3 あえてうらみを解いた人と解かなかった人
法然上人の出家の原点は、うらみの解消にあった。
四国配流よりさかのぼること七十五年、時代は武士台頭のころ、法然上人(勢至丸)は生まれた。その前年、平忠盛が武士としてはじめて昇殿が許された。武家が政治の実権を握る保元・平治の乱はまもなくの頃である。社会には跳梁跋扈する輩は絶えなかった。合戦の勝者は敗者のすべてを奪う。
美作国久米南条稲岡の庄。そこは現在でも水田が広がり、ゆったり落ち着いたところで、当時も裕福な土地であったと推測される。逆にいい土地だからこそ、水の権利をめざして争うことになる。
勢至丸の父である押領使の漆間時国は、預所という庄園の責任者明石定明と対立していた。勢至丸が九歳の時、人生をくつがえす大事件が起こった。
保延七年(一一四一)春、「定明深く遺恨して」、時国の屋敷を夜討ちした。戦いは時国側の負けであった。受けた傷が深く、死期をさとった時国は、勢至丸を呼んだ。
『勅伝』第一巻にはこう記されている。
時国、深き疵を被りて、死門に臨む時、九歳の小児に向かいて曰く、「汝更に会稽の恥を思い、敵人を恨むることなかれ。これひとえに先世の宿業なり。もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」と言いて端坐して西に向かい、合掌して仏を念じ、眠るがごとくして息絶えにけり。
(聖典六・一一)
時国の遺言は、
「親の仇を討つのは、武士としての心構えである。しかし勢至丸よ、決して仇討ちをしようと思ってはならぬ。敵をうらむことがあってはならないぞ!
もし、お前が仇討ちに成功したとしても、また敵から復讐の的にされる。殺し合いの繰り返しじゃ。いつになっても終わることがあるまい。勢至丸よ、どうか早く僧侶になってくれ。わが身の迷いをとり、世の平和を願い、亡くなったあとのこの私をとむらってくれ」(著者意訳)
という意味を込めている。
戦争とは悲しいもの。勝っても負けても、不幸が訪れる。うらみはうらみを呼ぶ。報復は報復を呼ぶ。果てしない不幸の繰り返しを断ち切るものは、正しい信仰の力のほかはない。時国はそれをさとって、いまわの際に勢至丸に申し伝えたのだった。そして、この言葉こそ法然上人の生涯に通徹した教えであった。
法然上人も時代の子であった。合戦の敗者の子どもは殺されることも多かった。出家をすすめたのは、いくら政敵でも宗教家を殺すことはない、せめてこの子だけの命は助けてやりたいという親の気持ちであったかもしれない。
勢至丸はとりあえず、事件のあった年の暮れ故郷を離れ、約四〇キロ北へ行ったところにある那岐山菩提寺にあずけられ、叔父観覚から教育を受ける。敵の追っ手から逃れ、勉学しながら育つには、ちょうど良い環境だったといえよう。
それでも周りからは、いずれ成長したら漆間家をふたたび興してもらおうと期待がかかる。この時代、没落した家の再興への期待は当然のことであった。
しかし勢至丸は、出家をあえて決意した。
ほぼ同じ時期、同じ境遇にいた人物がいる。しかし彼は対照的な人生を歩んだ。
勢至丸の出来事の十八年後、平治元年(一一五九)に平治の乱が起こり、平清盛軍が勝利した。源氏の棟梁源義朝が討ち取られ、負けた義朝の子どもに、頼朝の他、八歳の今若丸、六歳の乙若丸、二歳の牛若丸などがいたが、いずれ僧になるという条件で殺されずにすんだ。牛若丸は母の常磐のもとで最初育ち、その後、「ただ法師になして、阿弥陀経の一巻をもよませたらば、亡き人の菩提をも弔ひなんと思ひて」(『義経記』巻第一)、鞍馬寺の別当東光坊に預けられる。東光坊は、父義朝が祈祷を頼んでいた師であった。牛若丸は「昼は終日に師の御坊の御前にて経を読み、書を習ひ、白日西に傾き、夜深更ふけゆきけれども、仏の御燈の消えざるをともに、物を読む」(同)ばかりに勉学に励んだ。
ここまでは勢至丸の情況とよく似ている。
しかしいつの日か、牛若丸は「いかなる天魔のすすめにてやありつらん、十五と申す秋の頃より、学問の心以ての外に変はりけり」(同)とまで、心変わりしてしまう。それは、源氏の不遇を悲しみ、平氏の繁栄を羨む、縁のものからの誘いの言葉であった。「それよりして、学問のこころをば跡形なく忘れはてて、明暮は謀反の事をのみぞ嗜み思召しける」(同)ばかりの牛若丸は、四方の草木を平家の一門に見立て、二本の大木に清盛と重盛とそれぞれ名付け、太刀を斬りつけるようになった。牛若のうらみの心を覚った東光坊は、何とか出家させようと画策するがかなわなかった。源氏の復活をつよく願う牛若丸は僧になることをやめ、鞍馬寺を脱出し、源義経と名乗って、武士として生きる道を選びとったのだった。
そして義経は、生き延びていた兄の源頼朝と組んで、源氏の再興をはかり、壇ノ浦で平家を滅ぼすことになる。しかし結局義経は、仲たがいした兄の頼朝に謀反の疑いをかけられ、仲間の裏切りにあい自害する。
法然上人と義経は、漆間家という地方武士と源氏という中央政権に与する名家という出自の違いはあっても、境遇は同じであった。しかし全く逆の道を選ぶことになった。二人の運命を分かつのは一点のみ、すなわち「うらみ」に対する抑止態度である。牛若丸は平家への恩讐を乗り越えなかった。
ところで、『平家物語』巻第十「戒文」には、南都炎上させ苦悶する平重衡に説戒する法然上人が登場する。重衡は一ノ谷の合戦で捕らえられ、京に送られた。その時京都警護役の責任者は義経であった。重衡の出家を許さず、「年ごろ契りたし聖」黒谷の法然房に面会することを許可したのが土肥実平と義経であった。法然上人五十二歳、義経二十六歳。二十六歳違いの二人は直接面識はなかったと思われるが、この時法然上人の名望を義経は承知していたものだろう。その五年後、義経は死す。「腸を散々に繰り出し」(『義経記』巻第八)とは、うらみの果ての切腹だったようだ。それでも義経は、「ただ念仏を申させ給ひて、一仏浄土に迎へ給へ申させ給へ」(同)と奥方に申して、来世往生を願うのであった。