四、信をもって能入となす
浄土宗布教師会東海地区支部 向山 瑞成
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義
宗祖大師法然上人「一紙小消息」に曰く。
「十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり。諸仏の中に弥陀に帰し奉るは、三念五念に至るまで、自ら来迎し給う故なり。諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。今弥陀の本願に乗じて往生しなむに、願として成ぜずということ有るべからず」(聖典六・三二八)と。
人間の生き方は、自分中心にできています。このことを「異生」といいます。
法然上人(幼名を勢至丸といいます)、御年九歳の春、すなわち保延七年三月十八日の夜、明石源内定明が、時国卿の館の無人なるを見計らって乱入いたしました(聖典六・一〇)。勢至丸の父、時国にとって思いもよらない不意の出来事でした。
定明の甥の明石太郎が時国の刃に倒れるのを見て、定明が時国を討たんとして、弓を引くのに馬上で仰向けになった時、その左目に勢至丸の放った小さな矢が刺さったのであります(聖典六・一〇)。そのまま下馬して流れの早い川で左目の血汐を洗った川が、今に言う片目川であります。深手を負った時国は、定明の一軍が逃げ去った後、今際の折りに勢至丸を枕元に呼び寄せ、次のように遺言されたと伝えられます。
「父は思いもよらない深疵を負ったため、間もなく、最期を遂げるであろう。しかしながら、これは前世からの報いであるから、決して敵を恨んではならない。もし父の仇を討とうとすれば、流転無窮にして、その争いは、輪廻絶えることはないであろう。将来は、出家して必ず父の菩提を弔って欲しい。そして自他平等の利益を祈って欲しい」と言い遺して、父時国は、面西念仏して果てたと言われます(聖典六・一一)。
この話をうかうかと聞きのがしてはならないでしょう。何故なら、仇を討つことを何で止めるのかと、疑問に思う人もあろうかと存じます。
私たちの日暮らしは、心口各異、言念無実「一人一日の中の所作、念々のうちに八億四千の念あり」と言います。念々に造る所の業、全て地獄への業ばかり、もし、弥陀の本願がなかったなら、私たちは如何にして安楽の生活をすべきでしょうか。
話はもとにもどりますが、定明はそのまま江波村という片田舎へ隠れてしまいました。その定明も、勢至丸が今に仇討ちに来るか来るかと怖れながら待っておりましたが、間者の知らせによりますと、勢至丸はそれどころか、父の遺言を守って大切に中陰を勤めておられるとの知らせ、これを聞いた定明は声を張りあげて泣きながら、時国卿を討ったばかりに、昨日まで時めいたこの身が、今はこのような片田舎の隠れ住居、怖ろしいのは未来の報い、この世で造った業報は、この世で酬いを受けたいと、勢至丸に頼み込んでみたものの、それも叶わぬと聞き、定明はそのまま出家されたと言われます。その時の歌に、
去りし夜にうるまを討ちし仇こそ
念仏称えて江波に待つなり
これをごらんになった勢至丸は、
称うれば、この世の人にはよもあらじ
念仏申せば、知識なりけり
とご辺歌なされたと伝えられます。
人間は、その行為によって救われもすれば、苦しむこともあるという考え方に帰着するのでありまして、お釈迦さまは、その初転法輪におきまして、「私は業論者である」と明言されて、人間とは、「行為的存在者」であるというのが、仏教の人間観であります。
それは、非常に「孤独」な姿であります。「業」とは「自分の行為に無限の責任」を持つという厳しい人間観であります。すなわち「自業自得」という教えの一つの説法として、あの芥川龍之介(一八九二~一九二七)の有名な『蜘蛛の糸』を挙げられるでしょう。
一匹の蜘蛛を助けたという小さな善業によって、地獄から極楽へ這い上がれるチャンスを得た「カンダタ」は、自分だけが助かりたいというエゴ(貪欲)から地獄の底に転落して行かねばならなくなります。
しかし「仏教の人間観」はこれに尽きるわけではありません。
唐の善導大師は『観経疏』の中で、「仏の大悲の心を学べ」と教え(聖典二・四)、その原典の『観無量寿経』では、「仏心とは大慈悲である」と言い、その大慈悲とは「無縁の慈をもって、諸の衆生と接する」と説かれます(聖典一・一六六)。
自分の背負う業の苦しさを自覚すれば、同時に他人の重い苦しい業に目が開いてくる。
自分に厳格であればある程、他人に対して慈悲の念が湧き出す。
この『蜘蛛の糸』の続きを次の様に綴った方がいらっしゃいました。非常に興味深いので紹介してみましょう。
「そのあくる朝のことでありました。おシャカさまはきのうと同じように、極楽の蓮池のほとりにおいでになりました。そして悲しそうなお顔で、水の底をとおして見える地獄のありさまを、じっとみつめておいでになりました。きのう助けそこねた、あのカンダタの苦しそうな姿が、またおシャカさまのお目にとまりました。
“何とか彼を救ってやる方法はないかしら?”
しばらく考え込んでおられたおシャカさまは、何と思われたか、急にきのうと同じように、極楽の蜘蛛が、蓮の葉に張っている美しい銀色の糸を手にお取りになって、それの一方の端を、蓮の花の萼(がく)に結びつけられると、一方の端を地獄の底へ向けてまっすぐにおおろしになりました。ところで、この蜘蛛の糸は、そんなに長くありませんでした。極楽の底から、ほんの十メートルほどしかたれ下がりませんでした。それだのに、おシャカさまは、すぐに上の衣をお脱ぎになって、軽い身になられると、その蜘蛛の糸を伝って、ご自分で、スルスルと下へお降りになりました。おシャカさまのおからだの重さで、蓮の茎はグッと曲がりましたが、不思議にも茎はそのためにちっとも折れそうでもありませんでした。
しかし、それよりも、もっと不思議なことには、おシャカさまが、その蜘蛛の糸を伝って十メートルばかりのその端へ達せられますと、こんどは、蜘蛛の糸の方が、結びつけられた根元から伸びて出て何万キロメートルもある地獄の底へ、ドンドンとおシャカさまのおからだをおろしていくのでありました。こうして、おシャカさまは、血の池地獄のカンダタの前に、お姿を現わされました。
“カンダタよ、お前はきのう、なぜこの地獄に、舞い戻ったのか、知っているか?”
“はい、私は自分ひとりでさえ切れそうに思ったあの細い蜘蛛の糸に、あんなにたくさんの罪人たちがつながったんでは、とうてい重みに耐えられないで切れてしまうと思って、ふり落としたからです。”
“お前は、それが無慈悲な仕打ちだとは思わなかったのか?”
“私は、あの時、私のことだけしか考えていませんでした。私は、いまでも、他人のことなど考えてやるだけの余裕がありません。”
“でも、お前は、いつか深い林の中で、あわや踏み殺そうとした、一匹の蜘蛛を助けてやったではないか?”
“はい、私にもいつかはそういう、優しい心がありましたが、いつのまにやら、私のそういう心は消えうせてしまって、いまではもう何とかして苦しい地獄からのがれ出たいということばかりを考えるようになりました。私の優しい心は、きのうの蜘蛛の糸のように、他人のしあわせを見るとすぐに断ち切れてしまうのです。”
“悲しい心だ。哀れな姿だ。それが地獄の罪人の正体というものであろう。時には、人間は優しい心もおこり、深い情けのわくこともあるのだ。しかし、それがほんとのいい心でない証拠には、必ずそれは長続きがしない。こんな地獄に住みたいとは誰も思わないだろう。人間がそんな冷たい心でおり、弱い心でいる限りは、地獄はどこまでもなくならないのだ。”
“ではおシャカさま、私はどうすれば、この地獄から救われるでしょうか?……。お願いですからもう一度、きのうのように、蜘蛛の糸をお下げになってください。もうこんどは、何人私の下にぶら下がっても、決して私は他人を蹴落とすようなことはいたしませんから。”
“それまたそういう嘘をいう。それだからお前は罪が深いのだ。お前には他人を救うような心は髪の毛ほどもないと、自分でいまさっき言ったところではないか?”
“悪うございました。私はもう嘘をつきました。ではどうすればよいのでしょうか?”
“他人のことなど考えてやるゆとりのない人間は、ただ、あの蜘蛛の糸の強さを信ずればよい。私にいわせれば、お前がこんなに不幸なのは、無慈悲であるからではなくて、その無慈悲のゆえに、極楽からおろされたあの蜘蛛の糸の力を信じきれないということにあるのだ。あの糸は極楽から私がおろしていたのだ。その力を信ずる者にとってどんなに強いかわからないが、信じてくれない者には、それはまた弱い弱い糸なのだ。このことだけは、私自身もどうすることもできない、不思議な糸なのだ。”
“信じます。信じます。どうかおシャカさまお救いください!”
おシャカさまは、ご自分の後ろにあった、蜘蛛の糸を右のお手でお握りになりますと、左手をカンダタの方へ差し伸べて、彼の片方の手をしっかりとお
把みになりました。
すると蜘蛛の糸は、スルスルと引っ張り上げられて、いつの間にかカンダタは空高くに浮かびあがりました。
ところが驚いたことには、きのうと同じように、カンダタの両足の下に、たくさんな罪人たちが数珠つなぎになって、ぶら下がっているではありませんか!
しかしもうカンダタはあわてませんでした。蜘蛛の糸の強さを信じて、おシャカさまにしっかり把まれているカンダタにとっては、もはや他人を蹴落とす必要がなくなってしまいました。彼がりっぱな慈悲深い人に変わったのではありません。無慈悲な彼が、蜘蛛の糸の強さを信ずるがゆえに、そのままに他人に迷惑をかける必要がなくなったのです。
こうしていつのまにか、カンダタは極楽の蓮の池のかたわらにたっていました。一緒に引き上げられた友だちが、彼の前に額をすりつけて、お礼を申しました。おシャカさまのお姿も、そしてあの蜘蛛の糸も、もうそこらには見当たりませんでした。
カンダタは夢からさめたような心持ちで、両掌を合わせながら蓮池の花に見入りました。花からは相変わらず、何ともいえないよい香りがただよいました。
もうお昼に近い極楽には、明るい光線(ひかり)がまぶしいばかりにみなぎっていました。カンダタの目には一杯の涙がたまっていました。
(金岡秀友『ひとりでは生きていけない』、道心叢書、二〇~二五)
最近の日本も、非道な事件が多すぎるような気が致します。九四年六月の「松本サリン事件」、これはサリンを散布して死者七人、重軽傷者六〇〇人を出して以来、日本国中を震撼とさせたオーム事件(1)は、私たちの記憶に新しい。近くでは秋田県男子殺害事件(2)、大学生暴行事件(3)、奈良県での十六歳の男子が、母兄弟三人を死亡させた火災事件(4)、人口の問題(5)。これは国をあげて考えねばならない深刻な事態であろうかと思います(毎日新聞、平成十八年六月二十三日、一面)。
(4)の事件は、家中に家庭教育、学校教育の両面のむずかしさのあることを意味します。そして最近、簡単に「キレル」子供たちの姿と、普段は誰からも親われている優しい姿が必ずといっていい程浮かび上がってくる。出てくる問題は相当の割合で成績の件であることです。子供に無理を強いることが多いのでしょうか? それとも「気ままに過ごしたい」若者が増えているのでしょうか? しかし、後者の方が多い気もするのですが、そうすると、仏教の説く「忍耐」の教えはどうしても受け入れられなくなるでしょう。
忍耐がなくなると、慈悲心の問題が取り上げられるでしょう。「仏心とは大慈悲」であるという経文がクローズアップされて以来、相当年月が過ぎています。相当数の若者は、そうでないとしても、この「自分さえ良ければ」とする日常行為が、中年の親の中にも多くなっていることは確かであります。
人間の三煩悩(貪瞋痴)の中で、「貪」(エゴイズム=自分さえよければ)とする心が、全ての事件の発端でありましょう。
西方極楽浄土は、十悪の衆生、五逆罪を犯した罪人でも生まれ得る世界であり、法然上人の父、時国卿を夜討ちにした、明石源内定明も、全て「貪」より発った事件でありました。 蜘蛛の糸は「アミダ如来」の大慈悲でありその力を信じてこそ救われ得る極楽なのでありましょう。
定明、逐電の後、その罪を悔い、当来の苦を悲しみ、念仏怠らず、往生の望みを遂げたと伝えられます(聖典六・一二)。