根幹
 人生すべてが苦であるとするのが、仏教の出発点であり、根本原理であることはいうまでもない。このなかで「愛別離苦」とは、人生のなかで愛しい人と別れなければならない苦しみである。一方で、愛しい人と別れなければならない苦しみがあるとともに、怨み憎むものとも会わなければならない苦しみ、いわゆる「怨憎会苦」がある。これらの苦に、求めても得られない苦しみをいう「求不得苦」、人間の構成要素である身心が盛んになって起こる苦しみをいう「五蘊盛苦」、この四つを、人生の苦悩の根本原因である生・老・病・死の「四苦」に加えて「四苦八苦」という。
 宗祖法然上人の生涯には幾度となく別れと出会いがあった。編年風に述べてみるならば、父が定明の夜襲にあって倒れた後、母との別れがあり、叔父観覚や叡空など次々と善知識に出会って教養を積み、ついに浄土宗を開くに至る。この『布教羅針盤』のテーマが「別離、そして出会い」であるので、宗祖法然上人の伝記を取り上げて話す僧侶も多いと思うので、法然上人の別離と出会いにまず触れておく必要があると思われる。

尼入道とは
臨終を前にしての上人の御遺訓「一枚起請文」は、「浄土宗の安心起行この一紙に至極せり」とあるように、浄土宗の教義の根幹をなしている。そして、そのなかの一句「尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまひをせずして唯一向に念仏すべし」の文章がある。ここにみられる「尼入道」の表現にこそ上人の女性観、強いていえば人間観の原点が横たわっているとみたい。
 尼入道をどう解釈するかは大変問題であるが、「尼入道」は髪を切り落として仏門に入った未亡人ではないかと考え、そこに母のイメージが認められると述べる宗門の学僧がいる。(1)法然は、乳児が母の乳房を無心に求めるように、またおしっこをしたからおむつを換えて欲しいと無心に泣き叫ぶように、一心に称える念仏、なにも混じえない白木の念仏、愚者にたちかえった還愚の念仏を主張する。この「一枚起請文」の「愚かな、無学な尼入道と同じ態度で、さかしい学問をひけらかすことなく、ただひたすら念仏をとなえなさい」と遺訓する法然上人の心の中に、ひたすら救いを求めてきた母のイメージがあったからこそ、切髪の未亡人である「尼入道」という表現を用いたものとみることができる。

母子の別れ
 定明の夜襲で受けた重い傷がもとで父を失った後、『拾遺古徳伝絵詞』によるとその年の暮れに「怨みに報いるに怨みを以って為さず、わが菩提を弔え」という父の悲願を胸に懐いて、上人は叔父観覚のいる那岐山の山中にある菩提寺に入った。菩提寺の生活を察するに、大勢の修行僧の中に投げこまれたわずか九歳の少年の心情はいかばかりであったか。ともすれば、一人もの思いにふけることも多かったに違いなく、幼い上人の頭に去来するのは、おそろしい襲撃の一夜であったであろうし、なんとかして父の仇を討ちたいという思いと恩讐をこえよとする父の声、嘆き悲しむ母の涙顔が二重三重にとダブッて映り悩んだことであろう。
 叔父の観覚は幼い上人の心の動揺を見抜き、かえって厳しい指導を行ったに違いなく、一方、幼くとも聡明な上人は初めて聞く仏の深遠な教えに魅せられていき、次第に仇を討ちたいという決意は薄らいでくる。そして、そのかわりに父の遺言の意味を究めたいという願いの方が強くなっていった、とみていい。観覚は、幼い法然が器量の非凡であることに気づき、かつて自らが学んだ比叡山延暦寺に送ることを決意する。
 観覚は上人をともなって、母親のもとを訪れて比叡山行きを相談するが、突然の訪問に母の秦氏は驚くとともに、菩提寺に預けた九歳時から一段と成長して十五歳になったわが子を見て喜ぶとともに、あまりにも突然の比叡山行きの話に取り乱してしまう。比叡山は幾十里もへだてた遠隔の地であり、女人禁制の霊山では二度と会うことはできない。母の切なる思いは無言で、ただすすり泣くことしかできなかった。伝記は美しくも悲しい母と子の永遠の別離を『勅修御伝』巻二に詳しく伝えている。なお、十三歳説をとっている伝記もあるが『勅修御伝』は十五歳説をとっている。
 幼い法然は思案にくれている母を慰めるようにしていった。
「受け難い人身を受け、会い難い仏の教えに会うことができました。目の前に人と人とが傷つけあう無常の姿を見てからは、夢のように儚(はかな)い栄耀栄華を求めることは嫌になりました。なかでも亡き父の残されたご遺言が耳の底に留まって、心の中で忘れることができません。早く比叡山に登って、速やかに成仏への唯一つの教えである天台一乗の教えを学びたいのです。母がこの世にまします間は朝に夕に報恩の礼儀をつくし、たとえ粗末な食事であっても母に供える孝養の誠を尽くすベきでありましょう。しかし恩愛の情にほだされては本当の修行はできません。経文には迷いの世間を厭って仏の道に入り、真実を求めてこそ真実の報恩の道であると説かれています。しばしの離別を悲しんで、長い将来に悲嘆を残さないようにして下さい」
 このようにして法然は何回も繰り返して母を慰めたのであった。母は理を尽くした我が子の言葉に折れて承知したものの、悲しみの涙は袖でかくしようもなかった。とめどなく落ちる母の涙は抱きしめた法然の黒髪を濡らすのであった。迷いの世の習わしとはいえ別離の悲しみは忍び難く、浮世の慣いとて別れたらいつまた会えるか分からぬと考えると、気持ちは千々に乱れて惑うばかりであった。思えば、非業の最期をとげた夫が、ただ一つ残してくれた形見である我が子とまた別れねばならない。母はどうしたらよいか分からない自分の気持ちを次の歌に託している。『勅修御伝』巻二から引用してみよう。


かたみとて はかなき親の とゞめてし       この別れさえ またいかにせん


 誕生寺境内には大公孫樹おおいちょうが覆い茂っている。法然が母に別れを告げるために生家に立ち寄った際、杖代わりに手にしていた公孫樹の枝から生えたのが大公孫樹であるという。また、誕生寺は法然の生家の館跡に建てられた寺であるだけに、法然の生い立ちを偲ぶ思い出の遺品が多くある。客殿には上人ゆかりの品々が展示されているのはその例である。その一つ「人肌のれん木」は長さおよそ一メートル、公孫樹に枝から垂れ下がったこぶのことをいっている。故郷を後に遥か遠い比叡山に向けて旅立ったわが子法然の身代わりとして母のもとに置かれたもので、わが子を偲んで抱きしめた母の肌の温もりが伝わる木ということで、「人肌のれん木」と言っているそうである。

母と子の情愛溢れる往復書簡
上人が比叡山に登ってからの母子の手紙でのやり取りは、「母儀に遣はさるる御返事附母儀よりの御文」「御母子往復消息」で知られる二通の手紙からうかがうことができる。母は、今日明日をも知れぬ生命であるからこそ、せめて生命のある間に生き死にを解脱する道を詳しく教えて欲しいと訴え、上人は長文の返事を、分かりやすい仮名文字で、心を込めて念仏によって救われる教えを詳しく書き記し、信仰に生きることを勧めている。
 この母子の往復書簡は後代の作であるとしても、母と子の心の通いあう姿を描いてあまりあるものがあり、作者のすぐれた法然分析をみる思いがする。史実でないと斥けることは簡単であるが、上人にとって両親とは、『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり」とあるように、仏の心をもった、まさに慈父悲母であったのであり、父の遺言を支えた母の存在なくしては上人の大成はなかったものと考えたい。
 世に高僧・名僧として知られる祖師方も母を敬い、疎かにしているものはいない。『往生要集』の著作で知られる恵心僧都源信は母のために「悲母勧信往生文」を書き表し、また、新義真言宗開祖の興教大師 かくばんは往生浄土の大事を平易な仮名文で三十七項に分けて説いた『孝養集』三巻を書き記している。曹洞宗を開いた道元禅師は八歳のときに母を亡くしているが、終生母を慕いつづけ、日蓮宗を開いた日蓮聖人は身延の裏山に登ってはるか房州の方角に向かって母に合掌しているのである。


女性蔑視といった差別は存在しない
 すべての人間は母から生まれてくる。論理的に言えば母が穢れた存在であるならば、生まれてくる子供は皆穢れた存在でなければならない。何故に女性だけが穢れた存在となるのか。女性蔑視は歴史的な産物ではあっても、現代に通用する論理はない。法然上人の母を気遣うその思いをみるとき、「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土に参りなん」というたんたんとした、あらゆるものから解き放たれた心境は、母から学んだものに違いない。

布教教化への提言
○なるべく具体的な人物の生涯の例を挙げて法話をすることが望ましい。「別離と出会い」は人生を苦とみる仏教の根本教理であるからこそ、ある人物の生涯を取り上げるのは法話の真骨頂であるといえる。
 中野正明師、漆間宣隆師、香林亮善師の説法についてその概要と説法の姿勢についてコメントしつつ、論を進めていこうと思う。
 中野正明師は現在、華頂短期大学の学長であるが、師にとって恩師にあたる二師をとりあげて語っている。初めに大正大学大学院時代に師事した齋木一馬師、二人目は華頂短大に就職した後お世話・ご指導戴いた、後に大本山増上寺第八十六世の法主になられた藤堂恭俊師である。中野師はさらに、宗祖に常随給仕すること十八年、宗祖ご臨終に際して「一枚起請文」を請い、総本山知恩院第二世となった勢観房源智上人をとりあげている。平氏の出で、平家没落後源氏の探索を逃れて、十三歳の時母と別れて宗祖の室に入り、極楽浄土においては恨みに思う源氏も平家出身の我が身も平等の存在と説き、極楽にまします阿弥陀さまの誓願によって救われる道を示された宗祖の教えをそのままに実行された。
 源智上人こそはまさに「怨親平等」の教えの体得者である。大学院時代からの恩師から京都知恩院ゆかりの三人の師に触れた中野師の説法は聞くものの心を捉えて離さないであろう。
 漆間宣隆師は宗祖法然上人の滅後、その生誕の地に建てられたという、漆間師にとってはご縁の深い誕生寺にまつわる法話をしている。さらに一、二付け加えると、法然上人の誕生の地に、その弟子熊谷蓮生坊が大師の仏像を安置して念仏道場を開いた寺院である岡山県久米南町誕生寺で毎年四月の第三日曜日に行われる誕生寺練供養についてである。練供養は二十五菩薩迎接会ともいう。古くは単に迎講といった。『勅修御伝』を中心にして述べたので、練供養一般について見てみたい。一番古いとされる奈良県葛城市の當麻寺の法会を例に順次述べてみることにする。
 當麻寺は高野山真言宗と浄土宗の二宗で護寺されているが、その法会は當麻曼陀羅を織った中将姫の命日、五月十四日に行われている。当日、曼陀羅堂隣接の護念院に菩薩講員が集まり、面・衣装をつける。午後四時、第一鐘を合図に中将姫像の御輿を引僧および信者が娑婆堂に導いていく。第二鐘が鳴ると、真言宗僧徒が曼陀羅堂に出仕し、第三鐘で浄土宗僧徒が曼陀羅堂から来迎橋(曼陀羅堂と娑婆堂を結ぶ一二〇メートルの舞台橋)を渡り娑婆堂に到着、真言僧は曼陀羅堂の所定の席に着座して、各々読経が始まる。第四鐘が鳴ると、天人以下二十五菩薩が曼陀羅堂から来迎橋を渡り中将姫の待つ娑婆堂に向かう。行列の最後尾には観音・勢至・普賢菩薩が歩む。観音は蓮台を持ち、勢至は合掌してともに足を前後し、体をゆり動かしながら橋を娑婆堂へと練り渡り、浄土僧の唱える来迎和讃に合わせて蓮台に中将姫の化菩薩像を乗せ、勢至がその像を撫でる。観音・勢至が中将姫を捧げ奉奏舞を舞った後、二十五菩薩を引き連れて極楽浄土である曼陀羅堂へまた橋を渡って帰って行くのである。
 九品仏二十五菩薩来迎会は、三年に一回、八月十六日、午前と午後の二座行われる、東京都世田谷区奥沢、淨眞寺の行事(東京都無形民俗文化財)である。念仏信者が臨終を迎えると、西方浄土から阿弥陀仏が観音・勢至以下二十五菩薩を随えて、臨終間近の念仏者を迎えにくるという教えを具象化したものである。まず阿弥陀仏率いる二十五菩薩が、上品堂(浄土)に集まり、楽人を先頭に和讃を唱えながら、来迎橋をわたって龍護殿(現世)に入り、釈迦尊像のまわりを一めぐりし、堂内に安置された淨眞寺開山の珂碩上人の木像の輿を白衣の男性がかつぎ、二十五菩薩、御輿、僧侶、稚児の順に白道を渡り上品堂に「往生」する。さらに、来迎を受けた往生人は、浄土より再びこの世に還る「還相」を遂げて世に尽くす。以上が二十五菩薩来迎会の一連の流れである。
 菩薩に扮する者は、奈良當麻寺練供養や、現在は行われていないが、かつて営まれた長野県の平原十念寺二十五菩薩来迎会とは違い、当日参詣の信者が冥加料を納めて淨眞寺備えつけの面をかぶって勤める。一般にこの行道を「お面かぶり」と呼んでいる。お面は視界も悪く、個々に行道するのが困難なため、身内や僧侶が一緒に付き添って歩くのが一風俗である。
 京都市東山区今熊野、泉涌寺即成院(真言宗泉湧寺派)では、毎年十月の第三日曜日に二十五菩薩来迎会が行われる。午前中に法要があって、午後一時ごろから、二十五名の稚児を二十五菩薩になぞらえた練供養が行われる。同寺は阿弥陀如来と二十五菩薩を本尊とするので、菩薩の来迎により衆生を浄土に導く形は九品仏二十五菩薩来迎会と同じである。
 このほかに古風な練供養としては、岡山県瀬戸内市牛窓町千手、弘法寺練供養は如法経行供養ともいい、天平勝宝年間(七四九~七五六)に、報恩大師が伝えたとも、弘法大師が行わせたともいわれている。また、大阪市平野区に所在する融通念仏宗総本山大念仏寺では二十五菩薩聖聚来迎阿弥陀経万部法要が毎年五月一日から五日まで営まれている。本堂の回廊に設けられた橋の上を二十五菩薩の面をつけた僧侶が練り歩き、寺庭婦人の舞・念仏踊り・稚児行列が彩りを添えている。一般には「万部おねり」で知られ、鎌倉期に始まった聖聚来迎会と江戸期に始まった阿弥陀経万部会が融合したものといい、平成十四年に大阪市の無形民俗文化財に指定されている。
 以上、練供養の全般の事例について述べたが、ご縁の深い誕生寺の行事を優しく解説するのは結構なことである。布教教化は一般人を対象とする前にまず檀信徒の心をしっかり掴むことが何よりも大切である。漆間師は寺の行事である練供養に触れ、さらに寺に残されている文書を用いて母との別れを切々と語る。僅か三十七歳で寂しく息をひきとった母の訃報を聞いた宗祖法然上人の胸中はいかばかりであったろうか。父の菩提を弔い、人々の心を救う人間となれという遺言の願いも叶えず、母の苦しみも救えぬ無力感に さいなまれたに違いない。
 別れの後に出会いがある。皇円、叡空といったよき師に恵まれた。保元元年法然二十四歳のとき、迷いの世界から脱却するための祈願のために、叡空上人に暫くの間の暇を申し出て、嵯峨の釈迦堂に七日間の参籠を行った。参籠に引き続いて、南都の学匠を尋ねたが、求める解答は得られなかった。重い足を引きずって再び黒谷に戻り、報恩蔵という経蔵に籠もって、一切経に読み耽り、古今の諸師の注釈にも目を通し、ついに救いの道を見出されたのであった。奇しくも父の亡くなった四十三歳の時であったという。
 漆間師は誕生寺の行事である練供養の解説に触れたが、御影堂の法然の御影に合掌する両親の座像が安置されていることに触れ、三人が声高らかに念仏を称えて蓮の台にのぼる姿を描いて終わりとしている。
 一方、香林師は一女性の生き様に触れている。登場する女性は在家に生まれ、キリスト教に関心をもつ看護師となった一女性が、縁あって浄土宗のお寺の跡取りと結婚、跡取りは体調を崩した師父にかわって法灯を継いだ。師父を見送り、寺庭婦人として寺院を支えることはもとより、看護高等専修学校の教務主任の重責を担っていた。その矢先、突如、住職を襲ったガンのために入院、ガンの告知もしないままに退院後一年、住職は極楽へと旅立った。住職と看護師と立場を異にしながらも互いに人の死に直面する仕事に携わりながら、死を見つめることもなく、住職亡き後の寺の将来を心ゆくまで二人で話し合わなかったことを悔いた。
 寺に入って二十年の歳月は何であったか、故郷の群馬に残してきた齢八十に近い老婆となった母からの「帰って来い」との温かい便り、念仏を勧める側の浄土宗の寺にあって、心から念仏が湧き起こってこなかった私、暗中模索の中に勤めた中陰法要、そんな中、ふと本堂の隅の障子の陰に貼ってあった一枚のポスターが目に留まった。宗務庁から配布されたもので、二十歳前後の若い女性の笑顔に「ひとりじゃない」の文字が添えてあった。
 早速手続きをとって助教師養成講座の道場に飛び込んだ。併せて律師養成講座も受講、総本山での加行を終えて、晴れて尼僧になり、お寺の住職を拝命した 。
 僅か小学六年生で父親と別れ、看護師となって病院勤め、そこで運命的に出会った寺の跡取り、師父との別れ、法灯を継いだ夫との別れ、すべてを失った後に出会う仏、こんな女性の一生を追った法話であった。
 以上、三師の法話を記したが、その後が問題となろう。互いに人物を取り上げて別離とその後の出会いを語っていることに共通点はあるが、法話のあとに聴衆に法話についての感想を聞くといった、例えば座談会などを開くことが必要であるといえる。法話をめぐってどのように受け止めたかを聞き、人生の苦しみを乗り越えたときに、真の人生があることに聴衆一人ひとりに気づかせることが肝要である。
 次に、法話の要件として現状に相応した法話をすることである。次の「社会的・現代的背景について」で現代の状況について概観するが、法話は聴衆の日常生活を送るうえで有益な、糧となる実のあるものにすることが肝要である。確かに、人生のなかで別離と出会いを同時に体験することは当事者にとっては苛酷なものである。最初に「念仏を称えるなかに気づかせていただく」ことが大事である。この点で、手っ取り早くその体験者から情報を得る方法について以下報告していきたい。


社会的現代的背景について
 現代人の特徴を一言で述べると、多忙で多様性に富んでいることである。日常生活が多忙であるからこそ、別に日時を限って修するのが「別時」の起こりである。宗祖法然上人は「七箇条起請文」(和語)のなかで、


時々別時の念仏を修して、心をも身をも励まし、整え勧むべきなり。日々に六万遍、七万遍を唱えば、さても足りぬべきことにてあれども、人の心様は、甚(いた)く目慣れ耳慣れぬれば、 いらいらと勧む心少なく、明け暮れは?々として心閑かならぬ様にてのみ、疎略に成り行くなり。その心を勧めんためには、時々別時の念仏を修すべきなり。しかれば、善導和尚も懇ろに励まし、恵心の先徳も詳しく教えられたり。
(『勅伝』第二十一巻/聖典六・二九四)


と述べている通りである。次に、誰でもが時間さえあれば参加できる仏道修行を紹介することにしたい。

〈別時念仏会〉
 浄土宗寺院では、宗祖法然上人の命日である二十五日に別時念仏会が無料で開かれているところが多い。京都にある総本山の知恩院では、御廟拝殿で毎月二十五日十一時三十分から十二時三十分までの一時間、上人の遺徳を偲びながら参拝者の念仏を称える声と自身の声とが一体となり念仏を称えるなかの生活が味わえる(御廟は現在修復中につき、平成十九年秋までは勢至堂で実施)。ひとときの念仏生活が味わえられることがその人の一生の生活を左右する体験となる場合がある。  東京の大本山の増上寺では毎月二十四日十八時三十分から約一時間、別時念仏会が、またこれとは別に、毎日十六時三十分から十七時まで「夕念仏」が開かれている。自身は念仏行に励み、法話もあるのでひとときを有意義に過ごすことができる。
 このほか、鎌倉の大本山光明寺では毎月二十五日十四時から一時間開かれている。
 また、法然上人の御忌会や、地方によっては通夜のあと念仏講によって、大念珠を輪になって正座した参加者が手から手へと繰りながら念仏を称える。一人で称える念仏よりも大勢で称える念仏会は、道場いっぱいに念仏の声が溢れ圧巻である。

〈僧尼体験修行〉
 浄土宗には宗意の奥義を相伝する「五重相伝」がある。文字通り浄土宗の奥義を五重にわけて相伝することからその名があるが、七祖聖冏から聖總に伝えたものを初めとして、浄土宗各寺院住職にとって一度は営まなければならないとするものである。五重相伝は時期を定めて行うものであるから、その機会を逸するとおいそれと接する機会がないとあきらめることはない。一日ないし三日の日程の僧尼体験修行を実施しているところもあるからである。尼僧体験は住職に聞いてから出掛けるとよいだろう。


〈写経〉
大きな寺ならば、どこでも手軽に参加できるのが写経である。インドや中国でも行われたが、我が国での写経の歴史は意外に古い。日本では六七三年(天武二)に川原寺(奈良県明日香村、現在は跡地に弘福寺がある)で一切経の書写が行われたとする記事が『日本書紀』に残されているのが初見である。奈良時代には官設の書写所が設けられた。平家一門が厳島神社に納めた「平家納経」は今日でもその装飾の美しさは些かも衰えていない。鎌倉時代に印刷技術が起こり一時衰えたが、斎戒沐浴して身体を清め、部屋を荘厳して静かに墨を擦り机に向かって写経するといった、「信仰としての」写経は今日まで連綿として伝承されている。
 書写する経典は、ポピュラーなのは『般若心経』だが、浄土宗なのだから「四誓偈」「一枚起請文」などがよい。書体は楷書、行書、草書いずれでもよく、ペン字でもいいところがあるので、よく聞いてから入門すればいい。


〈写仏〉
 仏の形像すなわちその姿を写すことであるが、写経のように根拠となる経典がなく写仏修行が布教活動の一環として取り入れられた歴史は浅い。写仏に必要な用具は基本的には写経と同じである。すなわち筆、墨、硯と写仏用紙と手本とである。手本は写仏会を行っている寺院では、写仏用紙とセットになっている場合が多い。手本は薄墨で書いた絵、これを白描画というが、濃い墨でなぞってもいいし、彩色する場合には絵具や彩色筆などが必要になるのであらかじめ決めておくといい。腕が上達して描いてみたい仏画があれば、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩といった弥陀三尊像が好ましいが、所蔵する寺院や美術誌を求めて静かに心を一にして対することはいうまでもない。写仏は修行として行うものであるから、写し取った仏の巧拙を比較するものではないことを肝に銘ずるといい。

〈その他〉
その他として仏間に座して断食修行をしたり、精進料理を食べたり、精進料理を習ったりすることができる。また、講習会に参加するのもいい。大正大学、佛教大学、総大本山などの大寺院で営まれている講演会など機会を捉えて仏道の修行をその気持ちさえあればいつでも、どこでも可能である。

 日常生活が多忙であるからこそ、別に日時を限って修するのが「別時」の起こりであることを前に述べた。また、人生の苦しみを乗り越えたときにこそ真の人生があることを、法話を聞く聴衆一人ひとりに気づかせることが肝要であり、そのためには「一枚起請文」にあるように、念仏のなかに生活させていく心構えをさせるのが法話の狙いといってもいい。

(1) 服部英淳「母のたより」『仏教とはなんだろうか』増谷文雄・服部英淳篇、昭和五十六年、道心会出版部。