◎第3章◎ 社会的現代的背景とのかかわり
  「怨親を超えて」と布教教化


布教委員会委員 藤井 正雄



 現代ほど「怨親を超える」道は、言うは易くとも実行は至難の技である。確かに、怨親を超える道こそ宗教の閾域の問題であるには違いない。宗祖法然上人の出家の動機になったのは、『勅修御伝』第一巻に詳しく述べられているが、父時国がいまわの際に、枕辺に九歳になる上人を呼んで残した遺言である。その遺言こそが法然上人の生涯に亙っての怨親を超える道の選択となったことを思い起こさなければならない。
 『勅修御伝』第一巻に出てくる一文の大意は私なりに口語訳にしてみると次のようになる。
「私は命を終わろうとしている。中国の故事に〈会稽かいけいの恥〉があるが、これを恥と思い、敵を怨んではならない。これは私の前世からの宿業である。もし怨みをもって敵を討てば、敵の子はまた汝を仇と狙い、その仇はいつまでも続いていくであろう。それよりも、一日も早く俗世間から離れて、私の菩提を弔い、永遠の道を求めて欲しい」と遺言し、正座して西に向かい合掌して眠るかのようにして絶命したのであった。
 ここにいう「会稽の恥」というのは、中国の春秋時代に越王勾践こうせんが呉王夫差ふさと会稽山で戦って敗れてしまったが、多年辛苦の後についに夫差を破って会稽の恥をそそいだという故事であった。
 この遺言を幼い勢至丸が理解しえたのであろうか。勢至丸としては、長じて武士となってからは、仇討ちをして父の無念をはらすように遺言して貰いたかったといえよう。また、漆間家の総領としては、定明を討って亡父の恥をそそぐのが武士としての本懐を遂げることであったであろう。遺言では仇討ちの本懐を遂げても、今度は逆に仇と狙われ、その連鎖は永遠に続いて行くことになる。多くの伝記は、この連鎖を断ち切って父の菩提を弔い求道生活に入れという遺言を契機に法然の出家への第一歩が踏みだされたと誌している。  誠にむべなる哉である。しかし、わずか九歳の幼き魂に「怨みに報いるに怨みを以って為さず」の深意がどの程度理解されえたのかは別として、この遺言が幼な子の脳裡に焼きついて法然の内面に潜み、次第に大きく人間存在をみつめての一筋の道にと醸成していったことは言うまでもない。言いかえれば、この遺言こそが、法然の全生涯を根本的に決定づけたといっても過言ではないであろう。このことは、法然出家以後の、求道生活をみれば十分に窺うことができるであろう。
 標題となっている「怨親を超えて」と同じ意味の仏教語に「怨親平等」という言葉がある。「怨親平等」は仏典には「怨親平等心 不レ務二於財色一」(『仏所行讃』一)、「於二怨親中一平等無二」(『大集経』二五)とある。その意味は、大慈悲を根源とする仏教の教えそのものである。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり」とある通りである。これは、自分を害する怨敵(怨)を憎むべきでなく、自分に愛を寄せる親しい者(親)に執着してはならず、両者を差別しないで平等に慈悲の心を持つべきであることを表している。自分に危害を加える怨敵でも憎まず許せるかと自問自答しても無理である。「怨親を超える」とは恨みある敵でさえも、親愛する人と同じように平等に扱うという意味である。頭で理解できても、いざ憎い人と対した時、親愛する人と同じくすることができるだろうか。
 釈尊の説話に次のような話が伝えられている。昔、インドに小国があり、隣国の大国に滅ぼされてしまった。小国の王は刑場の露と消えなんとするとき、王子であった嗣子を呼んで「長く見てはならない。短く急いではならない。慎みは恨みなきによって静まる」と言い残して息絶えた。ここにいう「長く見てはならない」という意味は、恨みをいつまでも抱くな、という意味であり、「短く急ぐな」とは短気を起こして友情を損ねるようなことはするなという意味である。
 「恨みを鎮めよ」といわれても、凡人にできるものではない。当時王子であった嗣子は九死に一生を得て釈放されたが、その人生は、復讐の念におおわれた一生であった。機会を得て大国に雇われ、国王の信任を得て、近づくことに成功する。国王が猟に出掛けた折り、山野を駆け巡った国王は疲れてかつての隣国の王子の膝枕で寝てしまった。今こそ父の復讐の時がきたと、彼は刀を抜いて国王の首に刃を当てた。その瞬間父の臨終の言葉を思い出して躊躇していた。目覚めた国王に向かって彼は一部始終を告白した。国王は大いに感動して、今までの罪を詫び、彼に元の国を返して和解した。

◆この釈尊の説話を『勅修御伝』と比較すれば判るように、『勅修御伝』にある法然の生涯を決定づけた話は実は釈尊の物語と共通であることを突き止めたならば、このことから「仏教とはなにか」の話を法話として語ってもいいと言える。
◆また、この遺言通りに人生を貫いた人々の生涯を例にして法話を試みるのもいい。ここに卑近な、コンピュターで検索可能ないくつかの例を布教材料として挙げてみよう。

(例1) 
○『勅修御伝』に出てくる時国の遺言の言葉を再び日本人の心に刻みつけたのは、第二次世界大戦後のセイロン、現在のスリランカ民主社会主義共和国の大統領ジスニアス・リチャード・ジャヤワルデネ氏の言葉であった。ジャヤワルデネ氏といえば、昭和二十六年(一九五一)のサンフランシスコ対日講和条約にセイロン代表として出席し、法然が胸に懐いた父時国の遺言と同じ趣旨の「この世の中では怨みは怨みによって決して鎮まるもではない」という『法句経』の一文を引いて対日賠償請求権を放棄したことはあまりにも有名である。敗戦の悲惨な状況下にありながらも荒廃から立ち直ろうとする当時の日本人に大きな希望を与えたものであった。このこともあって、現在、日本国として開発途上国への援助額は東南アジアで最高となっているのであり、また、スリランカはアイ・バンクによる角膜の提供国としても知られている。  私事になるが、昭和五十八年にはじめてのスリランカの訪問であったが、仏教伝道協会長の沼田恵範氏の代理としてジャヤワルデネ大統領とお会いして、持参した『仏教聖典』を手渡しすることができた。また、平成十七年、コロンボ大学院に国際交流基金による客員教授支援プログラムに採用されて赴任できたのも、浄土宗の信仰に生きる私にとって感慨ひとしおの思いで一杯であった。

(例2)
○日本歴史上刮目すべき外国からの大軍の侵攻を受けた最初の国難は、文永・弘安の二度にわたる蒙古来襲であった。世に「元寇の役」と知られる国難の発端は、鎌倉幕府が再三にわたる蒙古の使節を追い返し、さらには使節の首を刎ねるといった暴挙にでたことから始まった。文永十一年(一二七四)に起こった「文永の役」では、元軍は、蒙古人・女真人・中国人など約二万人、高麗軍八千人、舵取り・水手など六七〇〇人を加え、計九〇〇艘の遠征軍を組織して対馬・壱岐の海辺部に侵攻した。毒矢が放たれ、火薬をこめた鉄砲が撃たれ、残酷な狼籍の悲劇が海辺部に繰り広げられた。ところがその夜暴風雨となり、暴風雨はいわゆる神風となって大船団の多くの船を破壊し、兵士たちを荒海に投げ出して溺死させ、生き残った元軍の兵士たちはおおくは捕虜となり、少数がほうほうの体で逃げ帰った。この「文永の役」では、福岡の筥崎八幡宮の「敵國降伏」の額が掲げられたという。
 一方、元軍はこの暴風雨で退去を余儀なくされたにも懲りず、弘安四年(一二八一)再び対馬・壱岐を侵攻し、残酷な狼籍の悲劇を繰り広げた。ところがその夜「文永の役」と同様に、暴風雨となり、日本は劇的な勝利を再びおさめた。世に「弘安の役」という。翌十二月、鎌倉幕府の執権北条時宗は、彼・我の犠牲者の冥福を祈り鎌倉に円覚寺を建立したという。

(例3)
○「元弘の乱」(一三三一)といえば、後醍醐天皇の討幕が幕府側に洩れて笠置山に引きこもったが、このときに召された楠木正成は千早城や赤阪城に立て籠もり幕府軍を苦しめ、幕府滅亡を速めたといわれている。「寄手塚・身方塚」は、楠木正成が赤板の合戦のあと、敵(寄手)、味方(身方)の区別なく戦死者を弔うために、富田林駅の南東、西楽寺の西南西の森屋墓地内に五輪塔を建立したと伝えられている。
 この正成の敵味方の区別をせずに供養した伝承は、後年日本が赤十字に加盟する際の説明に使われたという。寄手塚は、楠木正成が千早赤阪を攻めた幕府軍の戦死者の霊を弔うため、造立したものといわれている。高さ一八二センチある大型の石造五輸塔で、石材は葛城山付近から産出する 「角閃石黒雲母石英閃緑岩かくせんいしくろうんもせきえいせんりょくがん」が使用され、中央部の丸い塔身(水輸)に金剛界四仏の梵字が薬研彫りされている。鎌食時代後期に造立されたものといわれ、大阪府の有形文化財建造物に指定されている。  身方塚は、味方の戦死者のために建立されたもので、高さ一五六センチの寄手塚よりひとまわり小さな石造りで、五輪塔の下にある返花基壇から、大和系の石工が造った五輪塔であることが分かっているのだという。石材は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)であり、石榴石ざくろいしと呼ばれる小さな赤い石がみられる。南北朝時代のはじめに造立されたものとされており、大阪府の重要美術品に指定されている。
 寄手塚・身方塚の造立年代には約二五~五〇年くらいの隔たりがあるそうで、同時に造立されたものではないということである。

(例4)
○時宗の総本山清浄光寺の境内には、応永二十五年(一四一八)に建立された「敵御方みかた供養塔」がある。その所以は、応永二十三年から翌年にかけて前関東管領上杉氏憲と鎌倉公方足利持氏との合戦で多数の戦死者がでた。その戦死者の慰霊碑である。碑文には戦火で命を落とした敵味方の人畜の往生浄土を僧俗ともに祈願し十念を称すべきことを刻んでいる。
 
 以上、引用した類例はわずかではあるが、法話には無限性の要素を秘めている。(例2)として掲げたのは、元寇の例であったが、事変後七二一年の歳月をへた平成十五年九月十七日、元冠の古戦場にモンゴル国のガンダン寺ハンバラマ管長猊下などを大導師に、高野山蓮花院東山大阿闇梨とともに「元寇の役敵味方鎮魂地球平和祈願」が催されたという。また、アメリカのニューヨーク市の世界貿易センタービルで起こった9・11テロ事件の際、新聞報道はなされなかったが、世界中の多くの宗教者が追悼集会を開いていた。たまたま筆者はボストンに在住していたので、宗教者はいうまでもなく一般市民がどのように行動したかをつぶさに観察することができた。法話は身近に展開されているものを取り上げるべきである。
 「怨親を超える」道は心では解っても実践は難しい。そのことに一歩近づくには供養・慰霊・追悼しかありえないと説く僧侶も多い。それは人間のさがでもある。「人間とは何か」を語るのもいいであろう。
 またここに掲げた類例は全国的に知られている例でもある。地方にのみ伝わっている話もある。もし格好なものがあれば、それを題材にした方がかえって親しみが増す場合もあろう。

(例5)
○『怨親平等』をずばり出さなくて、菊地寛の『恩讐の彼方に』の短編小説を取り上げて「怨親を超えて」と対照して話を切り出すのもいい。この短編小説は一九一九年に『中央公論』に発表されたもので、大分県北部の耶馬渓の名勝の一つである「青の洞門」の開削の史実に菊地寛が取材し、短編小説化したものである。江戸中期に主人を殺した男が髪を下ろして禅僧となり、真如庵禅海と名乗り、「鎧渡し」と呼ばれていた難所に山を切り開き道を作る大仕事に取り組んだ。父の仇討ちに訪れた実之助は禅海の姿を見てその大仕事に協力して、二一年目にトンネルは開通する。仇討ちの無意味さと恩讐(恩と怨み)を超えた人間愛とを綴った菊地寛の代表作で、当時劇場で公演、講談や浪花節にも取り上げられ、国語の教科書にも掲載された。
 
 一般的にものを見る場合、それを主観的に見るか、客観的に見るかのいずれかの見方をするが、見比べてものを見る場合、何が知りたいかといった目的・ねらいが違うと焦点の合わせる方が自ずと違ってくる。すなわち、異質性に焦点を合わせる場合と同質性に焦点を合わせる場合とでは違う。たとえば、仏教の特徴を知りたい場合には手っ取り早くキリスト教と比較対照すればその違いが自然に浮き彫りになってくる。人間性を掘り下げる問題にしても、「慈悲」と「愛」をとりあげても、異質性に焦点を合わせて仏教の特徴を知ることができる。
 それから、もう一つ、何故に仏教とキリスト教とは世界宗教であると言ったり、普遍宗教であると言ったりするのかという問いを立てたとすると、仏教とキリスト教の同質性に目をむければ、仏教もキリスト教も救済の対象は人間であって、人間の性別・人種・国籍を問わない。だからこそ仏教とキリスト教とは世界宗教であり、普遍宗教なのだと分かるのである。仏教語の「怨親平等」はキリスト教にいう「汝の敵を愛せよ」にあたる。宗教なるものは、一言で言えば「豊かな心」をもつ人間に育てることにある。「自分が、自分が」という心を捨て、争いを静める事にあったのではなかろうか。宗教の原点にたちかえって仏教語の「怨親平等」の一文を味わうもいいであろう。
 西欧にいう「目には目、歯には歯」と異なり、原爆の被害者でもある広島の人々が「ノーモア・ヒロシマ」と碑文に書いた所以を宗祖法然上人が父からの「遺言」とあわせ共に考える。いうならば日本文化の問題として考えるのもいい。
 靖国問題を論ずるのもいいであろう。西欧の無名戦士の墓、閣僚の靖国神社参拝、靖国神社にかわる国立追悼施設の構築、愛国心と怨親平等とのかかわり、などを異質性の問題として日本文化や仏教の特徴を論じようと、また同質性に目をむけて仏教と他の宗教との共通面を見い出すのもいいであろう。


 定本になった『勅修御伝』は、『浄土宗聖典』第六巻、平成十一年十月に浄土宗から刊行されているので、法話をする際、聴衆の檀信徒にコピーなり、購入して貰うことも考慮に入れた方がいい。