3 一旦の別れは永劫の出会いへ
聖如房のこと
『勅修御伝』は弥陀の四十八願に凝して四十八巻で構成されているが、王本願にあたる第十八巻では『選択集』『往生大要抄』や女人勧化のことが述べられている。その次の第十九巻から諸人への消息や法語が載せられているが、九条兼実公の北政所宛の書状についで、聖如房へのお手紙が記されている。
聖如房がどのような人物であったかよくわからなかったが、岸信宏猊下のご研究で聖如房が承如法の宛字で、後白河天皇の第三皇女式子内親王と知られるにいたった(「聖如房に就て」『仏教文化研究』五)。それに先立って、小川龍彦師もそのように考えられていた(『新定法然上人絵伝』)。お名前の表記は「しやう如ぼう」(『西方指南抄』下ノ本)、「正如房」(『和語燈録』)と出ているが、今は『勅修御伝』のように「聖如房」とする。
法然上人の書状は、聖如房が明日をも知れぬ状態になられて、いま一度お会いしたいと懇望されたことへの返書である。『勅修御伝』には、
尼聖如房は、深く上人の化導に帰し、ひとえに念仏を修す。所労のことありけるが、臨終近付きて、「今一度上人を見奉らばや」と申しければ、この由を上人に申すに、折節別行のほどなりければ、御文にて細かに仰せ遣わされけり。
(第十九巻/聖典六・二四六)
という前書きがあって、長文の返状が収められている。
聖如房の叫び
式子内親王と法然上人の出会いがいつであったか、史料上の明徴はないが、おそらく文治四、五年のころであったろう(石丸晶子『式子内親王伝 面影びとは法然』一九八九年・朝日新聞社刊、一九九四年・朝日文庫)。石丸教授は、八条殿で八条女院と同居時代に信心深い八条女院が法然上人を招いて法文を聴聞されたときに、同席した形ではじまったのではないかと推考されている。この女院と親交があった九条兼実も文治五年に法然上人から「法文および往生業」を聴聞し、受戒している。式子は建久のはじめ押小路殿で出家したが、戒師はおそらく法然上人であったろうという(同)。
式子は文治元年八月、准三后宣下をうけていたが、彼女は文治六年のはじめごろ、呪詛のうわさがあり、これが出家と関係があるらしい。こえて建久七年六月、吉田経房邸にいた式子に洛外追放の決定が下され、彼女の境涯は闇の底にあった。加えて病弱が度を増し、正治二年はじめから乳の腫れがあり、症状は悪化を辿るばかりであった。呪詛、妖言事件に懊悩は晴れず、病魔の跳梁に心身の悲傷は極限に及び、目前に死が待っていた。聖如房(承如法)と法然上人とがあい見(まみ)えてののちの期間は、十二、三年ぐらいにすぎない。浄土往生の信仰を受容してからというものは、それに徹しようとする彼女であったが、病が進むのを見て、念仏の往生行を惑わそうとする身近な縁者もいた。法然上人の最後の導きを得て、せめても臨終の善知識となっていただきたい、と縋りつくほかはない。このような状況、おもいを切々と訴えたのが聖如房の書状であった。
法然上人は、聖如房のこの心の叫びに応えなかった。それは、深い宗教愛に発してのことであった。法然上人は、聖如房に会おうとする心を強く押しとどめて、長文の消息を届けた。その内容を抄記してみると次の通りである。
上人の返書ところどころ
(イ) 正如房の御事こそかえすがえすあさましくそうらえ。(中略)ただ例ならぬ御事大事になんどばかり承りそうらわんだにも、今一度見まいらせたく終りまでの御念仏の事もおぼつかなくこそ思いまいらせそうろうべきに、まして御心に係けて常に御尋ねそうろうらんこそまことにあわれにも心苦しくも思いまいらせそうらえ。左右なく承りそうろうままに参りそうらいて見まいらせたくそうらえども、思い切りてしばし居て歩きそうらわで、念仏申しそうらわばやと思い始めたる事のそうろうを、様にこそよる事にてそうらえ。これをば退しても参るべきにてそうろうに、また思いそうらえば、詮じてはこの世の見参とてもかくてもそうらいなん、屍を執する惑いにもなりそうらいぬべし。誰とても止まり果つべき身にもそうらわず。我も人もただ遅れ先立つ替り目ばかりにてこそそうらえ。その絶え間を思いそうろうも、またいつまでぞと定めなき上に、たとい久しと申しそうろうとも、夢幻幾程かはそうろうべきなれば、ただかまえてかまえて同じ仏の国に参り合いて蓮の上にてこの世のいぶせさをも晴るけ、ともに過去の因縁をも語り、互いに未来の化導をも助けん事こそかえすがえすも詮にてそうろうべきと始めよりも申し置きそうらいしが、かえすがえすも本願を取り詰めまいらせて一念も疑う御心なく十声も南無阿弥陀仏と申せば、我が身はたといいかに罪深くとも仏の願力によりて一定往生するぞと思し召して、よくよく一筋に念仏のそうろうべきなり
(『和語燈録』巻十四/聖典四・四二四~四二五)
〈要旨〉
ご病気のただならぬ様子に、今一度お目にかかりたいと思います。別時念仏を止めてお会いすべきですが、結局のところ、この世での見参は
骸に執する惑いともなります。だれも生き続けることはできないし、おくれ先き立つかのちがいだけです。この世は不定、人はだれしも夢幻の短い生涯です。初めてお会いしたときから、同じ仏の国土に参って、蓮の上で、この世のうっとうしさを晴らし、過去の因縁をも語り、未来の教化を助けあうことこそが大事なことだと申しておりました。よくよく仏の願力を信じて、疑う心なく、十声でも南無阿弥陀仏と申したなら、仏の本願力によってどんなに罪深いものもまちがいなく往生できると思われて、一筋に念仏されますように。
(ロ) 我らが往生はゆめゆめ我が身の善し悪しきにはよりそうろうまじ。偏に仏の御力ばかりにてそうろうべきなり。我が力ばかりにては、いかにめでたく貴き人と申すとも末法のこのごろ直ちに浄土に生まるる程の事は有難くぞそうろうべき。また仏の御力にてそうらわんには、いかに罪深く愚かに拙き身なりともそれにはよりそうろうまじ。ただ仏の願力を信じ信ぜぬにぞよりそうろうべき。
(同/聖典四・四二五)
〈要旨〉われらの往生は決して自身の良い悪いによってするのではなく、ひとえに阿弥陀仏の御力によるばかりです。自分の力では、どんなに立派で貴い人であっても、末法のこのごろではすぐに浄土に生まれるようなことは有り得ません。往生は阿弥陀仏の御力によるのですから、どんなに罪深く、愚かで劣った身であっても、それとは関係ありません。ただ仏の願力を信じるか、信じないかによるのです。
(ハ) さて往生せさせおわしますまじき様にのみ申し聞かせまいらする人人のそうろうらんこそかえすがえすあさましく心苦しくそうらえ。いかなる智者めでたき人人仰せらるとも、それにな驚かせおわしましそうろうぞ。各の道にはめでたく貴き人なりとも、解りあらず行異なる人の申しそうろう事は往生浄土のためにはなかなかゆゆしき退縁悪知識とも申しぬべき事どもにてそうろう。ただ凡夫の計をば聞き容れさせおわしまさで、一筋に仏の御誓いを馮みまいらせおわしますべくそうろう。解異なる人の往生いい妨げんによりて一念も疑う心あるべからずという理は、善導和尚のよくよく細かに仰せられ置きたる事にてそうろうなり。
(同/聖典四・四二六~四二七)
〈要旨〉(お手紙によると)あなたが極楽往生はなされないようにいう人々がいるようですが、かえすがえすもあきれることです。どのような智者や立派な方が言われようとも驚かれませんように。その道で立派な人であっても、行の異なる人が申すことは往生のためには退縁、悪知識ともなります。悟りに達してない人のはからいを聞き入れられずに、ひとすじに仏の本願をおたのみになるように。理解がちがう人が往生を妨げようといろいろ言うのにまどわされ、往生を一念でも疑われてはなりません。このことわりは善導和尚がこと細かに『観経疏』に説いておられます。
(二) なかなかあらぬ様なる人は悪しくそうろうなん。ただいかならん人にても尼女房なりとも、常に御前にそうらわん人に念仏申させて聞かせおわしまして、御心一つを強く思召して、ただなかなか一向に凡夫の善知識を思し召し捨てて仏を善知識に馮みまいらせさせたまうべくそうろう。
(同/聖典四・四二八~四二九)
〈要旨〉異学の人がいうことは悪いことでしょう。ただどのような人でも、尼女房であっても側近にいる人に念仏を申させて、お聞きになられ、極楽往生の心を強くして、ひたすらまだ悟ってない人を善知識とするのを避け、阿弥陀仏を善知識と馮まれますように。
(ホ) かように念仏を掻き籠りて申しそうらわんなど思いそうろうも、偏えに我が身一つのためとのみはもとより思いそうらわず。おりしもこの御事をかく承りそうらいぬれば、今よりは一念も残さずことごとくその往生の御助になさんとこそ廻向しまいらせそうらわんずれば、かまえてかまえて思召す様に遂げさせまいらせそうらわばやとこそは深く念じまいらせそうらえ。もしこのこころざしまことならばいかでかまた御助にもならでそうろうべき。馮み思召さるべきにてそうろう。
大方は申し出でそうらいし一ことばに御心を止めさせおわします事もこの世一つの事にてそうらわじと、前の世もゆかしくあわれにこそ思い知らるる事にてそうらえば、承る事はこの度まことに先立たせおわしますにても、また思わずに先立ちまいらせそうろう事になる定めなさにてそうろうとも、終に一仏浄土に参り合いまいらせそうらわんは疑なく覚えそうろう。夢幻のこの世にて今一度なんと思い申しそうろう事はとてもかくてもそうらいなん。これをば一筋に思召し捨てていとども深く願う御心をも増し念仏をも励ましおわしまして、彼にて待たんと思召すべくそうろう。
(同/聖典四・四二九~四三〇)
〈要旨〉このように房籠りして念仏をつとめようとしているのは、自分だけのためとはもとより考えていません。ちょうどご病気が重篤と聞き、今よりは一念もあまさず、そのことごとくをご往生のお助けにしようと回向させていただきますので、よくよく心におかけになっているように往生なさるように深く念じています。もしわたくしの志がまことであれば、どうしてご往生のお助けにならないことがありましょうや。きっと力になると考えて下さってしかるべきです。およそはわたくしが申しておりました往生浄土についての言葉をお心に留めて下さっていることも、この世だけの因縁だけではなかろうと、前の世のことも知りたいと思われ、うけたまわったように、本当にわたくしよりも先き立たれても、またわたくしの方が先き立つにしても、ついには同じ阿弥陀仏のお浄土に参って、そこでふたたびお出会いできるのは疑いのないところです。夢幻のこの世で、いま一度お出会いしたいと思ったのは、どうでもよろしいことでございましょう。会いたいなどとはお思いにならずに、往生を願う心を増し、お念仏を励まれて、浄土で待とうと思って下さい。
ふたりの再会
法然上人は、聖如房に会わずに、浄土での再会を待つように申し送った。上人は浄土での再会を約して、涙のうちにこの世での離別に踏み切った。聖如房がこの世を去ったのは、法然上人の書状が届けられて間もない正治三年(一二〇一)正月二十五日である。それから八年後の同じ正月二十五日に二人は浄土で再会したのであった。
[付記]『勅修御伝』の、聖如房への上のご消息は部分的に省略されている箇所があるが、『黒谷上人語燈録(和語)』(元亨版)には抄出ではなく全文伝えられている。法然上人の聖如房への言説のなかに『観無量寿経』や善導大師の聖教も引用されている。その全文に対し、石丸晶子教授の現代語訳が世に出ている。石丸晶子著『式子内親王伝 面影びとは法然』(二二六~二三八頁、一九八九年)、他に朝日新聞社の「朝日文庫」にも同名の書(二二五~二三五頁、一九九四年)がある。これらの名著をぜひお読み下さることをお薦めする。